21.私たち、寄りを戻さない?
「ちょっとまって。いったん整理させてくれる?」
氷室はアイスカフェラテのストローに口をつけて、一気に飲み干した。
それだけではなく、残っていた氷まで口に入れてがりがりと噛み砕いた。
目を閉じて、眉間に皺を寄せる。
「私がいまの会社に入ったあたりからだんだん連絡くれなくなったわよね?」
「いや、そっちから連絡こなくなっただろ?」
「それは――環境が変わって一杯いっぱいだったもの。普通、心配して連絡くらいすると思うけれど?」
「邪魔しちゃ悪いと思ったんだよ。望んでた会社でばりばり仕事できるんだから、落ち着いたら連絡くるだろうと思ってた」
デザイナーとして〈ランドマークス〉に入社したばかりのころ、氷室はとにかく忙しそうだった。いままで雑誌やウェブサイトで名前を見ていたアートディレクターの下で、いくつもの案件を担当していた。
売れないデザイナーとコピーライターは、売れっ子デザイナーの卵と売れないコピーライターになった。
会う頻度は少なくなっていき、会ったときに彼女がする仕事の話は苦しさと同じくらい夢と希望が詰まっていた。
しんどいけど楽しいよ、と彼女は胸を張った。
俺はそれに共感できなかったし、素直に応援できなかった。
それはきっと、氷室だって少しは気づいていただろうと思う。
愛想を尽かされても仕方ないと、心のどこかでは思っていた。
だから。
氷室から連絡がこなくなったとき、こっちから積極的に連絡をしようとはしなかった。
「はあ、もう」
氷室は深いため息を吐くと、閉じていた目を開けた。
「じゃあなに? 私たちはお互い、自分が振られたと思っていたというわけ?」
「まあ、そういうこと、かな?」
「なによそれ。バカみたい。私が失恋を原動力にして、休日返上でがんばった分を返してほしいわ」
「いや知るかよ」
「それでADC賞を取ったけれど」
「返ってきてるじゃねえか」
ADC賞は東京アートディレクターズクラブが、その年の優れた広告やデザイン作品を表彰している由緒ある賞だ。
とんでもないやつだな。
俺は失恋を原動力にしても、特になにも起きなかったぞ。
「とにかく。いまさら言っても仕方ないだろ。何年前の話だよ」
「それはそうだけれど……」
氷室は不満そうに口籠ると、
「なによそれ、もう、なによそれ。バカみたい」
ごにょごにょとなにかを言ってから、目線を俺から逸らした。
「桜井は、私を嫌いになったわけじゃないわよね?」
「まあ、そりゃあな」
なんだその質問は。
「私も」
こちらに再び視線を向けて、氷室がはにかむ。
「恭平君のこと嫌いになってないし」
俺は言葉に詰まった。
いきなり名前で呼ぶんじゃねえよ。
びっくりするだろうが。
面食らっていると、氷室は頬杖を突いて俺への視線を固定した。
「私たち、寄りを戻さない?」
ドスレートに言ってくる。
こういう決断力が、昔よりさらに磨きがかかっている気がする。
「なに言ってんだよ、いまさら――」
「カノジョいるの?」
「いねえよ」
「私もカレシいないし」
「だからってお前――」
「お互いのことをよく知っていて、精神的にも大人になったと思うし、昔よりうまくやれると思うのだけれど?」
「いや。理屈じゃないだろ、こういうのは」
俺はそう言うのが精一杯だった。
いきなりとんでもないこと言いやがって。
氷室星夏と寄りを戻すだって?
俺が?
バカ言うなよ。
どこをどう見たって釣り合いやしない。
「この前、金沢の実家に帰ったらさ。いい年なんだから、カレシの一人でも連れて帰ってきなさいってお母さんが言うわけ」
「妙な角度のボールを投げ込んでくるな」
「んー。ダメか」
氷室は首をかしげると腕を組んだ。
「そこそこ美人で、稼ぎも割とあって、実家は太いけど跡取りはもう決まっているから婿入りしなくてもいいし。氷室星夏って、お買い得物件だと思うけれど? マイナスポイントは煙草がやめられないのと、眼鏡女子なところかしら? あ、でも恭平君はどっちも大丈夫よね」
氷室の実家は金沢で長く続く温泉宿だ。
そこの長女がデザイナーなんて仕事に就いたものだから、妹に婿入りした旦那さんが跡を継ぐことになっているはずだ。
「いや、それで言ったら俺が不良債権もいいとこだろ」
別にイケメンでもない、業界の底辺でなんとか食い扶持を稼いでいるフリーのライターだぞ。
もちろん実家も太くない。
普通のサラリーマン家庭で、そのうえ長男だ。
「そうかもしれないけれど、容姿やスペックなんて結局はオプションだしね。言ってみただけよ。それで誰かを好きになるなんて愚かだわ」
俺の内心を見透かしたように、氷室は言った。
「でも、私と釣り合わないとか思っているでしょう」
「……」
苦笑したのが自分でもわかる。
「気にしすぎ。私がどこかの国のお姫様ならともかくさ」
「まあな。けど、ローマの休日をやるほうが気が楽だ」
身分が違いすぎて、そのほうが開き直れそうだよ。
氷室星夏は遠いところにいるくせに近すぎる。
俺が全然違う業界で、全然違う仕事をしていたなら、こんなにも気が引けることもなかったんだろうけどな。
「恭平君の気持ちもわからなくもないけれど」
「その呼び方、やめてくれ」
なんというか、むず痒い。
「なんでよ。恭平君は恭平君だし、私はそう呼びたいからそう呼ぶ。断固たる意志で」
「こんなところで断固たる意志なんて使うなよ」
それが使用回数に制限のある特殊能力だったら、とんだ無駄使いだ。
とはいえ。
氷室は言い出したら聞かないので、俺は観念するしかない。
「一緒に仕事をするパートナーとして、実績や肩書きで自分が相手と釣り合わないと思うのはわかるわ。私だってそう思うクリエイターは何人もいるもの。けれど、アートディレクターの氷室星夏と、一人の女子としての氷室星夏を一緒にしないでほしいな」
組んでいた腕を解くと、氷室は俺の顔を覗き込むようにして、ぐいっと姿勢を前にした。
わざとらしく眉間に皺を寄せ、眼鏡の奥の目を細めている。
まるで俺を品定めするかのように。
「んー。仕方ないわね」
「なにがだよ」
「私とローマの休日をしましょう」
言葉の意味がわからず、俺は無言で「なんだって?」という視線を返した。
「次の休み、久しぶりにデートでもしましょう」
氷室は一転して表情を崩すと、おかしそうに笑った。
「お試しで。試用期間」
「合格したら寄りを戻すって?」
「そうね。けれど、これはお互いによ。恭平君が泣いて土下座して寄りを戻したいと言っても、私がNGな可能性もあるわけだし」
「その世界線の俺には、なにが起きてるんだ?」
「やっぱり氷室星夏はいい女じゃん、いますぐ結婚したい――ってなっている」
「寄りを戻すどころか、すげえ飛躍してるじゃねえかよ」
俺の苦々しいつぶやきを無視して、氷室は屈託なく笑っている。
普段はクールに見えるくせに、昔から笑顔は可愛いやつだった。
「連絡先は変わっていないわよね? 時間とか連絡するから。ドタキャンしたらぶん殴る」
「せめてビンタにしてくれるか?」
俺はため息混じりに言った。
氷室は「わかったわ」と真面目な顔で言って、ビンタの素振りをした。
まったく。
言われなくても、知ってるよ。
氷室星夏がいい女だってことくらいはな。
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