33.テンション!

「お茶の一杯でも出すのが礼儀だったよな」

「そのとおりっすね」

 俺はインスタントのコーヒーを淹れると、ブラックのまま実相寺に出してやった。

 ここ数日、陽向と食事をするためだけに使われていたリビングのテーブルは、ようやく本来の役目である打ち合わせ用のテーブルになったってわけだ。

「先輩、ミルクが欲しいんすけど」

「そんな上等なものがあるかよ。お前、普段はブラックだろ」

「いやー、仕事で会う人の前ではカッコつけてブラックにしてるだけっす。ホントは苦手」

「なんだそりゃ」

「あたしは、苦いコーヒー飲めませんウルウル、みたいな可愛い女子ブランディングでチヤホヤされたくないんすよ。おじさんはすぐに甘やかすから」

「ろくなやつと仕事してねえな」

 実相寺の言っていることもわからなくもない。

 そういうポジションをつくって、巧妙に下心を利用するやり方もあるからな。オタサーの姫に近い。自分より実力もキャリアもあるやつをうまくコントロールできると、それがそのまま自分の実績になる。

 若くして派手に賞を取った美人コピーライターのコピーを、実際は広告賞常連のベテランが添削という名目で書いていたなんて話はよくあることだ。

 だが、俺は決してそれが悪いとは思わない。

 狭い業界でおいしい仕事にあり着くためには、肩書きや箔が必要なんだ。

 そのためにどんな手段であれチャンスを掴みにいくことを、俺は否定なんてできない。

 三振だろうとホームランだろうと、打席に立たないことには始まりやしない。

 苦笑しながら冷蔵庫を開けると、陽向が買ってきた牛乳があった。

 俺はそれを手に取った。

 ついでに冷蔵庫に貼りつけられている、家事分担のタスク表を剥がしてゴミ箱に投げ捨てた。

 こんなもの実相寺に見られた日には、もう一段階ややこしいことになるのは目に見えてる。

「牛乳で我慢しろ」

「剥き出しのパックもってくるなし」

 実相寺は顔をしかめたものの、コーヒーがなみなみと入っているマグカップに、一リットルのパックから慎重に牛乳を注いだ。

 俺はその様子を見ながら、彼女と向き合うかたちでイスに座った。

「で、用ってのはコンペの件か――」

「そうっす。オリエンは来週あるんすけど。先輩、同じ案件で氷室星夏から声かかってますよね?」

「……どこから仕入れたんだよ、その話」

「狭い業界なんで、ツテがあれば競合相手の情報くらい手に入るんすよ。向こうはうちなんて眼中にないと思いますけど」

 実相寺はマグカップを両手で抱えるようにしてもつと、コーヒーをちびちびと飲んだ。

 マグカップ越しに、ジト目で俺を睨んでくる。

「で、先輩。まさか氷室星夏と組むつもりじゃないっすよね?」

「〈ランドマークス〉はコンペフィー出すって話だしなあ」

「そういうことじゃないんすよ!」

 実相寺がマグカップを勢いよくテーブルに置いた。

 いや、全部じゃないとしても、コンペフィーは大事だろうが。

 とはいえ。

 俺もそういうことじゃないことは、本当はわかってる。

 氷室星夏と組むべきかどうかと聞かれれば、俺は正直なところビビっちまってる。

 彼女は俺を本当に必要としているのかも知れないが、それは過去を美化しているだけで、いまの俺が期待に応えられるとは到底思えない。

 肩を並べて仕事をすることが、怖いんだ。

 それに、なぜか氷室が陽向を保護している状態になっているから、そっちはそっちでさらにややこしい。

「先輩、氷室星夏からコンペ以外になにか言われませんでした?」

「い、なにも言われてないが……?」

 俺はあからさまに動揺した声を出してしまった。

「言われたんすね」

 実相寺はジト目はそのままに嘆息した。

 ああ、言われたよ!

 寄りを戻したいってな。

「彼女、最近はあまり大きい仕事やってないんすよ。まあ、いままでヤバいくらいに案件こなして、広告賞をバンバンとってきたんで、ちょっと休んでるだけかもなんすけど。案件セーブして、独立する準備してるんじゃないかって。今回の競合コンペだって、普通は氷室星夏なんて大物が出てくる案件じゃないっすもん」

