第5話

25.昔みたいに、星夏って呼んでよ

 まだ五月だというのに、夏を思わせる日差しは今日も変わらなかった。

 午前中から絶好調だ。

「渋いところに呼び出しやがって」

 俺は有楽町線の市ヶ谷駅から地上に出ると、前日に送られてきた氷室星夏からのメッセージを確認した。


『明日は一一時にここに集合』

『こなかったらビンタだから』


 という簡素な内容とともに、地図情報のURLが添付されている。

 釣り堀だった。

 各線の市ヶ谷駅からすぐそこの。

 俺のなかでは、『電車の車窓から見たことあるが一度も訪れたことがないスポットランキング』で第一位だ。

 料金は一日券で二九一〇円。

 一時間なら七八〇円。

 竿も餌もレンタルできる、暇つぶしにはもってこいの場所だ。

 俺は受付を済ませると竿と餌が入ったバケツを手に左手側に進んだ。

 大小の池が五つあり、その周りに等間隔で釣り人が座っている。

 ちなみに釣れるのは鯉だ。

「そこそこ賑わってんなあ」

 ギラつく太陽にげんなりしながら、俺は率直な感想をもらした。

 暇をもて余したジジイしかいないかと思っていたが、日曜ということもあって家族連れも結構いる。

 俺は一番奥の池に、氷室の姿を発見した。

 ビール瓶のケースを裏返したイスに陣取って、ウキをじっと凝視している。

 黒髪を降ろしている以外は、この前会ったときと変わらないシンプルなデニムコーデで、色気もなにもない。

 あー、いや。

 それでも十分に目立つ。

 釣り堀の客のなかでは浮いてるよ。

「氷室」

「のにゅっ!」

 背中に声をかけると、彼女は奇妙な声で驚いた。

 慌てた様子でこちらを振り返り、

「いきなり話しかけないでよ。びっくりするじゃない」

「のにゅってなんだよ、のにゅって」

「んー……私のお茶目でキュートな部分?」

「そんな部分があるとは知らなかったよ」

「うるさい。というか、くるの遅い」

「時間どおりだろうが。そっちが早いんだよ」

「なによ。私が久しぶりのデートにワクワクしすぎてあまり眠れなかったから、営業開始と同時に一番目の客としてここにいるとでも言いたいわけ?」

 むちゃくちゃ早口でなにを言ってるんだ、こいつは。

「一番目の客としてここにいるのか?」

「ち、違うから。二番目だから。二番目」

「ほとんど一緒じゃねえかよ」

 俺は氷室の隣のビール瓶ケースに座り、竿とバケツを足下に置いた。

 氷室は俺から視線を逸らすと、再びウキを凝視した。

「一人で鯉を釣っていると、恭平君がこなかったときを思って虚しい気持ちになっていたわ」

「本気でいやなら最初から断ってるよ」

 ドタキャンしたらビンタされるしな。

「それは脈アリということ? 寄りを戻すのOK?」

「気が早いんだよ」

 氷室はクリエイターとしての自分と、一人の女性としての自分は違うと言ったが。

 俺からしてみれば、そこを器用に分割して見ることなんてできない。

 氷室星夏という女に、俺が釣り合ってないのは事実だ。

 ただ。

「友達になら戻れるかも――」

「それはない」

 食い気味に、氷室が声を被せてくる。

「男と女の友情なんてものは、この世界に存在しないのよ」

「いや、言い切るなよ。あるかもしれないだろ」

「ないわ」

 氷室はそれが世界の真理であるとばかりに、自信満々だった。

 なにがあったんだよ、まったく。

 俺は男女の友情についてはこれ以上言わないことにした。

 リールのついていない竿を手に取り、返しのない針を見る。

 釣ったらリリースする釣り堀用の針だ。

「ここは水深が一・五メートルくらいあるから、ウキの位置を調整して。練り餌は一円玉くらいの大きさで、あまりかためないで。まだ鯉の活性が弱いから、水中ですぐにバラけるように」

「わかったわかった。もうちょっとゆっくり喋れって」

 氷室がむちゃくちゃ早口で的確な指示を出してくる。

 それに従って、俺は針に練り餌をつけて池に放り込んだ。

 ゆっくりと餌が沈んでいき、数秒して水面に寝ていたウキがそっと立ちあがる。

「それにしたって、こんな趣味があったなんてな」

「いまの会社に入ってから、ちょくちょくきているの。一人で考えをまとめたいときとか、結構いいわよ。餌をつけないでやるの」

「昔は一人じゃ考えまとまらないって言ってなかったか?」

「恭平君と仕事をしていたころはそうだったけれど」

 氷室は軽く嘆息した。

「いまは一人のほうがまとまるの。周囲の雑音を排除して、表現の無駄を削ぎ落として削ぎ落として、純化させていく。私は〈ランドマークス〉でそういう仕事を学んだし、それで結果もついてきた」

