20.昔みたいに二人でやるのもいいかなって
色々と迷った末に、俺は氷室のメールに返信した。
営業メールへの反応なんて、どれくらいまってもこの一通なのは目に見えてる。
実相寺からなにか仕事が回ってくるかも知れないが、それでスケジュールが埋まり切るほど俺は売れっ子じゃないからな。
背に腹は変えられない。
そもそも別れてから何年も経っているわけで、変に意識しているのは俺だけなんだろう。
それは元カノだからというわけではなく、クリエイターとしてのコンプレックスのほうが大きい。
氷室がよく言っていた、誰もが認める箔がついた状態のあいつと、仕事をするのはおっかない。
「居心地悪いな」
俺が返信したメールに、氷室はすぐに反応してきた。
暇なのかと思うほどのレスの速さだ。
まち合わせに指定されたのは青山のカフェで、俺は新宿の雑居ビルを出た足で同じ東京とは思えないオシャレ空間に身を置いている。
店内は白を基調に、大きく取られた窓からは陽光が降り注ぎ、木の床やテーブルと合わさって明るく暖かい雰囲気だった。
氷室との打ち合わせと言えば、喫煙OKの場末の純喫茶と相場は決まっていたんだが。
それはいま、実相寺に取って代わった。
「あいつの会社が、確かこの辺りだからな」
俺はどんな豆を使ったらこんな値段――それでもこの店で一番安い――になるのかと思うアイスコーヒーをちびちびと飲んだ。
スマホにメッセージが届いている。
氷室からかと思ったら、陽向からだった。
『お昼は何時くらいに帰ってきますか?』
『なにか食べたいものありますか?』
という、今日の料理当番としての催促だった。
氷室の件で動揺していた俺は、昼には帰れなさそうだと伝えることをすっかり忘れていた。
無視しようかと思ったが、既読がついたことを陽向が確認したのだろう。
次々とメッセージが飛んでくる。
『連絡してくれないと準備していいかどうかわからないんですけど?』
『既読なのはわかってますよ』
『無視するとかあり得ないので』
『人の心ないんですか?』
吸血鬼が人の心とか言ってるんじゃないよ。
俺は恐る恐る「急な仕事の依頼がきたから昼は帰れない」と、返信をした。
『そういうことは早く言ってください』
『いいお仕事ですか?』
――コンペ案件らしいからわからん。
――話をこれから聞く。
『営業したらすぐに仕事がくるなんて』
『桜井さんをみくびっていました』
『服が欲しいので』
――うるせえ!
俺は陽向とのやり取りを強引に打ち切った。
普通は営業してすぐに仕事なんてくるわけないだろ。
ましてや元カノへ誤爆した営業メールに返信があったなんて、天文学的な確率だぞ。
「それに飛びつく俺も俺だが……」
少し冷静になって考えてみれば、あまりにも情けない。
客観的に見れば、仕事がなさすぎて何年も連絡を取っていない元カノに営業メールを投げた状態だからな。
俺は氷室がまだきていないことを幸いに、このまま店を出ようかとも思った。
だが、一歩遅かった。
立ちあがって入り口に視線をやったのと、まち合わせの相手が入ってきたのはちょうど同じタイミングだった。
不意に目が合う。
「桜井」
氷室星夏は少しだけ笑顔になると、俺に向けて軽く手を振った。
何年も連絡をしていなかったことがウソみたいに。
「ごめんね。前の打ち合わせが長引いた」
彼女はごく自然にそんなことを言いながら、俺の向かいに座ってしまう。
「どうしたの? 座れば?」
「ああ……」
俺は立ったまま、なにを言ったものかと思った。
久しぶりとか。
元気にしてたとか。
そういう毒にも薬にもならない、ぎこちない会話を交わすものかと思っていたのだが。
氷室はまるで昨日も会ったみたいな態度だった。
「こういう店は似合わないけれどね、お互いさ。会社の近くだとオシャレな店しかないのよ」
「そりゃあ……新宿の場末で仕事やってたころと同じってわけにはいかないだろ」
俺はようやくそれだけを言って、ゆっくりと座り直した。
目の前にいるのは、確かに俺の知っている氷室星夏で。
こだわって髪を伸ばしているくせに、仕事中は邪魔だからお団子にしてボールペンをぶっ刺しているのも。
切れ長の一重瞼とフレームレスの眼鏡で、必要以上にクールに見えるのも。
金がないのを理由にファッションに無頓着で、ずっとデニムコーデだったのも。
