第6話

32.コンプライアンス!

 工事の音がうるせえな、と俺は無意識に感じた。

 がんがんがん、というなにかを殴るような音が聞こえてきている。

「……っ?」

 目を開けた。

 部屋はすっかり暗くなっていた。

「マジかよ」

 わずかな時間で色々ありすぎて精神的な消耗が激しかったのだろう。

 俺はソファで寝落ちしていた。

 気がつけば太陽が沈み、半日を無駄にしていた。

 のろのろと身を起こし、室内灯のスイッチを入れてカーテンを閉める。

 

 がんがんがん!


 という音に、俺はびくりと肩を震わせた。

 夢ではなく現実だった。

 しかも、明らかにうちのドアが叩かれている。

「せんぱーい! 生きてますかー?」

 続けてそんなくぐもった声が聞こえた。

「可愛いJDの後輩がきてあげたっすよー! いまならおっぱい揉ませてあげますよー!」

「おおいっ!?」

 寝起きで少しぼんやりしていた意識が一気に覚醒し、俺は勢いよくドアを開けた。

「とんでないこと口走ってるんじゃねえぞ!」

「あ、いるじゃないっすか。もっと早く出てきてくださいよ」

 そこにはいつもの調子の実相寺真夏の顔があり、俺を見るなり小悪魔みたいに笑った。

「危うくもっと過激なことを叫ぶところでした」

「俺のご近所の評判を地の底にまで落としたいのか、お前はよ」

「いやいや。まっとうな仕事してない先輩の評判なんてたかが知れてるっす」

「……返す言葉もねえよ」

 俺は深く嘆息すると、頭をがりがりとやった。

 実相寺は口を「ω」みたいにして、あざとい上目遣いで俺を見ていた。

「で、なんの用だ?」

「もー、先輩に連絡しても全然反応がないから、心配してきてあげたんじゃないすっか」

「連絡?」

 スマホをソファに放り投げたまま寝落ちしていたせいで、まったく気がつかなかった。

「悪い。寝てた」

「おー、自堕落な生活してますね。人としてちょっと心配になるっす」

「今日はいろいろあって、精神的にきてるんだよ。生存確認できたなら帰ってくれ」

「まあまあ」

 実相寺が手慣れた様子で、ドアの隙間にショートブーツの爪先をねじ込んでくる。

 闇金の取り立ての仕事でもやってんのか?

「心配してやってきた可愛い後輩には、立ち話もなんだからお茶の一杯くらい出すのが礼儀ってものっす。それに連絡したんだから、ちゃんとした用事があるんすよ」

「明日でいいだろ、明日で」

「お茶の一杯はいまなんすよ」

「そっちかよ!」

「先輩はマジで、あたしを軽く扱いすぎっすよ」

「そもそもなんで俺の家を知ってるんだよ。名刺にだって住所書いてないんだぞ」

「弓削さんに聞いたら教えてくれました」

「コンプライアンス!」

 しばらくドアを挟んで実相寺と押し問答をしていたが。

 まったく譲る気配を見せないので、俺は仕方なくドアを開いた。

「わかったよ。用がすんだらさっさと帰れよ」

「いやいや、終電なくなる可能性もあるじゃないっすか」

「ねえよ」

「予備の歯ブラシとかあります? なかったらコンビニで買ってこないと」

「人の話を聞け」

「お邪魔しまーす」

 実相寺は脱いだショートブーツをきれいに揃えると、遠慮なく奥へと進んでいく。

 その背中を見ながら、俺は致命的なミスに気づいた。

 自宅兼事務所の打ち合わせスペースになっているリビングには。

 ハンガーに吊るされた陽向の制服があるんだぞ!

「実相寺、ちょっとまて!」

 慌てて後を追いかけるが、最早手遅れだった。

「へー、割とキレイにしてる――」

 リビングに足を踏み入れた実相寺の声は、そこでぴたりととまった。

 なにが起きているのか容易に想像がつき、俺は頭を抱えた。

 案の定、実相寺は硬直した様子で制服を見つめていた。

「――先輩」

 こちらを見ることなく、彼女は言った。

 いままでの陽気な声とは一転して、寒々しい声だった。

 殺し屋が本当に存在しているのだとしたら、標的を仕留めるときはこんな声になるのではないかと思う。

「実相寺、話を聞いてくれ」

 とは言ったものの。

 女子高生の制服が部屋にあることを正当化できる理由を、俺は知らない。

 ましてや世羅陽向のことを話したところで、あいつがJKであることは変わりないからな。独身アラサー男の部屋に、女子高生の制服があるという事実は覆らない。

 詰んだ!

「こういう趣味だったんすね」

 実相寺が、ゆっくりとこちらに向き直った。

「いや、はっきり言ってキモいです」

 そうだろうな。

「AVとかエロ漫画じゃないんすから」

 わかってる。

「これはちょっとマジで、性癖ヤバいっす。犯罪者一歩手前」

 もうやめて。

 俺は床をのたうち回りたい衝動に駆られたが、どうにかしてそれを堪えた。

 実相寺はゴミクズを見るような視線を俺に投げかけてきていたが、やがてわかり易く肩を落とした。

 大きく嘆息して、やれやれ、と言った顔になる。

「いやー、でもよかったす」

「なに?」

「先輩って、ひょっとして女の子に興味ないんじゃないかと思ってたんで。あたしの脈ありサイン、ずっと無視するんですもん。さすがにどうかと思うっす。先輩くらいっすよ、ホントに。あたしはこれでも結構モテるんで」

