28.ウソでしょ

 最悪だ。

 本当に最悪だ。

 ホテルを飛び出した陽向は、ただそれだけを思った。

 本当は元カノとデートをする彼の様子を遠くで見て、あとでからかってやるくらいのつもりだったのだ。

 いや、気にならないかと言ったら、それは少しは気になる。

 吸血鬼が、誰かの血を吸いたいと思ってしまうのは、そういうことなのだ。

 それは彼女自身、わかっている。

 だけど。

 こんなことをするつもりも、言うつもりもなかったのだ。

「本当に、最悪なので……」

 それでも。

 どうしても我慢できなかった。

 彼と氷室星夏が仲良さそうにしているところを見ていると。

 二人して楽しそうに話しているのを見ていると。

 氷室星夏が彼との距離を簡単に詰めて触れているのを見ていると。

 もやもやとした気持ちが心のなかに蓄積されていく。

 そして気がついたら、こんな有様だ。

「うー……どうしてわたしは、あんなことを」

 どこに向かうわけでもなくがむしゃらに走って、陽向は足をとめた。

 両手を膝に置き、肩で激しく息をする。

 力を使いすぎたせいで、体力の消耗が激しい。

 意識が遠くなりそうなほどの、ものすごい空腹感が襲ってくる。

「桜井さんのアホ」

 思わず、胸中の言葉が声に出る。

 彼女が普段は使わないようにしている、実家がある京都の発音だった。

「そんで、わたしもアホやー」

 呼吸を整えながら、ふらふらと歩く。

 気がつけば市ヶ谷駅の近くにまで戻ってきていた。

 スマホには彼から何度か着信があったことを知らせる表示が出ていたが、陽向はそれを無視した。

 こんなことになってしまったら、もう会えない。

 二人の間で奇妙な均衡を保っていた関係は、陽向のせいで崩壊してしまった。

 血を吸いたいという衝動に正直になれば、こうなることはわかっていた。

「はー、なので。制服どうしよ」

 彼の自宅兼事務所に置いたままになっている、高校の制服を思い出す。

 一応は京都の有名お嬢様女子校だ。

 あんなものがあったら、彼の部屋を女の人が訪れたときにドン引きされるに違いない。

「ふふ、ホント、変な言いわけしそう」

 しどろもどろになった弁解している彼を想像して、陽向はわずかに笑った。

 そこでようやく、制服のことなんて本当はどうでもいいんだと思った。

 もう会うことはないんだろうな、という現実が急速に彼女に押し寄せてくる。

「うっ……ぐす」

 鼻の奥がツンとして、涙が溢れそうそうになる。

 我慢しなければ、と陽向は思った。

 泣いたってなにも解決しない。

 そもそもなんの当てもなく一人で家出してきたのだから、最初に戻っただけだ。

 彼女はぐしぐしと目元を拭った。

 彼女は前を向き。

 歩き出そうとして。

 雑踏のなかに立ちすくんだ。

「あ……」

 か細い声がもれる。

 どこにいって、なにをすればいいのか、わからなかった。

 世羅家の権力闘争の道具として結婚させられる前に、母親へのいやがらせで家出してきた。

 せめて家族が幸せだったころの思い出を、確認しておきたかった。

 家の道具になる運命は変えられないけれど、自分のなかで抵抗したという事実だけはつくっておきたった。そうすれば、諦めるときに少しは楽になる。

 けれど――

 陽向は、彼の言葉を思い出した。

 過去の思い出を後生大事にしているよりも、バカみたいなことでもいい未来を考えているほうが楽しい。

 彼はそう言って笑ったのだ。

 それはきっとそのとおりで、陽向はそうしようと思ったのだ。

「最初に戻ったわけじゃない」

 いまの彼女は、どこかで実家に連れ戻されることは仕方ないと思っていたころとは違う。

 あんな窮屈なところには二度と戻りたくなかったし、過去の思い出にすがりながら自分を殺して、世羅家のために尽くすなんて絶対に御免だった。

「……ぐすっ」

 また泣き出しそうになる。

 陽向は拳を握って、唇をきつく噛んだ。

 だが、だめだった。

 今度は、がまんできそうになかった。

 この世界で世羅陽向が頼りにできるのは、彼だけだ。

 改めてそれを自覚して、彼女は天を仰いだ。

 涙が溢れないようにするつもりだったのだが、涙腺はとっくに決壊していた。

 頬を伝う涙の感触が気持ち悪い。

 声をあげないようにして必死で我慢する。

 街中で立ち尽くして無言で泣く少女の姿はとても目立っていて、道をいく人たちは遠巻きに彼女を眺めていた。

 そこだけ切り取られて、時間がとまったようだった。

 奇妙なほどに絵になる、映画の一シーンのようだった。

 どれくらい泣いていたのか。

 一〇秒?

 一分?

 それとも、もっと?

「これってどういう状況? あなたには、いろいろと説明してほしいことがあるのだけれど?」

 誰かに声をかけられて、陽向はとまっていた周囲の時間が動く気がした。

「あ……」

 目の前には、氷室星夏が立っていた。

 なんともよくわからない表情で、強いて言うなら困惑しているように見える。

 彼女にかけた魅了の魔眼も、当然ながら解けている。

 自分の目の前からデート相手を連れ去った女子高生が、次に発見したら人だかりの中心で立ち尽くして泣いているのだから、困惑もするだろう。

「元ガノざん……!」

 びっくりするほど涙声で、陽向は言った。

「な、なによ?」

 星夏はびくりと肩を震わせて、半歩だけ後退した。

 そんな彼女に、陽向はすがりつくようにして抱きついた。

「えっ、ちょっと、なんなの?」

「元カノさん、わたし、わたし――」

「こら、ねえ、なにがあったのよ?」

「うっ、ぐすっ、わたし――桜井さんに」

「まさか、恭平君になにかされたの?」

「なにも、されてません。されませんでした」

「されませんでしたってどういう状況なのよ? って、服で涙を拭かないでくれる!?」

「ごめんなさい。でも、わたし、もう――」

「もう?」

「お腹空いて死にそうです」

 陽向はそれだけを言って、星夏にすがりついたまま崩れ落ちる。

 星夏は反射的に彼女を支えながら、困惑をさらに深めた表情になった。

「ちょっとまってよ」

 慌てて周囲を見渡すが、遠巻きに見ていた連中は誰も目を合わそうとはしなかった。

 星夏はこのときほど、都会特有の他人への無関心さを実感したことはなかった。

 抱きかかえている少女と周囲を交互に見やり、彼女は率直にいまの思いを口にした。

「ウソでしょ」

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