 声のトーンが少し低くなる。

 そこにはクリエイターとして俺とは次元の違うところにいる、凄味みたいなものがある。

 場末の新宿で二人してああでもないこうでもないと言い合っていたころとは、仕事のスタイルが正反対になっている。

 周囲のアイデアも不満の声もまとめて封じ込めて従わせる、圧倒的な実力と世界観がないとできないワンマンチーム。

「それでよく、俺とまた組もうなんて思ったな。いまのやり方には合ってないだろ」

「そうね。だけど、疲れちゃったの」

 声のトーンを軽くして、氷室は苦笑じみた表情で俺を見た。

「新宿で燻っていたころのほうが楽しかったわ。実績も、コネも、実力も、お金もなかったけれど」

「そりゃ、思い出を美化してるってもんだ」

 どんな仕事だろうと、基本的にはしんどいし、楽しくない。

 そんななかでも、一割くらいの楽しいがあるのなら、まだ続ける意味はある。

 俺はずっとそう思っていたし、〈ランドマークス〉に入社したばかりの氷室が言った、「しんどいけど、楽しいよ」という言葉は働くことの本質を突いている。

 そんなことを考えて、俺は胸中で自嘲した。

 俺はどうだ。

 モノを書いて食っていくことしかできないから、業界の底辺にしがみついて惰性で仕事を続けている。

 それがいまの俺だ。

 楽しいなんてここ何年も思ったこともない。

 最後にそう思って仕事をしていたのは、確かに氷室と一緒に新宿で燻っていたころだったのかもしれない。

「けどまあ……俺もそうかもな」

「そうなの?」

「別に俺のやってることなんて、昔もいまも変わっちゃいないけどな。お前とやってたころのほうが、確かに楽しかったよ」

「そ、そうなの? へー、ふーん、へー」

 氷室はわざとらしくせき払いをすると、努めて冷静な表情で言ってきた。

「じゃあやっぱり、私たちは組むべきだし、寄りを戻すべきね」

「そんな単純な話かよ。それで昔と同じになんてなるわけ――」

 ない、と言うよりも先に氷室が一気に捲し立ててきた。

「それで結婚式は金沢でするとなると、恭平君の実家からだと少し遠いかしら? 子どもはできれば二人欲しいと思っているのだけれど、すぐにつくってしまうと夫婦から家族になってしまってイチャイチャできなさそう? でも、私の年齢的にあまり遅くなるのもどうかと思うし。あと賃貸よりも一戸建てのほうがいいと思うけれど、それだと通勤が。あ、でもフルリモートの申請がとおれば大丈夫」

「まてまてまてまて」

 文章を読みあげるみたいに淡々ととんでもないことを言うんじゃないよ。

 眼鏡のレンズの奥にある氷室の目が、なんだかぐるぐる回っている気がする。

 俺を見つめてくる眼光に、言葉にできない圧がある。

「変な妄想を垂れ流すな」

「妄想ではなく将来設計よ?」

「勝手に俺を組み込むなよ」

「んー? ちょっとなにを言っているのかわからないわね」

「俺のセリフだよ! それは俺のセリフだよ!」

「んー?」

 氷室はわざとらしく小首を傾げると、子どものような純粋な目――という演技だ――で俺を見つめてきた。

 そんな目をするやつが、あんな現実的な将来設計をするわけないだろうが。

 俺が剣呑な視線を送っていると、氷室は演技が通用しないと悟ったようだった。

 へっ、とやさぐれた顔になって言ってくる。

「恭平君にはわからないでしょうね」

 一拍の間を置いて、

「ここ数年、学生時代の友達が軒並み結婚していって、三万円のご祝儀を払い続ける日々なのよ。会話の内容が子育てと旦那の愚痴ばかりになって、私はまったくついていけない。実家に帰れば両親から親戚まで、結婚の話しかしてこない。子どもがいる妹はちやほやされる。私だって、がんばって、カンヌとか、D&ADとか、取ったのに……!」

 むちゃくちゃ早口!

 いや、実際、凄いんだよ。

 カンヌとかD&ADとか、子々孫々まで自慢できるレベルなんだよ。

 だが、残念ながらそれは狭い業界での話だ。

 一般の人間にはカンヌは映画祭のことだし、広告の仕事をしていると言ったら、「テレビCMをつくってる人?」くらいの認識でしかない。

「私だって、がんばって、誰も褒めてくれない……結婚しているほうが偉い……」

 ほとんど泣きそうになってるじゃねえかよ。

 まあ、がんばったことを認めてもらえるのは、肩書きや実績でチヤホヤされるのとはまったく別の話だからな。

 再会したときはなんだかんだで、まだ新進気鋭のアートディレクターという体裁を保っていたが。上を見たらきりがない業界での自分のがんばりと、世間との評価のギャップに、本当はもうむちゃくちゃ疲れてるな、こいつ。