「なんの話だよ……」

「こんな制服を家に呼んだデリ嬢に着せてる場合じゃないって話っすよ」

 実相寺は腰に両手を当てると、胸を張ってそう言ってきた。

 まったく別方向の解釈をしやがって。

 俺はもう目眩で倒れそうだった。

 いっそ倒れたい。

「そういうことなら、あたしに言ってください」

 訳のわからない申し出に、俺はこめかみの辺りを押さえた。

「ちょっとなにを言ってるかわからない」

「だからー、あたしが着てあげますって。まだ現役でも通用すると思うんで。こういう清楚な感じよりは、ギャルっぽいほうが似合いそうではあるんすけど」

 ハンガーに吊るされている制服を観察しながら、実相寺はにやにやと笑った。

「あ、でもギャップ萌えします?」

「しねえよ」

「もう、なんなんすか。デリ嬢には興奮するのに、あたしには興奮しないとでも?」

 唇を尖らせて、実相寺が「むー」と眉間に皺を寄せている。

 確かに現役でも通用しそうだ。

 きっとオタクに優しいギャルに違いない。

「実相寺、お前なあ」

 俺は頭をがりがりやった。

 実相寺真夏をそういう対象として見るのなら、興奮しないわけはない。

 こいつが自分でも言っていたように、モテるのもわかる。

 可愛いし、明るくてノリもいいし、割り切った関係もオーケーしてくれそうな雰囲気もあるし。ろくな男が寄ってこなさそうではあるが、実相寺はその辺りを見る目は厳しそうでもある。

 友達になるハードルは低いが、落とすのはかなり難しい。

 実相寺真夏は、そんなタイプのような気がする。

「俺をからかってないんだとして、一体どこがいいってんだ。お前の言ったとおり、まっとうな仕事してない、底辺フリーライターだぞ?」

「どこって……」

 実相寺は目線だけを俺から逸らした。

「言ったじゃないすっか。あたし、先輩の仕事ずっと見てました」

 ぼそぼそと言ってから、息を呑む。

「弓削さんに言わせれば先輩の仕事は、五〇点でいい仕事を七〇点にする仕事ですけど」

「そんなことは誰だってできる仕事だよ」

 実際問題、五〇点が七〇点になったところで誰も気にしない。

 逆に五〇点が三〇点になっても同じことだ。

 俺に回ってくる仕事は、所詮はその程度のものだ。

 話題になることもないし、後世に残ることもない。

 毎日無数に生み出されている有象無象のなかのひとつでしかない。

 だが。

 まだ俺が何者かになれると信じていたころ、チャンスを掴もうと躍起になっていたころ。

 どんなゴミみたいな案件でもできる限りのことをしていた。どこにチャンスが転がっているかわからないし、誰が見ているのかわからない。

 誰も気づかない二〇点の差に、誰かが気づいてくれることを期待していた。

 誰かが見ているのは、一〇〇点の仕事を一二〇点にする仕事だけだということに気づいていなかった。

 あるいは――自分が誰かに気づいてもらえる仕事ができる何者かではないのだと、認めたくはなかった。

 それくらい青臭かったし、アホだった。

 だというのに、俺はまだそんな仕事を続けている。

 死んだ魚の目で。

 誰に知られることもなく。

「先輩は自己評価が低すぎなんすよ」

 実相寺は逸らしていた視線を、再び俺に向けた。

 上目遣いになり、はにかむ。

「先輩の仕事には誠意があります」

「冗談きついぜ」

 思ってもない言葉に、俺は閉口した。

 だが、実相寺の表情は真剣だった。

「先輩はどれだけ文句言っても、手は抜かないじゃないっすか。どうしようもない案件でも、やれる限りのことはしてくれる。三〇点にはしない。それは誠意ですよ。そんな仕事をする人は、素敵だなって。そう思ったら――」

 そこまで言って、彼女は逡巡した。

 一拍置いてから、言ってくる。

「いつの間にか好きになってました」

「本気で言ってんのかよ……」

「マジっす」

 実相寺はいつもの小悪魔みたいな笑顔ではなく、唇を軽く噛んで不安そうに視線を彷徨わせていた。

 俺は氷室星夏の仕事をずっと見てきて、連絡をすることもなかった数年間のがんばりをなんとなくわかっていた。仕事をとおして会話をしていたと、俺は彼女に言った。

 だというのに、自分の仕事が誰かに見られているなんてことは考えもしなかった。

「うー、ホントはこんなこと言うつもりできたわけじゃないんすけど」

 実相寺はお腹の辺りで両手の指を組むと、そわそわと身体を動かしていた。

「言っちゃったものは仕方ないんで、これからはあたしのことむちゃくちゃ意識してください。これからはあたしをそういう対象として見てくださいね、セ・ン・パ・イ。エッチな自撮り送ります」

「勘弁してくれ……」

 胃が痛くなりそうだ。

 はっきり言って、仕事にそういう感情をもち込むとあまりうまくはいかない。

 そういう意味では、氷室は特殊だった。クリエイティブへの執着を、恋愛感情なんかで妥協しようとはしなかった。

「ダメっす。先輩が悪いんで。ホントは自己評価が低すぎな先輩と一緒にした案件で華々しい賞でも取って、自信をつけてもらって、俺には真夏しかいないんだ、真夏しか勝たん、ということを植えつけてから言おうと思ってたっす」

「いや、お前、怖いんだが……?」

「そうでもしないと先輩はずっと氷室星夏にコンプレックスもったままなんすよ」

 実相寺は大きなため息とともに、いつもの表情に戻っていた。

「だから、あたしはそうする」

 妙な自信があり、ふてぶてしく、どこか魅力的な小悪魔の表情。

 両手を腰に当て、彼女は言った。

「先輩、この前のコンペの話、氷室星夏からも声かかってますよね?」

 それが、こいつがここにきた本題だった。

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