31.思い出は元カノ特権なのよ

「んー? 返信がこなくなったな」

 星夏は反応のなくなったスマホを、ジーンズの尻ポケットに入れた。

 マンションのエントランスに入る前に、短くなった煙草の火をポケット灰皿で消す。

 小さく嘆息をしてから、彼女はエレベーターの「▲」パネルを拳で軽く叩いた。

「まったく。善人になっても、損をするだけなのよ」

 家出してきている女子高生に家庭の事情がないわけはなく、世羅陽向だってきっといろいろと複雑な事情があるのだろう。自分の名字を好きではないと言ってしまえるくらいには。

 きっと彼のことたがら、それをわかっていて家に帰してしまうことにあれこれと悩んでいるに違いないのだ。ちょっとした情だって沸いているだろう。

 だが、それは間違いだと断言できる。

 拾ってきた犬猫じゃあるまいし、そんな気持ちでどうにかなるほど世の中というものは優しくはないのだ。

 家出してきた女子高生は、警察に保護してもらって、親元に帰す。

 それが誰からも文句が出ない、最良のやり方だ。

 正確には――世羅陽向以外からは文句が出ない、最良のやり方だ。

「私はそうする」

 星夏は九階の自室に戻ると、新しい煙草を取り出した。

 咥えようとして、ぴたりと手をとめる。

 リビングから歌声が漏れ聞こえていた。

 それは星夏が知らない言葉だったが、陽向が歌っていることだけはわかった。

 どこか儚く、物悲しい、メロディーだった。

「上手ね」

「ひょっ!」

 びくりと肩を震わせて、陽向が奇妙な声をあげた。

「び、びっくりさせないでください」

「驚かせるつもりはなかったのだけれど」

 星夏は肩をすくめると、指に挟んだままだった煙草を起用に弄んだ。

「聞いたことがない歌ね」

「子どものころ、パ――父がよく聞いていて。それで覚えてしまったんです。なんだか、ついつい口ずさんでしまって。母はあまり好きではないみたいですけど」

「そう」

 星夏は弄んでいた煙草を咥えた。

 陽向が抱えている家庭の事情を聞いてしまうと、自分も少しは情が出てしまうかもしれない。

 だから、彼女はそれ以上、深くは聞かないことにした。

「ありがとうございます」

「なにが?」

「褒めてくれたのは、星夏さんが二人目なので」

 陽向が少し照れたようにして笑う。

 勘弁してよ、と星夏は思った。

 客観的に見て、世羅陽向はむちゃくちゃ可愛い。

 そして単に可愛いだけではなく、同性でも惹きつけられる魅力がある。

「桜井さんも褒めてくれたので」

「へー、ほー、へー」

 星夏は煙草に火をつけた。

 肺に吸い込んだ紫煙を、ため息とともに吐き出す。

 眼鏡の奥の瞳に剣呑な光を宿し、彼女は言った。

「それで好きになったの? チョロかわ」

「ち、違うので……! わたしはそんなにチョロくないので」

「へー、ほー、へー」

 星夏がローテーブルに向き合って座ると、陽向は視線を逸らして自分の顔を両手でぱたぱたとあおいだ。

「そんなわかりやすいきっかけで、誰かを好きになんてならないですから」

「まあ、そうね」

 自嘲気味に、星夏は独りごちた。

「気がついたらそうなっているものよね」

「……星夏さんは」

「んー?」

「星夏さんは、彼のどういうところが好きなんですか」

「どこって……どこかしら」

 そんなこと考えてもみなかったな、と星夏は思った。

 彼女自身が言ったように、気がつけばそうなっていた。

「私と彼とは同志みたいなもので、自然とそうなっちゃった」

 氷室星夏は専門学校卒のデザイナー志望で、大手広告代理店のクリエイティブ職の新卒採用は、美大や芸大の出身でなければ応募すらできなかった。

 彼女は小さな制作会社に入社して、美大卒を鼻にかけてくる先輩デザイナーをぶん殴ってすぐに辞めた。実力も、実績も、コネもないフリーの女性デザイナーに下心なしに仕事を回してくれたのは、〈5T〉の弓削晋作くらいのものだった。

 彼と初めて仕事をしたのも、弓削から紹介された仕事だった。

 桜井恭平はまだ大学生で、そのくせ大学よりも〈5T〉の事務所にいる時間のほうが長かった。よく卒業できたものだ。

 不思議とウマがあってよく仕事をしたし、公募のコンペにも手当たり次第に応募した。

 お互いに、仕事も、実績も、お金も、なにもない。

 そのくせ自分は何者かになれるのだと思っていた。

 なにもなかったけれど、毎日が楽しかった。

 星夏にとって、青春というものがいつなのだと問われれば、それは間違いなく彼と過ごしたどん底時代のことだった。

「でも、恭平君はいつも最後は損をしていた。欲がないわけではないけれど、根本は善人だし、優しいし、利他的だからね」

 いつの間にか短くなっていた煙草を灰皿に押しつけると、星夏はのろのろと立ちあがった。

 寝室のベッドの下から、古びたファイルをもってくる。

 陽向が不思議な顔をした。

「なんですか、それ?」

「私がいまの会社に入るときに面接にもっていったポートフォリオ」

 分厚いファイルには、彼女がフリーの時代に制作したクリエイティブがまとめられていた。チラシやフライヤー、小さなスペースの雑誌広告、ポスター、ロゴデザイン、ウェブのバナー広告、あれやこれや。

