第23話 ひまわり



志憧しどう、どこー」


 迷路になったひわまり畑の向こうから、杏珠あんじゅの声が聞こえる。杏珠の背丈ではどんなに背伸びをしたところで、頭の先も見えない。人の少ない平日の昼間、杏珠と志憧のほかには誰もいない。

 来年小学校に上がる杏珠と自由な時間を過ごすことは徐々に難しくなる。ひまわりを見たい、といった杏珠の希望で郊外の植物公園にやってきた。


「杏珠、どこだ?あんまり遠くに行くんじゃないぞ」


「志憧、みえないよー」


 杏珠の声を頼りに志憧は迷路を進んだ。小さな靴の足音が近づいてくる。運良くどちらも相手を探して近づいてきている。角を曲がると、数メートル先に杏珠の姿があった。今日は白いレースのワンピースと麦わら帽子。お気に入りの黄色いサンダルは、ひまわりと同じ色だから、と言って前の晩から用意していた。


「いた!」


「探したぞ。ほら」


 志憧が手を出すと、杏珠は素直にその手を握り返し、鼻歌を歌いながら歩きだした。今日は向かう車の中から、ずっとスカボローフェアを歌っている。そのうちに耳だけで発音を覚えそうだ。


「もうすぐ小学校だな」


 志憧が言うと、ぴたりと歌が止まった。そして歩くのをやめた。


「どうした?」


「・・・いきたくない」


「学校に?」


「志憧はいっしょに行く?」


「俺は行けないよ。なんでいやなんだ?」


「やくそくしたのに」


「約束?」


「ずっといっしょにいるっていった」


「杏珠・・・・・・」


「ひとりで行くのいや」


 杏珠を引き取ったときのことを、彼女はしっかり覚えているのだ。施設に預けられた杏珠を引き取るまで、手続きに数年の時間を要した。やっと迎えにいった時、杏珠の父親という大義名分を持って行ったが、産まれてすぐにひとりきりになった杏珠にとって、急に「父親」だと言われたところで理解できないだろうと思っていた。

 杏珠という名前は、亡くなった両親が決めていたそうだ。志憧は三歳の杏珠に初めて逢ったときのことをよく覚えている。くるくると巻いた顔周りの髪の毛とまるい瞳。不安気に見知らぬ男を見上げていた。


(だあれ?)


(・・・志憧)


 パパだよ、とは言えなかった。自分の名前を告げると、杏珠は、しどう、と繰り返した。


(迎えに来たんだ)


(・・・・・・)


 杏珠はじっと志憧を見つめた。言葉の意味がわからなかったのか、と志憧が言葉を探していると、杏珠が言った。


(あんじゅとあそんでくれる?)


 志憧はとっさに、何度もうなづいた。


(なにしてあそぶ?)


(・・・おりがみ、とか)


 三歳の女の子を引き取ることになり、いろいろ調べた。折り紙のレパートリーを増やして、塗り絵帳やクレヨンも準備した。おりがみ、という単語に杏珠の表情がぱあっと明るくなった。


(おりがみできるの?)


(すこし・・・だけど)


(かえる、つくれる?)


 ちょうど作れるようになったばかりだ。尻を押さえて離すと、ぴょん、と飛ぶ蛙は、遊べる折り紙。


(つくれるよ)


(ハートは?)


(つくれる)


 杏珠はさらに嬉しそうに笑った。志憧はおそるおそる手を差しだし、こう言った。


(これから、ずっと一緒だよ)


(ほんとに?)


(約束する)


(じゃあ、行く)


 いまよりずっと小さな小さな手は、志憧の指先を力強く握った。あの一言は志憧も覚えている。だけど今こんな風に言われるとは思っていなかった。


「志憧、どこにもいかないで」


 立ち止まった杏珠は涙を浮かべた瞳で志憧を見上げていた。ひまわりが風で揺れて、ざあ、と音を立てた。


「杏珠、どうした?俺はどこにもいかないぞ」


「ひとりはいや」


「ひとりになんかしないよ」


「ほんとに?」


「本当だよ。杏珠が一番大事なんだから」


「・・・おにいちゃんよりも?」


 はっとした。

 何を知っている? 

 いつ、どこで見られた?       

 志憧の背中をひとすじの冷たい汗が伝わり落ちた。


「杏珠は志憧がすき。どこにもいかないで」


「杏珠・・・・・」


 志憧が杏珠を抱き上げると、杏珠は涙で濡れた頬を志憧の顔に押し当てた。


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