29.したのね?

 目黒駅から徒歩七分。

 二五階建マンションの九階。

 家賃三〇万円の1LDK。

 それが氷室星夏の暮らしている部屋のスペックだった。

 広告賞をどれだけ取ろうと、商業クリエイターである以上は月給をもらっている会社員でしかない。彼女の年収は一千万円を超えていて、日本国内における同年代の会社員の平均からすれば頭抜けてはいる。

 だが、山手線の内側にある高層マンションの最上階に住めるほどではないし、魂を削るようにして生み出したクリエイションの対価としてはあまりにも安すぎる。

 もっと上――クリエイティブディレクターへの道もないわけではなかったし、彼女が望めばそれは手に入るところまできてはいた。

 業界でも珍しい若さだが、星夏の実績なら誰も文句は言わないはずだ。

 だが、クリエイティブディレクターが医者や弁護士と遜色ない希少性がある職業として評価を受ける海外とは違って、日本には年功序列で役職として与えられるクリエイティブディレクターが多すぎる。そして、その候補も多すぎる。

 大手の広告代理店ほどではないにしろ、彼女が働く〈ランドマークス〉ですらそうだった。

 新進気鋭のクリエイティブ・ブティックも、人が増えればただの企業になってしまう。

 別に給料が評価の全てではないが、本物も紛い物も同じ土俵で評価されてしまう現実は確かに存在する。仮に彼女がクリエイティブディレクターになったところで、それは変わらないし、先は見えている。

 いや、そもそも、なるべきではない。

 星夏は世界と戦って身の丈を知ったし、魂を削って戦い続けることに疲れていた。

 仕事から少しの楽しいもなくなって、苦しいだけが残ってしまった。

 精度は目に見えては変わらない。

 だが、確実に落ちていた。

 最後の最後、いままでなら力を振り絞れた一分、一秒。

 そこで踏ん張れない。

 妥協点が下がった。

 ほんの数ミリ、あるいは数ミクロンかもしれない。

 魂というものが仕事に宿るとするのなら、正にそこを踏ん張れたときだけだ。

 そして、気づく人間は気づく。

「氷室、お前の全盛期は一年くらい前かも知れへんなあ」

 彼女をこの業界に引っ張ってくれた恩師である弓削晋作は言った。

「そうかもしれませんね」

 と、星夏は答えた。

 まったく悔しくなかった。

 すんなりとその言葉を受け入れてしまったことに驚きもなかった。

 こんな私がクリエイティブディレクターになんてなるべきではないし、ましてや本物になんてなれるわけがない。

 三〇歳になって、星夏はそんなことをずっと思っていた。

 同時に、仕事が楽しいと思えていたころのことをよく考えていた。

 まるで死を宣告された者が、思い出のなかにある幸福だったころに浸るかのように。

 星夏にとってそれは、仕事も、お金も、実績もなかった、あのころだった。

 新宿の場末の喫茶店で、コーヒーだけで粘りに粘って、彼と二人して仕事やそうでないことをあれこれ話していたあのころだった。

 そんなとき、不意に彼からメールが届いたのだ。

 無視することもできたのに、彼女は返信した。

 本当に自分でも意外だったし、数年間ずっと仕事に打ち込んできて考えないようにしていたけれど。

 氷室星夏はまだ全然、彼のことが好きだった。

 メールの差出人にある名前を見た瞬間、彼女はそのことを自覚した。

 バカみたいな話だが、仕事も、お金も、実績も手に入れたのに。

 本当に大切なものは、あの場末の喫茶店にあったのだ。

 思い出を動かそう、と星夏は思った。

 昔みたいに、彼と一緒に仕事がしたかった。

 それだけではなくて、できれば昔みたいに、彼と一緒にいたかった。

 だというのに――

「はあ」

 星夏は大きなため息をつくと、目の前で一週間分のつくり置きを胃のなかに放り込んでいく女子高生を見ていた。

 街中で抱きつかれて彼女が崩れ落ちたとき、救急車を呼ぼうと思ったのだ。

 だが、気を失ったわけではなく空腹を訴えてくるだけだったし、星夏は星夏で山のように聞きたいことがあったのだ。

 だってそうだろう?