なにも変わっていないように見える。
だが、中身は別物だ。
氷室星夏はいまや、新宿の場末で足掻いていた駆け出しのデザイナーなんかじゃなく、国内外で注目されている若手アートディレクターの代表格なんだからな。
「そういや、雑誌に載ってたろ。見たよ」
「あれを見たの?」
氷室はいやそうに顔をしかめた。
「オフィス背景に、あんないかにもなニコパチ写真なんていやだったのよ。見た目がいいのを売りにしているみたいでしょ?」
「見た目がいいのは前提なのかよ」
「さすがに女優やモデルとまではいかないけれど、そこそこの美人でしょ?」
それはそのとおりなのだが、日本人には謙虚さってものがある。
こう自信たっぷりにモノを言うのは、氷室のいいところであり悪いところだ。
「でも、もうアサラーというか、三十歳になっちゃったからな。うちにいる若い子からしたらババアだわ」
そんな若手には負けんぞ、という意志を言葉の端々に感じさせ、氷室は慣れた様子でアイスカフェラテを注文した。
「それにしても驚いた。フリーでやっていたときのメールに、いきなり桜井から連絡がくるんだもの」
「あー……俺だって返信があってびっくりしたわ」
営業メールの誤爆だということくらい、氷室なら察していそうなものだが。
なんで返信してきたのか、ちっともわからない。
いくらコンペ案件だからって、人が足りてないっことはないだろう。
俺は店員がアイスカフェラテを運んでくるのをまってから、氷室に言った。
「で、コンペだって?」
「ん。そんなに大きな案件ではないけれど。きちんとコンペフィーも出すわ」
「そいつはありがたいね」
コンペに落ちたらタダ働きなんてのは、目も当てられない。
そういう案件がごろごろ転がっているのも事実だが。
「やりようによっては、割と面白いかもと思って」
氷室がもってきた案件は、創業一〇〇周年を迎える醤油の蔵元のリブランディングだった。
一〇〇周年を期にコーポレート・アイデンティティを一新し、それに伴った新しい企業ロゴのデザイン、ウェブサイトやパンフレットなどの広報物の刷新、商品のパッケージデザインの刷新、一〇〇周年記念施策の実施などが求められていた。
こんな規模の案件、俺みたいな底辺のライターはほとんど経験したことねえよ。
「どうしようかと思っていたところに、桜井からメールがきたの。昔みたいに二人でやるのもいいかなって」
「俺にリブランディングのCIメッセージ書けって?」
「んー。それもあるけれど、提案に必要なコピーワークは全部。私と桜井しかいないもの。デザインは私がするし」
「なんでまた」
我ながら情けないことに、俺はビビってる。
ついこの前までは一行しか回答がないアンケートを渡されて、社員インタビューを書くような仕事をしてたんだぞ?
そりゃあ、気が引けるってもんだよ。
「〈ランドマークス〉の氷室星夏がもってるコンペ案件なんて、やりたいやつはいくらでもいるだろ?」
〈ランドマークス〉という会社は、アートディレクター出身のクリエイティブディレクターが独立して立ち上げたクリエイティブ・ブティックで、業界では名の知れた会社だ。
クリエイティブ・ブティックは、専門的なスキルをもった少数精鋭の制作チームみたいなものだが、広告代理店の下請けとして仕事する制作プロダクションと実態は大きく違う。
かなりざっくり言えば、広告表現によるサービスに一番の強みをもっている。
クライアントのニーズが多様化、複雑化、高度化するなかで、クリエイティブによる課題解決を軸にしている。
より素早く、より深く、より創造的に。
そういう提案を求めている感度の高いクライアントに、そういう提案を直接する。
図体が大きい総合広告代理店の、大名行列みたいな人数で一〇〇ページくらいの企画書をもってくるプレゼンとはよくも悪くも対極にある。
最近では大手の広告代理店がクリエイティブのチームをあえて子会社にして、そういったトレンドに対応するような動きもあるが。
なんにせよ俺とは無縁の、雲の上の世界の話だった。
〈ランドマークス〉はグラフィック、ウェブ、プロダクトを問わず圧倒的なデザインの技術が評価されているブティックだったが、いまでは領域を限定されない幅広い分野で存在感を発揮している。
企業のブランディングムービーを六十分の映画にしてVODサービスで配信したり。