「独立?」

「あくまで噂っすけど」

 そんな話は初耳だった。

 氷室は仕事から楽しさがなくなった、と言っていた。

 大きい仕事をやっていないのはそのせいだ。

 俺にはわからないようなわずかなクオリティの低下を、〈ランドマークス〉にいる連中なら気づくだろう。

「先輩、一緒に独立しようって誘われたんすか?」

「は?」

 俺は予想外の言葉に間の抜けた声をもらした。

 そんなわけあるかよ。

 仮に氷室が独立を考えていたとしても、俺なんて誘うわけないだろうが。

 名前と実績で仕事を取ってくる必要があるのに、そこに有象無象でしかない俺の名前があるだけでマイナスプロモーションになっちまう。

「あれ、違います?」

 俺の反応を見て、実相寺は自分の言葉が見当違いであったことに気づいたようだった。

「ないない。それに氷室はそんなこと考えちゃいない。ちょっと疲れたとは言ってたけどな」

「それで仕事セーブしてるんすか?」

「さあな。俺と氷室は何年も会ってないし、連絡もしてなかったんだぞ? 込み入った事情まではわからん」

 あいつは、なにかをきっかけにして仕事の楽しさを再発見したいだけだ。

 俺はそう思ったが、口には出さなかった。

「え、じゃあ先輩はなにを言われたんすか?」

「なに?」

「だから、コンペの話以外になにか言われたんすよね?」

「……」

「先輩?」

「ナニモイワレテナイネー」

「ウソつくなし。明らかな棒読みじゃないすっか」

「……」

「セ・ン・パ・イ?」

 じっとりとした実相寺の視線が、俺を逃さない。

 いやな汗が、背中に滲むのがわかった。

 とんだ藪蛇だった。

 動揺を隠せなかった自分自身が悔やまれる。

 俺は警察官の厳しい取り調べに観念して完落ちする容疑者よろしく、嘆息とともに肩を落とした。

「氷室からは寄りを戻したいって言われただけだ」

「はー!?」

 実相寺が勢いよく立ちあがった。

 険しい表情で俺を見下ろし、びしりと指を突きつけてくる。

「なんすかそれ! なんすかそれ!」

「落ち着けよ」

「落ち着けるかー!」

 実相寺が虚空に向けて叫んだ。

 やめてくれ、上の階の人に怒られる。

「自分が売れたら何年間も先輩のこと放っておいたくせに!」

「ウソみたいな話だろ? あの氷室星夏が、昔みたいに俺と組んで仕事したいってだけでもびっくりなのにな。笑っちまうよ」

 俺は本当に笑ってしまった。

 改めて口にすると、本当に妄想としか思えないような話だった。

「はー、もう」

 実相寺は「へっ」とやさぐれた顔になって、イスにどかっと座り直した。

 そのまま煙草を咥えて、マッチで火をつける。

 気持ちを落ち着けるためだろう。

「ふー」

 天井を仰ぎ見ると、実相寺は盛大に紫煙を吐いた。

 俺はのろのろと立ちあがると、禁煙してからこっち使っていなかった灰皿を引っ張り出してきて、彼女の前に置いてやった。

「ありがとうございます」

 実相寺はそのまま煙草を咥えていたが、半分くらいまで吸ったところで灰皿に押しつけた。

「どうせ青い鳥が近くにいたことに気づいたんでしょうけど。そんな話を仕事と一緒にもってくるなんて、氷室星夏はホントずるいっす」

「ずるいかどうかは知らんけど、仕事の話だけもってきてほしかったよ」

「いーや、ずるいっす。だって、二人が昔みたいに一緒に仕事をするってことは、寄りを戻すのとセットじゃないっすか。公私ともに元に戻りましょうって話」

「まあな……」

 氷室はアートディレクターの彼女と、一人の女の子としての彼女は違うのだと言った。

 だが、俺と氷室はかつて同じ時間を共有しすぎた。

 それこそ――マグカップに注がれたコーヒーと牛乳のように、混ざり合って元には戻らないほどに。

 俺は氷室と、仕事だけ、あるいはプライベートだけ、といった割り切った関係性をつくれる気がしない。

 少なくとも俺は、そう思ってる。

 氷室は分離する方法を見つけたのかも知れないけどな。

 それはきっと。

 先に進んでから後ろを振り返った氷室星夏と、ずっと新宿の場末の喫茶店にいた俺との違いなんだろう。

「でも、先輩」

 実相寺が、視線を俺に合わせてきた。

 猫のような気まぐれな目が、俺を見つめてくる。

「その様子だと、元カノホイホイに引っかかってないみたいでなによりっす」

「言い方の悪意よ」

「自己評価低い先輩のことだから、氷室星夏と自分を比べちゃって二の足踏んでるんすよね?」

 テーブルに両肘をつくと、実相寺はほっそりとした顎を手の平に乗せた。

 口元を「ω」みたいにして、にやにやしている。

「返す言葉もねえよ」

「でもね、先輩。それはまだ、先輩のなかに燻ってるんすよ」

「なにがだよ」

「情熱」

 真剣な表情で、静かな声で、実相寺は言った。

「モノをつくることを仕事にしている人間の、魂」

「おいおい」

 俺は苦笑した。

 そんなものは、とっくの昔に忘れちまった。

 そう言おうとして、だが実相寺のほうが先に口を開いた。

「先輩。ホントは、心の奥底では、思ってるでしょ。自分はもっとやれる。彼女と一緒に仕事するのに相応しいくらいに、評価される仕事ができる」

「馬鹿言うな、俺は――」

「いいや、思ってます。そうでないなら、氷室星夏と一緒に仕事をすることに、なにも感じない。死んだ魚の目で、ほいほいやってりゃいいんすから。そこには羨望も、嫉妬も、劣等感も、なにもない」