 私が気づいた大切な彼との間に、ずけずけと踏み込んできているこいつは何者なのだ?

 だから、タクシーで自宅に連れてきてしまった。

 警察に保護してもらうのは、それからでも遅くはない。

「元カノさんの料理は、すごいです。すごいすごく美味しいです」

「語彙力。アホの子なの?」

「それはひどいので!」

 いつも一人で食事をするローテーブルで向き合っている世羅陽向という女子高生は、実に幸せそうに星夏のつくり置きを食べている。

 ぶり大根が。

 キャベツとにんじん鶏もも肉の甘辛醤油煮が。

 ディアボラ風チキンが。

 豚こまキャベツのみそ塩こうじ漬けが。

 次々になくなっていく。

 健康診断にひっかかってから始めた自炊で、まさか自分以外に最初に食べるのが女子高生で、手放しで褒められるなんてことは思ってもみなかった。

 それも元カレとちょっとわけありな女子高生だ。

 せめて好きな相手に手料理を振る舞いたかった。

「ごちそうさまでした」

 星夏の冷蔵庫と冷凍庫を空っぽにして、彼女は実に行儀良く手を合わせた。

 そこはかとなく育ちのよさを感じる。

 どこからどう見ても、普通の――というには些か美人すぎる女子高生だ。スタイルもよく、アイドルかモデルでもやっていそうだ。

 それが。

 彼女が言うには。

 吸血鬼とは。

「冗談きついわ」

 星夏はテーブルに置いてあった煙草の箱を手にした。

 最後の一本が残っている。

「ちっ」

 小さく舌打ちして、彼女はそれを咥えた。

 箱を握りつぶしてゴミ箱に投げ捨てると、使い込んだジッポーライターで火をつける。

 肺を紫煙で満たし、剣呑な視線とともに吐き出す。

「けほっ」

 JK吸血鬼がいやそうな顔をした。

「吸血鬼なのに煙草は苦手?」

「それは関係ないので。わたしが苦手なだけで。というか、元カノさんは勘違いしているかもしれないですが。お話したように本物の吸血鬼は、現代伝奇異能バトルに出てくるような怪物ではないんです」