 どれも拙くて直視できるものではなかったが、当時はこれが精一杯だった。

 だが。

 星夏はファイリングされた作品から、目的のものを見つけた。

 毎日広告デザイン賞の一般公募の部で、最高賞を取った一五段の新聞広告。

 それはほとんどアート作品で、公募だからこそ試せる実験的なものだった。賞のために課題を出している企業のロゴも、商品も、キャッチコピーも、まったく印象に残らない。だが、それでいてデザインの力だけで成立している作品だった。

 実際の仕事だったなら、こんなものはつくれない。

 これだけは。

 これだけは、いまでも直視できる。

「私はこれでチャンスの女神の前髪を掴んだ」

 陽向はぽかんとした表情でその作品を見ていたが、

「あ……でも、これって」

 こちらが言いたいことに気がついたようだった。

「そう。コピーは恭平君が書いたの。本当はもっとコピーを立たせるデザインにもできたし、広告らしい立てつけにもできた。けれど、私はそうはしなかった」

 そう言った自分がどんな表情をしているのか、星夏にはわからなかった。

「これが一番いいと思ったから。私にとっては」

 根っこの部分で、彼女は自分のことしか考えていなかった。

 彼はそれを許してくれたし、星夏はそんな彼に甘えていた。

「私たちは毎回、ケンカをしていた。これ以上コピーを立たせたらデザインが台無しだとか、デザインの主張が強すぎてバランスがおかしいだとか。笑っちゃうでしょう? 言うことだけは一人前だった。でも、彼はいつも最後は私に譲ってくれた」

 言い争いをしたあとに、仕方ないな、という顔をする彼を思い出す。

 いつもいつも、桜井恭平は自分以外の誰かのことを考えていた。

 それは別に星夏相手に限ったことではなくて、だからずっと貧乏くじを引くはめになっていた。

 誰かを踏み台にして、周りに少しずついやな思いをさせて、それでも我をとおしてクリエイティブを仕上げるということをしなかった。

 けれど、いまならわかる。

 そんなことは一握りの本物の天才だけに許される。

 天才のふりをしている星夏のような秀才は、人知れず誰かが支えてくれているから、天才のふりをしていられる。

 一握りの天才たちは恒星のように自ら光ることができるが、そうでない人間は光に憧れて周囲を回る惑星のようなものだ。その惑星の周囲には、さらに衛星が回っている。

 そして、惑星と衛星はお互いに影響し合っている。

 地球の潮の満ち引きに、月が影響を与えているように。

 二人はそういう関係だった、と星夏は思った。

 だから楽しかったし。

 好きだった。

「気がつくのが遅かったな」

 誰に言うともなしに、星夏はぼそりと言った。

 彼女は自分を恒星だと思っていたが、そうではなかった。

 月を失ったら、地球がそのままでいられるだろうか?

「昔を思い出して楽しそうにするのやめてほしいので」

 陽向が眉間に皺を寄せて、「むー」と唸っている。

 ついでにわざとらしく頬を膨らませている。

「あらそう? いまとなっては、実際、楽しかったのだと思うわ。私と彼との関係は、あなたとは年季が違うの」

「ぐぬぬ。そういうマウントは卑怯です」

「思い出は元カノ特権なのよ」

 星夏は少しばかり意地悪な笑みを浮かべた。

「元カノ特権……!」

 謎のパワーワードを繰り返した陽向は、だが毅然と言い返してきた。

「でも、わたしのほうが若いですよ」

「ぐっ……! やめて、私のライフはもうゼロよ」

「ええ……? 星夏さん、紙装甲ですね」

「気持ちだけは一七歳だと思っているわ」

「それを言う時点で、おいおい、という感じなので」

 星夏は床をのたうち回りたい衝動に駆られたが、強い精神力でそれを制した。

 わざとらしく咳払いをし、眼鏡をそっと押しあげる。

「でも、私のほうがうまいから」

「……なにがです?」

 怪訝な声を出した陽向に、星夏は至極真面目に言った。

「エッチなこと」

「はー、なので!? はー、なので!?」

 陽向が勢いよくその場で立ちあがった。

 バラエティ番組のひな壇芸人みたいだな、と星夏は思った。

「なんでいきなりそういう話をするしますですか!」

「落ち着きなさい。私は事実を話したまでよ。ファクトベースよ」

「それっぽい用語をもってこないでください」

「でもほら、やっぱり、セックスには相性あるし。私は彼のことをよく知っているもの」

「直接的に言うなし!」

 陽向は顔を赤くして、両手で頭を抱えた。

「若さには経験で対抗するしかないのよ。座れば?」

「でもでも、そんなこと言ったら」

 立ちあがったものの特になにもないので、陽向はのろのろと座り直した。

 半眼になって星夏を睨む。

「わたしは処女なので」

「え、なにそれ、ずるくない?」

 星夏は床をのたうち回りたい衝動に駆られた。

 こんなことはもうやめよう。

 お互いになにかを削り合って、得られるものなどなにもない。

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