 俺が知らない数年間で、氷室星夏は業界の若手アートディレクターの代表格になった。

 と、同時に結婚願望つよつよのアラサー女子になっていた。

 つまりはそういうことだ。

「落ち着けよ。お前が俺の想像もつかないくらい、がんばったことくらいわかるよ」

 俺はなだめるようにして、ゆっくりと言った。

「本当に?」

「だってそうだろ? 俺はお前が、安い金で不動産屋のパンフや、通販カタログのデザイン組んでるころから知ってるんだぞ? それがカンヌなんて、どれだけがんばったって話だよ」

 俺は駆け出しのころに一緒に仕事をしたクリエイターとして、氷室星夏にコンプレックスをもっている。活躍することを素直に喜べない。

 だが、無関心でもいられなかった。

「お前の仕事はさ、ずっと見てきたよ。俺はデザイナーでもないし、お前と比べられるような実籍もないけどな。それでも、ちょっとはわかるよ。新宿の喫煙OKの純喫茶から、お前がどれだけがんばってきたのかくらいはな」

 俺は嘆息した。

 仕事にがんばったで賞なんてものは存在しないし、結果を出せないやつの言い訳でしかないんだが。

 それが必要なときもある。

 世の中の働いているやつの大半は、キラキラした賞の実績や、大層な肩書きをもってない。

 だから、がんばったで賞が必要なんだ。

 結果を出している氷室のやつにそれが必要なのは、なんとも皮肉だ。

「俺たちは何年も会わなかったし、連絡もしなかったけど」

 いまにして思えば。

「それでも仕事で会話してた気がするよ」

「なによそれ」

「お前はがんばったよ。不動産屋のジジイからデザインに文句言われてたのが信じられねえよ。あいつホントにセンスなかったよな」

「ん……そういうのはずるい」

 氷室は少し不満そうな、まんざらでもないような、複雑な表情になった。

「私が一方的に伝えているだけだから、会話とは言わないわ。ずるい」

 竿を足下に置くと、ビール瓶ケースごと俺のすぐ隣に移動してくる。

「私は恭平君から話しかけられていないのだけれど?」

「それはまあ、俺の実力不足としか言いようがない」

 業界誌やウェブメディアに取りあげられるような仕事なんて、俺にはまったく縁がない。

 いつか実相寺のやつが言っていたように、それは業界のなかの上澄みのなかの上澄みの仕事だ。

「私だって、恭平君にがんばったねって言ってあげたかったわ」

 ずいっと、氷室が俺の顔を覗き込んでくる。

「ちょっとまて」

「いまのままだと、私は〈ランドマークス〉のアートディレクターの私しかいなくなってしまう。本当の私はね、新宿の喫煙OKの純喫茶にいる。だから――君の仕事を側で見させてくれる?」

 彼女の囁く声が、俺の耳元に響いた。

「近いって……!」

 反射的に離れようとすると、氷室が両手で俺の頭を掴んできた。

 そのまま引き寄せられて、ごちん、とお互いの額がぶつかる。

「――私は、やっぱり、まだ全然、恭平君のこと好きみたい」

「……っ」

 こういうことを真正面から言ってくるあたり、本当に氷室らしいよ。

 俺はどう返したらいいものかわからずに、氷室と額をくっつけたまま黙りこくっていた。

「な、なにか言ってよ。もう」

「とりあえず手を離してくれ」

「いやよ。返事を聞くまで離さない。断固として」

 力任せにするのもどうかと思うし、これは参った。

 俺は諭すように、努めて冷静に言った。

「あのなあ、氷室」

「……星夏」

「なに?」

「昔みたいに、星夏って呼んでよ」

 氷室はゆっくりと、くっつけていた額を離した。

 ほとんど吐息がかかるくらいの距離に、彼女の顔がある。

 わずかにずれた眼鏡の奥から、黒い瞳が俺を見据えている。

 凛とした意志の強さと、どうしようもない不安が同居して、ゆらゆらと揺れている。

 ああ、そうだな。

 俺は氷室星夏を嫌いになったわけじゃない。

 二人が売れないまま業界の底辺で燻っていたなら。

 あるいは、俺も氷室と同じようにチャンスを掴むことができていれば。

 いまとは違った二人がいる世界線だってあったんだろう。

 だが、そうはならなかった。

 そうはならなかったから、たらればを言ったらきりがない。

 俺の周りだけ、時間がとまったかのようだった。

 そして、俺では動かしようのなかった時計の針は、

「うわっ! ちょっ! 大きい! 鯉大きすぎるので!」

 唐突に響いたそんな声で動き出した。

 反射的に声がしたほうを見る。

 隣の池で折れそうなほどに曲がった竿で、鯉と格闘している見知った顔があった。

「陽向……!」

 隣のおじさんの力を借りて巨大な鯉を釣りあげたのは、俺の自宅兼事務所に居着いている吸血鬼に間違いなかった。

 彼女はタモから鯉を出すと、高らかに頭上に掲げた。

「獲ったぞー!」

 周りの客から拍手がわく。

 そして。

 俺と目が合って、陽向はそのままの姿勢で言ってきた。

「桜井さん、奇遇ですね」

 俺は天を仰いだ。

 奇遇なわけあるかよ。

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