「現代伝奇異能バトルの吸血鬼は、それはそれで偏っていると思うけれど」

 灰皿に灰を落とし、星夏は低い声で言った。

 桜井恭平と世羅陽向。

 二人の間になにがあったのか。

 おおよそのことは聞いた。

 星夏もかつて散々に世話になった〈5T〉の弓削晋作がもってくる、得体の知れない仕事に振り回されるのはいつものことだったし。

 桜井恭平がなんだかんだ善人であることも知っている。

 もう少し利己的になればいいとすら思う。

 だが、それでも、家出してきた女子高生が吸血鬼だなんてことがあっていいものか。

「仮にあなたが本物の吸血鬼だったとして」

「だから、本物なので。元カノさんもわたしの力の一端を体験したはずです。魅了の魔眼を。ふふふ」

「んー……」

 星夏は眉間の皺を深くした。

 釣り堀で彼女と視線を合わせた瞬間から、なぜだかその言葉に逆らうことができなかったのは確かだ。

 だとしても。

「コウモリに姿を変えたり?」

「それはできないです」

「十字架とかニンニクが苦手?」

「まったく。ニンニクは普通に嫌いですけど」

「聖水」

「ただの水ですね」

「許可を得ないと家に入れない」

「入れます」

「川を渡れない」

「渡れます」

「太陽に当たると死ぬ」

「死にません」

 過去に同じような会話が交わされたことがあるなど、星夏は知る由もなかった。

「血を吸っ――」

「そんなエッチなことはしません!」

 被せ気味にJK吸血鬼が言ってくる。

「……」

「……」

 二人は無言で見つめ合った。

「はあ」

 短くなった煙草を、星夏は灰皿に押しつけた。

「したのね?」

「してません!」

「恭平君としたんだ?」

「してません!」

 顔を赤くしたJK吸血鬼は、少し涙目になっている。

 少しの罪悪感を感じつつ、星夏はなんとなく悟った。

「んー、しようとはしたんだ? 未遂?」

「……」

「恭平君が吸わせてくれなかったのね?」

「……はい」

 恐らく吸血鬼にとって血を吸うという行為は、星夏が思っている以上に重要なことなのだろう。

 この反応を見る限り、女の子のほうから最後まで誘ったのに手を出されなかったみたいなものなのかも知れない。

 そもそも血を吸うなんて一線を越えることをした男女が、それだけで済むなんて思えない。

 星夏は勝手にそう確信した。

(絶対にそれからまだ続きあるに決まっているもの。絶対に絶対。エロいことする。すごくすごいエロいことするに決まっているわ。魅了の魔眼とかいう力が本物だとしたら、相手になんでもさせられるということじゃない? それはすごくすごいです)

 アホの子みたいな語彙力で、むちゃくちゃ早口になって胸中でつぶやく。

「どうかしたのです? 元カノさん?」

「んんっ! なんでもないわ」

 それにしても、彼女自身が同じ立場だとしたら「男のほうはマジで不能かよ」と思わなくもない。

 あるいは自分にそれだけの魅力がないのかと思い、実にショックだ。

 ちょっと冷静になろうと思い、星夏はずれていた眼鏡を押しあげた。

「あなた、恭平君のことが好きなの?」

 そして、単刀直入に言った。

 回りくどいコミュニケーションをしないのが彼女の長所であり短所だった。

「ち、ちが……」

 JK吸血鬼は明らかに「そうですよ」という表情で、ぶんぶんと首を振った。

「……」

 星夏は無言で、じっとりとした視線を送った。

 何人もの若手デザイナーが、このプレッシャーにやられて会社を辞めていった。

 なにか別の種類の魔眼でももっていそうだった。

 その圧に耐えかねて、JK吸血鬼は視線を落とすと消え入りそうな声で言った。

「……そうです」

「恭平君の人生で女子高生に言い寄られるイベントが起きるなんて、世の中どうかしているわね」

 まったく勘弁してよ、と星夏は思った。

 こちとらアラサーの社会人女子だ。

 恋のライバルが女子高生になるなんて、神様――だかなんだか――は試練を与えすぎだ。毎年、初詣は欠かさない程度には信心深いというのに。

 星夏は黒髪を掻きあげると、深く深く嘆息した。

「私が言うのもなんだけど、男を見る目あるわ」

「ですよね!」

 JK吸血鬼は顔をあげると、ぱっと表情を明るくした。

 同性の星夏でも、可愛いなと思ってしまう。

 眩しすぎる。

 これが若さか。

「さすがは元カノさんなので」

「その呼び方はやめてくれないかしら。無条件で負けている気がするわ」

「でも、元カノさんはわたしのこと、心のなかでJK吸血鬼って呼んでますよね?」

「エスパーなの?」

「いえ、吸血鬼です」

「はあ、もう。吸血鬼って一体なんなのよ?」

 星夏はゆっくりと立ちあがると、ローテーブルにある食器を集めてキッチンシンクにもっていった。

 軽く水で流しておく。

「だったら、どう呼べばいいかしら。世羅さん?」

「お好きにどうぞ。でも、世羅の名前は好きじゃないですけど」

「そう。なら――陽向ちゃん。あなたは私より一回りも年下で、さんづけするのもなんだか癪だし。それでいいかしら?」

「もちろんいいですよ――」

 部屋に戻った星夏を、JK吸血鬼――もとい陽向がじっと見つめてくる。

 赤くはない、黒い瞳。

「――星夏さん」

 名前を呼ばれて、星夏は微苦笑をもらした。

 思いのほか、いやではなかったからだ。

 それは直感的な閃きで、なんの根拠もないものだったが。

 彼女がもう少し大人になっていて、違う出会い方をしていたなら、友達になれたかもしれないな、と星夏は思った。

 だが、たらればの話をしても意味はない。

 星夏は軽く頭を振ると、

「ちょっと下のコンビニで煙草を買ってくるわ」

 陽向にそれだけを言った。

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