第3話
11.失踪したんです
「!」
不意に意識が覚醒すると、夜中の三時だった。
完全に仕事をしながら寝落ちしていた。
安い栄養ドリンクなんて、気休めにしかならない。
「あー、くそ、身体痛い」
イスに座ったまま寝ていたせいで、疲れが取れるどころか余計に疲れている。
社員インタビューの原稿は七人目に取り掛かったところまでは覚えているが、どうなったのだろうか。
「……」
俺は無言で、スリープモードになっているノートPCを立ちあげてみた。
七人目の原稿は途中で意味の分からない、
sqw09e5215tO^=Siodj1/.w!F?w¥ed;lpu
という記載になっていた。
睡魔と戦いながら、朦朧とした意識でなにかを書こうとしていたことだけはわかる。
寝ている間に妖精――だかなんだか――が、仕事を片づけておいてほしかったのだが。
「吸血鬼がいるんだから、謎の妖精もいてほしいもんだよ」
俺はイスから立ちあがり、伸びをして固まった筋肉をほぐした。
部屋には、その吸血鬼の姿はない。
うちには客用の布団なんて気の利いたものはなく、リビングのソファで寝られると仕事の気が散るので、ベッドで寝るように言ったのだが。
「そういえば――」
俺は不意に気になって、スマホでネットニュースを検索してみた。
ラブホから飛び降りてきた女高生が、自動車と激突して逃走したんだ。
大きなニュースになっていてもおかしくない。
だが、大手のニュースサイトはもとより、SNSにもそういった書き込みはなかった。
あの出来事がなかったことになっている。
「そんなことがあるかよ」
吸血鬼のなんらかの能力で、目撃者全員、見なかったことにされているのか?
そういえば昔見たアニメで、そんなようなのがあったな。
あれは吸血鬼の能力なんかではなく、電脳をハックして視覚情報を操作していたが。
なんにせよ、ニュースになっていたらすぐに警察がうちにきてる。
そういう意味では、俺は間抜けなほどに気づくのが遅かった。
「まったく、とんでもないやつだ」
世羅陽向は本物の吸血鬼。
だが、話している分にはただの女子高生だ。
少しばかり行動力があったり、常識がなかったりするかも知れないが。
俺は彼女の様子を確認するため、寝室のドアをそっと開けてみた。
「……おい。マジかよ」
いない。
ベッドは空っぽだ。
部屋を出ていったのか。
だとしたら、俺は無駄な出費をしただけでまったく元を取れなかったことになる。
俺は咄嗟に外に探しに出ようかと思ったが、ベランダから声が聞こえてくることに気づいた。
陽向の声。
日本語じゃない、俺の知らない歌。
「……」
俺はそっと寝室のドアを開けて、なかに入った。
薄暗い室内。
ベランダに面した窓からは、淡い月光が漏れている。
彼女は確かに、そこにいた。
少し身体を揺らすようにして、夜空を見あげて歌っている。
闇に溶け込む黒い髪と、月に照らされる白い肌。
思わず息を呑んだ。
まるで、幻想文学に登場する吸血鬼そのものだ。
だが、着ている服はスウェットなので、
「台無しだな」
俺はそう声に出して、口元が苦笑するのがわかった。
陽向はこちらに気づいていないらしく、機嫌よく歌っている。
少しもの悲しい感じのする静かな曲で、ジャズっぽい。
夜の闇に吸い込まれていく澄んだ歌声は、心地いいものだった。
自然と耳に残り、聞いていたくなる。
だが、こんな真夜中にベランダで歌っているやつがいたら、どれだけうまかろうが近所迷惑だ。
管理会社からクレームの電話がかかってくる前に、俺は窓を開けて彼女の背中に声をかけた。
「うまいもんだな」
「にゅっ!」
奇妙な声があがる。
こいつは驚くと奇声を発するくせでもあるのか?
「急に話しかけないでください。びっくりするので」
こちらを振り返り、陽向が睨んでくる。
どことなく恥ずかしそうにしているのは、歌っているところを見られたせいだろう。
誰もいないと思って機嫌よく歌っていたら、実は人がいたなんて最悪だ。
「しばらく聞いてたよ」
「余計にひどいです」
「そこいらのアイドルなんかより、よっぽどうまいと思うけどね」
ベランダに出ると、ひんやりとした夜風に目が覚める。
五月とはいえ、まだ夜は肌寒い。
「そんな、褒めてもなにも出ませんから」
「ホントだって」
「本当ですか?」
日向が上目遣いにこちらをうかがってくる。
疑いつつも、口元がにやにやしているあたり、褒められことが嬉しいらしい。
「俺はウソをついたことがない善良な男なんだよ」
「それがウソじゃないですか」
「いやだねえ。世の中をそんな斜に見てるんじゃないよ」
「エンコーしてるJKを取材しようとしていたこと、わたしにウソついてましたよね?」
「それは俺の知らない記憶だな」
俺は至極真面目にそう答えると、彼女の隣に並んだ。
なんの変哲もない、深夜の住宅街の景色。
「もう!」
陽向は頬を膨らませて、プク顔をつくった。
呆れているのか、怒っているのかは、よくわからない。
彼女はしばらく黙っていたが、
「あの……ありがとうございます。褒めてくれて」
不意にそう言った。
ぽつりとした声が、夜の闇に溶けていく。
「うまいから、うまいって言っただけさ。全然、いま流行ってる歌じゃないけどな」
「パ……父が好きで」
普段はパパと呼んでいるらしい。
「子どものころは家でレコードがかかってました。それで覚えたんです」
「なかなかいい趣味だな」
陽向の容姿を見るに、きっと父親もイケメンに違いない。
ウィスキーを飲みながら、ジャズを聴いたりしているんだろう。
テレビCMに登場する、いたらいいなと思える大人そのものだ。
「歌うと父が褒めてくれて。それが嬉しくて、いろいろと覚えました」
父親に褒められたことを思い出したのか、陽向が小さく笑う。
きっといい思い出なんだろう。
この年頃の女子なんて、無条件に父親のことを嫌っているものだと思っていたが、彼女はそういうわけでもないらしい。
世の中の娘を持つお父さんに朗報だな。
「そんな一人娘が家出したら、パパもさぞかし心配してるだろ」
「いえ。パ……父は」
頑なにパパとは言わず、陽向は深い息を吐いた。
視線はずっと前を向いている。
「何年も前にいなくなりました。世羅の家がいやになって、失踪したんです」
「は?」
予想外の言葉に、俺は間の抜けた声をもらした。
視線がこちらに向けられる。
強い意志が、黒い瞳の奥にある。
彼女は言った。
「わたし、父を探しにきたんです」
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