27.……キスしますから
まさか俺の人生が、女子高生と二回もホテルにくる人生だったとはな。
もっとも一度目は気が乗らない仕事だったうえに財布を取られかけるし、二度目は自分の意思に反して無理やりだ。
「ご存じのように、吸血鬼の力を使うともの凄くお腹が減るので」
部屋に入ると、陽向は静かな口調で言った。
その瞳は赤いままだ。
俺は身体の自由も効かないし、声も出せないままだった。
魅了の魔眼とやらを強めにかけたというのは本当らしい。
以前はなんとなくそうしなければと思ってしまう程度だったのが、いまでは完全に自由を奪われている。
「あまり長くは使っていられないんです」
陽向は俺の肩を軽く押した。
「……っ」
俺の足は押された勢いで、よたよたと後ろ向きに動いた。
膝裏がベッドにぶつかり、そのまま仰向けに倒れ込む。
ぼふっというベッドの感触が背中に伝わり、味気ない天井が目に映った。
だが、その景色はすぐに陽向の顔になった。
彼女が俺に馬乗りになって、しげしげと顔を覗き込んでくる。
腹のうえに、女の子一人分の重さを感じる。
重力に逆らえずに垂れる黒髪が、俺の鼻先をくすぐった。
それを陽向がゆっくりとかきあげる。
赤い瞳が俺を見ている。
長いまつ毛だな、と俺はバカみたいなことを思った。
「こんなことになるなんて、わたしも思ってませんでした」
耳元で囁かれた声は、恐ろしく蠱惑的だった。
陽向は笑った。
それはいままでに見たことがない表情だった。
少し間の抜けた、ころころと表情が変わる、少女の面影はなくなっていた。
目の前の彼女は。
どこか冷たく大人びていて。
怪しく。
それでいて美しかった。
俺がそう思うのは、それこそ魅了の魔眼のせいなのか。
そこにいるのは確かに世羅陽向だったが、別人のように思えた。
「でも、桜井さんが悪いんですよ」
陽向は薄いピンク色の唇を、そっと自分の舌で湿らせた。
ちらりと犬歯が覗く。
あんなに尖っていただろうか?
「吸血鬼に、血を吸いたいと思わせるなんて」
怜悧な美貌が崩れて、少し照れた表情でそんなことを言ってくる。
まてまて。
言葉の剣呑さと表情が全然あってねえよ!
俺は血を吸われるのかよ!?
どうにかして脱出しようとするが、身体は相変わらず動かなかった。
「それって、とっても特別なことなので」
陽向の声は、もうほとんど囁くようなものになっていた。
俺の身体にぐっと体重をかけて、顔を近づけてくる。
お互いの吐息が聞こえる距離。
ほとんど唇が触れそうな距離。
「わたし、こういうこと初めてなんですけど。痛くしないので安心してください」
女子に押し倒されて言われるセリフじゃねえ。
そもそも、初めてだったらお前もわからないだろうが。
という言葉は、やっぱり口から出ることはなかった。
俺は世の中に出回っているフィクションの吸血鬼よろしく、首筋をがぶっとやられると思っていた。
だが、どうにも様子は違う。
陽向はわずかに呼吸を荒くして、じっと停止したままだ。
数秒後、上半身を仰け反らせて顔を離す。
「そ……その……」
息を呑み。
視線を外し。
口元をもにょもにょさせている。
そして、自分自身に言い聞かせるようにして彼女は言った。
「……キスしますから」
は?
一瞬、意味がわからなかった。
血を吸うんじゃないのかよ。
どっちがいいって話じゃないが。
「唇をちょっと噛んで、血を出します。だ、大丈夫ですよ、桜井さん。一瞬ちくっとするだけなので」
血液検査の手順みたいに言うんじゃないよ。
いや、実際、血の吸い方を自分のなかで確認してるのか?
世間一般がイメージする吸血鬼の血の吸い方と全然違うじゃねえかよ。
どこからきたんだよ、首筋をがぶっとやるやつ!
陽向は大きく深呼吸すると、完全に意を決したようだった。
「こういうのはね! 思い切りが大事なので!」
気合い入れすぎだろ。
「これでわたしも処女卒業です!」
まてまてまてまて。
とんでもなく不穏なこと言いやがって!
どっちの意味だ?
初めて血を吸うからってことか?
それとも本当にそういう意味か?
陽向が改めて、ゆっくりと顔を近づけてくる。
俺の身体は動かない。
キスされて血を吸われるだけだろうが、最後までいこうが。
どっちにしたって一緒なんだよ。
手を出してないことだけは潔白だったってのに。
俺は。
こいつと。
そんな関係になることを期待してたわけじゃない。
「!」
不意に――身体が動く気がした。
「陽向!」
叫ぶ。
同時に上半身を起こした。
ごちん!
