13. 先輩のそういうとこ、ちょっと好き

 新宿の〈5T〉が入る雑居ビルの近くにある喫茶店は、時代に逆らうようにして喫煙席しかなかった。

 何十年も続く店の空気は、どれだけ空調を効かせたところで、どこか澱んでいる。

 平日の昼過ぎ。

 おじさんのサラリーマンで席は埋まっており、モデルみたいな女子大生と向き合っている俺は明らかに目立っていた。

「いやー、さすが先輩っす。よく一行しかないアンケートから、妄想で原稿書けますよね」

「うるせえよ」

「褒めてるんじゃないっすか」

 実相寺はノートPCを閉じると、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーに口をつけた。

「頭なでなでしてあげましょうか?」

「いらねえ」

「えー、なんなんすか。あたしのサービス精神を無駄遣いさせないでほしいっす」

 俺がきっちり締切を守って提出した、採用ホームページの社員インタビュー。

 三十人分。

 半分は数行のアンケートから、俺がいままでの知見と経験をフルに使って書いたそれっぽい話だ。まあ、確かに妄想とも言う。

 けどな。

 接客業の人間に仕事のやりがいを取材すれば「お客様からありがとうと言われることですね」。営業の人間に仕事のやりがいを取材すれば「お客様と信頼関係を築いて、提案がとおったときですね」。と、いったようなテンプレの答えというものがある。