大手の出版社のマンガアプリに設計開発の段階から関わったうえに、漫画の原作まで提供したり。
そんな感じだ。
何者かになった連中しかいない会社で、それでも氷室星夏は結果を出している。
まったく、大したやつだよ。
「初心に帰ろうと思ったの」
氷室はアイスカフェラテに口をつけると、ため息混じりに頬杖をついた。
「私はいま、それなりに結果を出しているけれど」
「それなりかよ」
「そうよ。ステージがあがるほど、私なんて大したことがないと思い知らされる。天才だと思っていた人ほど、私の何倍も努力しているし、一本の線、誰が読むんだっていう場所の文字組みにすら妥協しない。いやになるわ」
ちょっと俺にはわからない世界の悩みだ。
「それなのに、周りはチヤホヤしてくるから。無意識に勘違いしそうになる。それが怖いの。いまの自分に満足したら、成長なんてそこで終わりでしょ」
眼鏡の奥の怜悧な瞳が、俺を見つめてきた。
「だから。桜井と昔みたいに仕事をしたらさ、あのころのガッツを少しくらいは思い出せそうかなって思ったのよ」
賞なんてくだらないけど、好きな仕事をするには誰にでもわかる箔が必要だと言っていたあのころ。
二人とも何者でもなかったあのころ。
両手で数えきれないくらいの賞を国内外で取っている氷室が、それでもまだあのころの気持ちを思い出す必要があるのだとしたら。
この業界のトップクラスは人間じゃない。
クリエイティブに魂を売り渡した化け物だよ。
俺にとっては、月よりも遥か遠くにいるやつらの話だ。
「……ホントにいいのか? 俺なんてただのド底辺三流ライターだぞ?」
「は?」
氷室がむっとした顔になる。
「そんなこと誰が言っているわけ? ぶん殴ってあげましょうか?」
「よせよせ、事件を起こすな」
言っているのは吸血鬼だ。
氷室が返り討ちになっちまう。
「単なる自己評価だよ。実際、そんな仕事しかしてないからな」
「自虐的に自分を下げるのはやめなさい。桜井に仕事を頼んでいるクライアントからしたら、そんなことを言っているやつに仕事を頼んでいることになるのよ」
「……返す言葉もねえよ」
プロ意識というのはこういうものだ。
だが、俺は自分がやってきた仕事にそこまでの矜持をもてない。
氷室はむっとしていた表情を崩し、少しだけ笑った。
「それに私は、桜井のコピーは好きだった」
「ホントかよ……」
「そんなに上手くはなかったけれど」
俺は苦い顔になった。
週刊誌並にあげて落とすのが早いじゃねえかよ。
「レトリックに囚われない温度感があって好きだった。クライアントやターゲットのことを考えて、寄り添っている感じがして」
「それは俺の手癖だよ。意図して書いてるわけじゃない。だからダメなんだ」
本当のプロなら、案件ごとにベストな表現を意図して使い分けるものだ。
言葉の硬軟、リズム、読後感、そういったあれこれを高いレベルでコントロールしてトンマナをつくる。
残念ながら、俺はそこまでの技術を身につけられなかった。
だから、ハマらないときはちっともハマらない。
「んー? それは強みでもあると思うけれど。桜井がハマる案件に巡り合う回数が少なかったのよ。この業界、運もあるもの」
「だったら、氷室星夏の案件なんて、俺にも運が向いてきたか?」
すっかり薄くなったアイスコーヒーを飲み干し、俺は軽く言った。
運が向いてくるには、遅すぎる。
チャンスの女神の前髪を掴みたいとギラついてあのころを、俺はとっくの昔に忘れちまった。
「そうかもね?」
だが、氷室は割と真剣だった。
「振った元カノにメールしてくるくらい仕事に困っていたのが、転機になったりして」
「……いや、ちょっとまて」
「なに?」
「振ったのはそっちだろ?」
「は?」
「は?」
「違うわよ。私は振ってない。そっちじゃん」
「いやいや」
「……」
「……」
俺と氷室は無言でお互いの顔を見ていた。
なんとも言えない空気感。
強いて言えば。
ケンカをしていたカップルが、どちらかの一言で突然に元に戻る直前のような。
そんな妙な空気感。
俺は少し前にまったく同じ言葉を言ったなと思いながら、それでも胸中でつぶやくしかなかった。
どうするんだよ、これ。
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