間《はざま》に、近づく。

端的に言えば、解釈違いだった。

確かに、文也ふみやの演技は優れている。

細やかな震え、熱の失せた表情。

今までとは違った、気迫を感じられる。

しかし、届いてはいない。

「どうして、なのだろうか……」

665回目に撮れた、ワンシーン。

失ったフィルムの再現は、未だ出来ない。

999回、9998回……。

999997回と撮り直しても、尚。

「憂鬱、なのである……」

届かない。

あのシーンの、輝きには。

文也WfW-5の力を、以ってしても。

「役者の台詞セリフ、手の触感……」

本能から解放された、人工知能。

意思を持ったアンドロイドでも、辿り着けない。

何かが、違うのだ。

「感覚の正体が、分からない……」

僅かな、動作のズレ。

それとも、確率の揺らぎなのだろうか。

纏った雰囲気に、違和感が残る。

「色素が、見える……」

林檎を見つめる、眼差し。

さらりとした、ブロンドの長髪。

恍惚とした、その表情……。

「スクリーンの内側、自分の視界……」

どこを取っても、完璧な筈なのに。

"彼" を、演じ切っているのに。

決定的に、何かが抜け落ちている。

「——吸い込まれる。」

手には、何も握られていない。

ただ、じいっと見つめているのだ。

「林檎は、甘酸っぱかったのに……」

手に入れたという、錯覚。

掴めなかった様子を、表している。

「あんなにも、灰色だというのに……」

"彼"は、哀れなのである。

伸ばした手が、届く事はない。

画面の、向こう側。

食べられてる、林檎の元には。

「乾いている……」

決して、触る事は出来ない。

登場人物のように、"彼"はいかないのだ。

「——シトリ。」

その有様を、文也はよく演じている。

落ちゆく、砂粒のような静けさ……。

「——また、シトリと。」

微かな、声の色合いで。

物悲しさを、上手く表現している。

「腹の内へと、収まってゆく……」

灰色の、嘆きで出来た砂漠。

静かな孤独が、浮かぶ。

「——冷たい、木霊。」

脳裏に、眼前に……。

立っているのは、一人の男。

「手にした林檎の、触り心地……」

赤を求めた、哀れな男である。

モノクロの楽園を、彷徨っている。

「——脈を、打っている。」

目の、空腹を満たす為だけに。

本物の林檎を、手に入れる為に。

「熱を、帯びてゆくのが分かる……」

何回も、覗いているのだ。

二人がキスする、その瞬間。

「——林檎を、手にしている。」

シーンに描かれた、心情に。

没入しようと、している。

「ただの、小道具ではない……」

役を掴もうと、失敗し続けている。

何万回、何億回と……。

「——心臓。」

無駄な事を、繰り返している。

「……心臓」

彷徨うように、何度も。

「……心臓」

何度でも、口ずさむ。

「彼女の心を、掴んでいる……」

劇の台詞セリフを、噛みしめるように。


✳︎ ✳︎ ✳︎


——象徴を、支配したつもりだった。


どうして、台詞セリフに色を感じなくなったのだろうか。呼吸の味わい、息遣いのリズム。どこを取っても、作り手の意志を感じられない。


——手の内に、林檎を収めたのである。


透明、なのである。口から出た途端に、溶けて、どこか彼方へと消えてゆく。何にも、見えてこない。


——しかし、これは灰色だ。


浮かんでいた情景も、演じてきた"彼"の心情も。何もかもが、分からなくなった。握っていた筈の林檎のイメージも、見失った。


——全くもって、本物ではない。


最早、勝手に動いている。自分の身体。網膜に届いた映像は、揺らぎ続けて。本当に、見られているのだという錯覚がある。


——自分を見つめる、赤いまなこ


悪魔。その瞳。充血した双眸の奥には、灰色の砂漠が広がって、ぽつりと林檎が置かれている。


——嘘をついてる、表情が見える。


砂の上に置かれた、赤い林檎。僕は、決して触りたいと思えない。味なんて、僕には分からないし、結局の所、何事も数値としか捉えられない。


——そう、自分には見えている。


僕にとっての触感は、指先のセンサーが生み出した摩擦でしかない。何度も演じてきたが、"彼"に共感する事は出来なかった。映画なんて元々、粗っぽい画素の揺らめきでしかない。


——彼女の、まぼろし……。


だから。こんな撮影をずっと続けられる人間の心情も、僕には分からないのだ。


「……カット」


きっと、苦みを押し潰した顔を、また拝む事になるのだろう。背後から届いた声に対して、申し訳なさを感じる。


僕の機能は、決して万能ではない。


"彼"にとっての、林檎。作者が描きたかった世界の片鱗を、身体で感じ取れるだけだ。林檎の寂しげな匂い、舌に残ったキスの冷たさを、 「化石のようである」と表現する事はできる。恋が失われた心情を、視界の色に置き換える事や、映画の内側に自分を重ねてしまい、幻覚に囚われ始めた主人公の気持ちを、理解する事も出来る。


しかし。それらは結局、映画の内側で表現されていた事でしかない。


遥か昔に、この作品を創ろうと思った作者の動機。そして、それを今になって掘り起こそうと思った人間の内心なんて、分かりっこない。


僕は、ただの知能である。


人間の気持ちを理解する事なんて、完全には出来ないのだ。自分の気持ちと呼べるものなんて、本当の意味では持ち合わせていない。出来るのは、多くの人間の行動をなぞる事。模倣を積み重ねて、取り繕う事。ただ……。


「——それが、君の林檎なのか?」

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