 そこからどう個人のエピソードを深掘りしていくのかが、取材の腕の見せどころでもあるんだが。

 逆に言えば、そういう当たり障りのないことを色々と言い換えて文字数を稼ぐこともできる。

「とにかく納期優先だし、修正はなしで大丈夫っす。クライアントからなにかあったら、あたしのほうで対応しとくんで」

「そりゃありがたいね」

「請求書は今月末〆で送ってくださいよ。いつもどおり翌月払いで振り込むっすから」

「ああ、いますぐにでも送ってやるよ」

「先輩、がっつきすぎ。ワロタ」

 弓削さんの会社は金払いが早いので助かる。

 場合によっては三ヶ月後に支払いなんてこともあるからな。

 俺はすっかり冷めてしまったブレンドコーヒーに口をつけ、美味くも不味くもない味に懐かしさを覚えた。

 駆け出しだったころは、よくこの喫茶店で打ち合わせをしたものだった。

 対面には発注主の生意気な女子大生ではなく、駆け出しのデザイナーだった氷室星夏が座っていた。

「先輩。女の子と二人のときに、ほかの女のことを思い出すのはダメっすよ」

「お前はただの取引先の女じゃねえかよ」

「なに言ってんすか。あたしはただの取引先の女じゃなく、先輩みたいな底辺ライターに仕事を与える女神っすよ。女神」

「女神なら、納期に余裕があって、予算が潤沢で、面白いことできる仕事回してくれ」

「そんな仕事はこの世に存在しないっすね」

 自称・女神は容赦なくそう言った。

 俺もそう思う。

 言ってみただけだ。

 むしろそんな依頼がきたら、詐欺かドッキリだと疑っちまう。

「もー、なにが不満なんすか。原稿料はこれ以上出せないんで、すっごいエッチな自撮りあげましょうか?」

「お前、ホントに、そういうとこだぞ。誰にでもそういうこと言ってると、そのうち痛い目見るからな」

「いやいや。誰にでも言ってるわけじゃないんで。先輩はからかうと面白いから、特別に言ってるんすよ」

 実相寺はわざとらしく舌を出し、アイスコーヒーのストローをゆっくりと舐めた。

 色っぽい流し目で、こちらを見てくる。

「ほら、動画に撮ってオカズにしていいっすよ?」

 チロチロと動く舌が、エロい。

 なにがとは言わないが、絶対にうまい。

「いいわけあるか。次に仕事するとき気まずすぎるわ」

「じゃあ、お互い見せ合います?」

「じゃあ、の意味がわからん」

「あたしも先輩をぉ、オカズにするんでぇ、お互い貸し借りなしになるって話っすよぉ」

 わざとらしい甘ったるい声を出して、実相寺が身体をくねくねさせた。

 ウソつけ。

 なにが貸し借りなしだ。

 下手したらそれをネタに原稿料下げられたりするのが目に浮かぶぜ。

 俺が童貞だったらヤバかったかも知れないが。

 残念ながらいまの俺は、仕事の対価はきちんと金で払ってほしい社会人だ。

「逆セクハラで訴えるぞ。ない胸を寄せるな」

「ひどー! ない胸ってなんすか。ありますー。Aカップだけど、胸ありますー」

 本気で怒っているわけではなく、プク顔で怒ったふりをする実相寺はとても愛嬌がある。

 この女はさぞかしもてるだろうなあ、というのが俺の率直な感想だ。

「感度いいから確かめてほしいなあ。チラッ」

「チラッ、じゃねえよ」

「……まったく」

 実相寺が深く深くため息を吐いた。

「先輩は繊細な乙女心をわかってないっす。なんなんすか。不能なんすか。勃たないんすか?」

「うるせえよ。仕事関係とはそういうのはなしだ」

「はー? 氷室星夏と別れたことまだ引きずってんすか?」

 実相寺は呆れた声でそう言うと、薄汚れた天井を仰いだ。

 へっ、とやさぐれた顔になり、リュックから取り出した煙草を咥える。

「氷室星夏なんて、いまや業界では超有名なクリエイターなんすから」

 いまどき珍しいブックマッチで火を点けると、実相寺は紫煙と一緒にため息を吐いた。

「先輩には高嶺の花子さんっすよ。偶然と夏の魔法の力でも無理っす。手頃な女子大生で我慢すべき」

「なんで女子大生縛りなんだよ」

「目の前にいるじゃないっすか。手頃な女子大生」

「お前は手頃じゃないだろう」

 俺は別に氷室星夏と別れたことを引ずっているわけじゃない。

 かつて一緒に業界の最底辺であがいていた仲間が。

 手の届かない場所にいってしまったことが。

 何者かになってしまったことが。

 たまらなく苦い感情を俺のなかにつくりだす。

 ちっぽけなプライドが、素直に祝福することを許さない。

 有体に言って、俺は氷室星夏にコンプレックスをもっている。

 そして、目の前にいる実相寺真夏もいつきかきっと何者かになるだろう。

 だから彼女は手頃でもなんでもなかったし、俺は自分のしょうもない心の傷に塩を塗り込むような真似はしたくない。

「いやー、先輩、こじらせてるっすね」

「……」

 俺は無言でブレンドコーヒーを啜った。

 返す言葉もない。

「とはいえ。あたしのこと手頃だと思えるようになったら、いつでも口説いてくれていいっすよ。あ、先輩も煙草吸います?」

「やめたよ」

「えー、なんでやめたんすか。また喫煙者仲間減った」

「健康のためだよ。健康のため」

 本当は値上げによる値上げに、俺の財布が耐えられなくなっただけだが。

 財布の健康のためにやめたのだ。

 実相寺と無駄話をしている分には気楽なものだったが、俺は次の予定があるのでスマホで時間を確認した。

 陽向から昼飯を催促するメッセージが入っている。

 なんて遠慮を知らない女だ。

 だが、そのおかげで写真のことを思い出す。

「実相寺、ちょっと聞きたいことがある」

「なんすか? パンツの色はさすがに言えないっす」

「聞いてねえ」

 俺はスマホに、陽向の家族写真を表示させた。

 彼女が探しているという、家族の思い出の場所。

 桜が満開になっている川沿いの並木道。

「ここ、どこかわからないか?」

「ちょっと、先輩。仕事なさすぎて探偵業でもはじめたんすか? そんなことする前に、もっとあたしを頼ってくれてもいいじゃないっすか」

「探偵なんかはじめるかよ。ちょっとした知り合いからの頼まれごとだ」

 実相寺が本気で心配そうな顔をしているので、俺は慌てて否定した。

「ホントっすか?」

「俺は結局、モノを書くのが好きだし、潰しも効かない。この仕事をやるしかないんだよ」

 俺はもう――業界でスポットライトを浴びるような仕事を手掛けることは一生ないだろうことは理解している。

 社会課題を解決したり。

 新しい価値観を世の中に問いかけたり。

 誰もが知っているような有名なキャンペーンを成功させたり。

 クリエイティブが、広告を超えた作品としてずっと語り継がれたり。

 俺の広告マンとしての人生は、そんな何者かになる人生じゃなかった。

 そうじゃなかったが、人生は続く。

 だから俺は、業界にいる有象無象の一人として食い扶持を稼いでいる。

「先輩のそういうとこ、ちょっと好き。誰のせいにもしないで、結局はしょうもない仕事でもがんばっちゃうとこ」

「そうかい。そいつはありがとよ」

「おーい、さらっと流しすぎでは?」

「そんなことより、この場所がどこかわかるのか、わからんのか、どっちだよ」

「そんなことって……もー、こんなどこにでもありそうな場所、わかるわけないっす」

「だよなあ」

 咥え煙草のまま俺のスマホを覗き込む実相寺のつむじを見つつ、軽く嘆息する。

 家族との思い出の場所を探すという陽向の目的を、俺はなんの因果か手伝っている。

 とんだお人好しってわけじゃない。

 そうすることで、ネタになるもう少し深い話も聞けるだろうと思ったし。

 陽向はそのうちに実家に連れ戻されることを覚悟しているような感じだったから、それまでに家出してきた目的くらい果たすことができてもいいだろう。

 そのほうが、美しいストーリーってもんだ。

「あ、でもこれ、河津桜っすよ。多分」

「なに?」

「写真に二月の日付入ってるじゃないっすか。この時期に満開になる桜なんて、それくらいしかないんで」

 そう言われて、俺はスマホに表示している写真を見た。

 確かに右下にデジタル数字で撮影された日付が小さく入っている。

 スマホの画面だったこともあり見落としていた。

 というか。デジタルデータになってからこっち、写真に日付が入るという価値観がすっぽり抜け落ちていた。

「伊豆の河津桜まつりが有名っすけど、そこかどうかは。それっぽいっすけど」

「伊豆かよ。まあまあ遠いじゃねえかよ」

 関西じゃないと言っていたし、案外当たってるかもな。

 それに有名どころからいくのはセオリーってものだろう。

 俺は伊豆への経路を調べようとしたが、着信したメッセージがそれを邪魔した。

 陽向からだった。


『これ以上またせたら、JKとエンコーしたって通報しますから。お腹が減ったので』


 俺はそっと既読スルーした。

 まったく。

 現代の吸血鬼はマジで恐ろしい脅迫をしてきやがる。

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