 彼女の黒い瞳が、ずっと俺を捉えている。

「氷室星夏と自分を比べちゃう時点で、クリエイターとしての先輩の魂は死んでない」

「冗談きついぜ」

 俺のなかにまだ残っている、ほんのちっぽけなプライドの正体がそんな大層なものだとしたなら、とんだお笑いぐさだ。

 氷室が〈ランドマークス〉に入社してからこっち、彼女の華々しい仕事を横目に、ドブ攫いみたいな仕事で食いつないできたんだ。チャンスの女神の前髪を掴もうと躍起になっていたころの気持ちとは、もう十分に折り合いをつけた。

 いまにして思えば、だからこそ氷室から連絡がきたときに、会ってみようって気持ちになったんだろう。いくら仕事に困ってるからって、彼女の成功にいちいち心をざわつかせていたころなら、絶対に会わなかったはずだ。

 だってのに。

 こいつはなにを言い出すんだよ。

「先輩、やりたいことやればいいんすよ」

 実相寺の表情が、普段よりも随分と大人びて見えた。

「あたし言いましたよね。一緒に氷室星夏に勝ちましょうって」

 まるで契約をもちかける悪魔のように笑っている。

「そうすれば、少なくとも氷室星夏と自分を比べてあれこれ悩むのからは解放されますよ。先輩に必要なのは、自信なんすよ」

「負けたら?」

「死にます」

「おい」

「自分にはチャンスが回ってこないっていう逃げ道もなくなるんで。最後に残ってたプライドも粉砕されて、クリエイターとしての魂は死にます」

 実相寺は胸の前で手を合わせた。

 にっこりと笑う。

 悪魔の笑顔。

「大丈夫っすよ。そのときはあたしが責任とって、きちんと生活していけるだけの仕事渡しますし。なんなら一生面倒見るっす。いろんな意味で」

「なにが大丈夫なのか、ちょっとよくわからない」

 俺は嘆息とともに腕を組んで目を閉じた。

 眉間に皺が寄っているのがわかる。

 実相寺が言っていることが、すべて正しいってわけじゃない。

 別にコンペに負けたって、死にやしない。多分な。

 だが、これは俺自身の問題だ。

 もう、いまのままでは。

 昔の気持ちに折り合いをつけて、新宿の場末で仕事をこなしているだけでは、にっちもさっちもいかないのかもしれなかった。

 とっくの昔に忘れたつもりだった情熱だとか魂だとかいうものが、俺のなかにまだ燻ってるというのなら。

 そこに火をつけるか。

 鎮火させるしかない。

 結果として。

 氷室と肩を並べることになるのか。

 実相寺の飼い犬になるのか。

 それはわからないが。

「……やりたいことをやればいいか」

 俺は目を開けた。

 実相寺は相変わらず笑顔だった。

 メフィストフェレスが現実にいたら、きっとこんな表情をしているに違いない。

「実相寺よ」

「はいっす」

「お前の口車に乗ってやるよ」

「んふ。その気になってくれて嬉しいっす。ホント、先輩は手がかかりすぎ」

 いつもの小悪魔な表情に戻り、実相寺はわざとらしく肩をすくめた。

「一緒に氷室星夏に勝ちましょうね、先輩。えいえいおーっす!」

「簡単に言うなよ」

 拳を突きあげる実相寺に、俺は低い声で応えた。

「あっちは戦車、こっちは竹槍みたいなもんだぞ」

「テンション!」

 拳はそのままに、実相寺が叫んだ。

「そんなんじゃあ、勝てるものも勝てないっす」

「テンションで勝てりゃあ、世話ないぜ」

「そうやって斜に構えるのはよくないっすよ。先輩は斜りすぎなんすよ」

「妙な言葉を使うんじゃないよ」

 本当にこれでよかったのかという気が、いまさらながらにしてきた。

 俺は自分のコーヒーも用意しようと思い、のろのろと席を立った。

 同時にインターフォンが鳴る。

「?」

 別に通販でなにかを買った覚えもないんだが。

 俺が心当たりを考えていると、なぜか実相寺が玄関に向かおうとした。

「はいはーいっす」

「おい、勝手に出るな」

「いいじゃないっすか。先輩とあたしはもう一心同体みたいなものっす」

「どんな理屈だよ」

「これからあ、身体も心も溶け合うんすよお」

 実相寺がドアを開ける。

 そこには二十代前半くらいの、見知らぬ女が立っていた。

 そして。

「初めまして」

 その女の言葉に、俺はぎょっとした。

「鹿島葵と申します」

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