とお互いの額がぶつかる。
「痛いので!」
陽向が悲鳴じみた声をあげた。
衝突した勢いで、ベッドから床に転がり落ちる。
「うぅ……」
床に座り込んだまま額を押さえ、陽向は涙目になった。
瞳の色は黒に戻っている。
俺の強靭な意思力が魅了の魔眼とやらを打ち破ったのかと思ったが、単に時間切れ的なものらしい。そんなに得意じゃないし、長くは使えないって話だったからな。
「くそ……」
俺は俺で、痛みで声が出ない。
数秒の間、二人して痛みに耐えるという間の抜けた時間が流れた。
「桜井さん……」
最初に声を出したのは陽向だった。
「なんてことするんですかあ……!」
「なんてことするんですかは――」
それに応えて、俺も声を出す。
「俺のセリフなんだよ! このバカ吸血鬼!」
「はー!? そっちこそ、そっちこそ! わたしだって、こんなことすると思ってなかったので!」
陽向は――
怒っているのか。
泣いているのか。
戸惑っているのか。
いろいろな感情がない混ぜになった表情で俺を睨んできた。
「全部、あなたのせいですよ!」
「俺のせいったって……」
「吸血鬼が、誰かの血を吸いたいって思うのは――」
陽向はそこまで言ってから、言葉をとめて下を向いた。
「血を吸いたいって思うのは――」
ほとんど消え入りそうな声で繰り返し、ゆっくりと顔をあげる。
意思の強そうな黒い瞳が、俺を見据えた。
「好きになってるってことだから」
静かに、だがはっきりと陽向は言った。
唇を軽く噛んで、俺を射殺すように、視線がじっとこちらに向けられている。
一日に二人から告白される日がくるなんて、クラスの二軍だった高校生の俺に教えてやりたいぜ。
だが、これはよくない。
頭がくらくらするよ。
あわよくば吸血鬼ネタで一発当てようなんてスケベ根性が発端で、家出吸血鬼少女となし崩し的に生活してきたが、ぎりぎり成立していたのはそういう感情はないからだ。
お互いなにかメリットがあると思って利用しているし、もし俺の理性が崩壊して陽向に襲いかかったとしても、腕力勝負なら陽向のほうが圧倒的に強い。
その前提があるから、奇妙にバランスが取れている。
まあ、客観的に見れば。
氷室の言うとおり、家出少女を連れて警察にいこうぜって話ではあるけどな。
「陽向……」
俺はベッドから立ちあがると、座り込んだままの彼女に近づいた。
腰を落として同じ位置に目線を合わせる。
なにを言っていいのかわからなかった。
だが、少なくとも。
これで自宅兼事務所に居着いたJK吸血鬼との奇妙な生活は終了だ。
二人の関係は、もう絶対に昨日までと同じバランスにはならない。
「わかってますよ……」
陽向の声は、少しだけ震えていた。
そう。
俺が考えているのと同じようなことは、彼女だってわかっている。
「でも、だって、しょうがないじゃないですか。血を吸いたいと思うのは吸血鬼にとって本能的な衝動で、わたしではどうしようもなくて、一回意識しちゃうともうダメで、わたしだってこんなこと初めてで、どうしたらいいかわからなくて」
陽向の目がぐるぐると回り、どんどん早口になっていく。
自分でもなにを言ってるのか、わかってないんじゃないか?
「ちょっと落ち着けって」
「落ち、落ち着いてましゅ。わたしはいたって冷静」
あー、全然ダメだな。
一体、どうすりゃいいんだよ。
俺はこんなときに女の子を宥めすかして落ち着かせるスキルなんてものは、これっぽっちももってないんだ。
「そもそも、わたしにこんなことを思わせる、桜井さんが悪いです。責任取ってください。血を吸わせてください」
陽向がここにきてようやく吸血鬼らしいことを言ってくるのは、なんとも皮肉だ。
「そんなエッチなことはしないんじゃなかったのかよ?」
「そ、そうですよ!」
力強くうなずいてから、陽向は声を落とした。
「でも、好きになったらそういうことしたいって思うじゃないですか……」
ちらりと上目遣いになって俺を見てくる。
あざといというよりは、こちらの様子をそっと窺っている。
「桜井さんだって、あの元カノさんとエッチなことしたいと思ってるはずです!」
「思ってねえわ!」
「絶対思ってますー! わたしと違って大人だし、むちゃくちゃ美人だし、絶対思ってますー! 仲良さそうでしたね!」
陽向は勢いよく立ちあがると、両手を腰に当てて俺を見下ろした。
「でも、わたしのほうが若いですよ!」
エグいマウントを取ってきやがる。
氷室が聞いてたら泣くかもしれん。
「桜井さんは、その、わたしとならエッチなことしたいと思いますか?」
「なにを言ってんだよ……」
「いや、違うので。違わないですけど。そんなことを言いたいわけではなくて」
「ホントに一回落ち着け」
俺はそう言いながら立ちあがった。
目の前でパニックになっているやつを見ると、こっちはかえって冷静になる。
「わたしは落ち着いてましゅ!」
いや、それは落ち着いてるやつの語尾じゃないのよ。
陽向は沈黙した。
冷静になったというよりは、混乱が極まって停止したような感じだ。
「……」
「……」
お互い数秒の間黙っていた。
騒がしかった室内が静まり返る。
陽向は大きく息をはいた。
「わたしがこんなになっちゃったのは、桜井さんのせいなので。わたしだって、いきなりこんなこと言ったらどうなるかくらいわかってるので。でも、もう、本当に、もう――」
ぶつぶつと独りごち、彼女はなぜか拳を握る。
「桜井さんのアホー!」
「ごはっ!」
グーで俺の腹をぶん殴ると、陽向は逃げ出した。
追いかけようにも、殴られた痛みでうずくまることしかできない。
的確にみぞおちにぶち込んできやがって。
お前にラブホの部屋から逃げ出されるのは二回目だな。
遠くなっていく陽向の背中を見ながら、俺はそんなことを思った。
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