第37話 夕暮れ時、久人は、恵令奈先輩から耳元で囁かれる

「恵令奈先輩……今日はすいませんでした。急に、デートできなくなって」

『別にいいよ。気にしていないから。久人にとって、大切な用事だったんでしょ?』

「はい……」


 阿久津久人あくつ/ひさとは戸惑いがちに、返答した。

 やはり、隠し事をしながらだと、反応に困るというものだ。

 胸の内が痛むものの、何とか冷静さを保つようにした。


 早坂汐里はやさか/しおり大段東海おおだん/あずみ先輩と途中で別れ、夕方の頃合いに、久人は自宅に戻っていたのだ。

 今は、自室に一人、勉強机前の椅子に座り、神崎恵令奈かんざき/えれな先輩と電話のやり取りをしていた。


『久人って、今日はどんな用事だったの?』

「用事っていうか、そんなに大した用事ではないので……」

『もしかして、私に言えないこと?』


 恵令奈先輩の声のトーンが変わった。

 久人は、耳元で囁く彼女の口調にドキッとしながら、少しばかり無言になる。

 唾を呑み、ゆっくりと口を動かす。


「そうでもないですけど。えっと、ですね……妹の弥生と一緒に。その、街中に行ったというか。買い物の手伝い的な。弥生がさ、急に手伝ってほしいって、言ってきてさ」

『へえ、手伝いしてるんだ。偉いね』

「偉いっていうのかな」


 久人は軽く苦笑いをして、その場を誤魔化す。

 今日は殆ど、弥生とは関わっていない。


 それにしても、何かを口にすれば、隠し事がじわじわと増えていっている気がする。


『凄いよ。妹のために、そこまでできるなんて』

「まあ、そうですかね」


 久人は照れ臭そうに言った。電話越しなので、顔を見せ合ってやり取りをしているわけじゃない。

 本当のことを言わないことで、多分、先輩を助けていると思う。


 だが、嘘をつきながらだと、冷や汗が額から流れ出てくる。その汗を、手や腕で拭うのだった。


 ボロが出ないように、何とか乗り切らなければ……。


『今週の話だけど、どこに行く? 久人は決めていたかな?』

「えっと、大体は決めてはいますけど」

『そう? じゃあ、どういうところがいいの?』

「でしたら、夏ですし、映画館とかは?」

『映画?』

「はい。夏休み期間中で、色々な映画が上映されていますので」

『んん……そうだね。その場所に行くのもいいかも』


 恵令奈先輩は少し悩むように唸ると、その後で肯定的に、久人の意見に賛同してくれたのだ。


『映画って、何があるかな? 私ね、映画館に行く予定とか、この頃なかったの』

「そうなんですか?」

『うん……だからね、丁度いいなって。久人は何が好きなの? どんなジャンルを見ることが多いのかな?』

「俺は……えっと……恵令奈先輩は逆に、どんな映画が好きなんですか?」

『私? 私の場合、見る作品に偏りがあるかもしれないけど……基本的に青春系とかかな?』

「青春系……」

『あれ? 久人は違う? 青春系とか好きじゃなかったかな?』

「別に、それでもいいですけど。あと、一応、聞いておきますけど、恵令奈先輩って、暗い話とか好きですかね?」

『暗い話? もしかして、ホラー系?』

「はい」


 久人は先輩の反応を伺う。


『……いいよ』

「え?」

『私、ちょっとホラー系は苦手だけど、久人がそういうのを好きなら、それでもいいよ』

「いいんですか?」

『うん』


 恵令奈先輩は頷き、承諾する声が返ってくる。

 先輩もホラー系は苦手認識があるようだ。

 多少の恐怖心を煽る感じであれば、何ら問題はないだろう。


 それにしても、今日の東海先輩は危うかったと思った。

 久人は数時間前のことを振り返ってしまう。

 今日、街中にいた時間が、つい先ほどのように感じられる。

 それほど印象的だった。


 なんせ、ホラー映画を見た直後の東海先輩は気分悪そうにしていたからだ。

 東海先輩は無理をしていたのだろう。

 怖いのが苦手なら、ハッキリと言ってほしかった。

 大事にはならなかったのは唯一の救いである。




『ねえ、久人、聞いてる?』

「え? あ、はい……」

『もしかして、聞いていなかった?』

「……き、聞いていました」


 久人は体をビクつかせ、恵令奈先輩の声へ、意識を戻す。

 少々、今日の昼頃のことに浸りすぎていたようだ。


『ねえ、聞いているのならいいけど。それで、映画ってこと?」

「はい」

『じゃあ、映画ね。見るのは、ホラー系ってことでいいのね?』


 先輩は確認のために聞き返してくる。


「そ、そうですね。でも、恵令奈先輩は本当にそれでいいんですか?」

『別にいいよ。私は、久人が見たいっていうなら、それでも』


 久人にとって、恵令奈先輩の声を聴いているだけでも心が癒されている感じだ。

 先輩の承諾を得られたことで、合法的にホラー映画を見ることができるというわけである。


 恵令奈先輩は、どんな反応を見せてくれるのだろうか?

 ホラー映画を見ている時に、抱き付いてきてくれたら最高だと思った。

 そんな妄想に浸りつつあったのだ。


『じゃあ、映画は明日にする? 私、暇だよ、久人は?』

「お、俺も大丈夫です」

『本当? では、明日ね』

「はい」


 久人は迷うことなく、元気よく頷いた。

 これで、明日の予定は万端である。


 やっと、ひと段落ついたところで、久人は胸を撫で下ろすのだった。


『久人、また明日ね。そうだ、集合場所は、どこにする?』

「俺の家……いや、現地集合でもいいんじゃないですかね? 街中に公園がありますし。そこらへんとかで」

『そうだね、あの場所ね。わかったわ。何か変更があったら、また連絡してもいいからね』

「はい」


 久人は先輩と会話していると、口元が緩んでいた。


『電源切るね』

「はい、また、明日ってことで」


 恵令奈先輩と通話を終え、久人はスマホ画面をタップするのだった。


「……はあぁ……」


 久人は肩から力を抜き、椅子から立ち上がるなり、ベッドへダイブする。

 久人は、自室の天井を見ていた。


「えっと、明日のために、何か準備しておくことはないかな?」


 久人は呼吸を整えながら辺りを見渡す。


「じゃあ、どんな服を着ていくかだよな」


 それにしても、恵令奈先輩にバレなかったことが救いである。

 今日、あの二人と付き合っていたとか口が裂けても言えない。

 久人はベッドから上体を起こすと、拳を軽く握った。


 今は明日のことを考えればいいと思う。

 思いっきり疚しい感情を抑え込み、納得するように自分の中で解釈していた。




 人生で始めて、付き合っている子と夏休みデートできるのだ。

 デートを成功させるためにも、それなりの準備が必要である。


「じゃあ、明日から――」

「お兄ちゃん」

「え?」


 急に妹の弥生やよいが姿を現したのだ。


「な、なんだよ、急に」

「もう、夕食の準備ができたってこと、早く来てくださいね」


 弥生は勝手に扉を開けているのだ。いつものことだが、ノックくらいはしてほしいと思う。


「もうできたのか?」

「はい。お兄ちゃんの好きなものもありますから」

「そうか、じゃあ、そろそろ行くよ」


 久人はベッドから立ち上がり言う。


 そのまま自室を後に、弥生と共に階段を下りて、一階リビングへと向かうのだった。

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