第4話 滴る
(え?今なんて?)
彼は驚いた様子で、ははっと笑った。本気にされていない。
(
(俺は本気で)
(・・・・・・いいから日陰で少し休め)
(はぐらかさないでよ!兄さんはよくて、どうして俺はだめなの?)
(瑛太郎・・・)
(俺は兄さんよりずっと・・・ずっと前から・・・)
あれも盛夏だった。親の仕事の関係で従兄弟の家に滞在した半年間。高校三年の兄と、二年の瑛太郎。
瑛太郎は、二十歳になる従兄弟に恋をしていた。それまで恋愛にはひどく疎かったからか、その端正な顔つきの年上の従兄弟に抱いた感情を、憧れているだけだと自分自身に言い聞かせていた。
彼が、兄と抱き合っているところを見るまでは。
夏のにわか雨に降られた従兄弟と兄。ふたりでびしょびしょになって戻ると、そのまま彼らは転がるように風呂場へ直行した。叔母にタオルを持って行って欲しいと頼まれた瑛太郎は、脱衣所から聞こえてきた声に足を止めた。
昔ながらの古い家。薄い水色のすりガラスのはめ込まれた引き戸は、少しでも動かせば音がする。しかしそのとき、幸か不幸かガラス戸は数センチだけ開いたままだった。
脱衣所では、下着姿の従兄弟と兄が抱き合い、唇を合わせていた。
その光景を見たときの感情を言葉で表すのは、当時の瑛太郎には難しかった。目を離すことが出来ず、立ち去ることも出来ず、ただ彼らの唾液の音だけが耳に響く。
ぼたりと滴り落ちたのは、瑛太郎の汗だったか、それとも従兄弟の髪から落ちた水滴だったか。そんな小さな音にびくついて、瑛太郎は二人分のタオルを廊下に捨てて、その場を後にした。
その後すぐに、従兄弟はその家を出て一人暮らしを始めた。瑛太郎と兄は半年ののち従兄弟の家を出た。高校を卒業した兄は一足先に実家を出た。
瑛太郎はそれから従兄弟とは会わないようにして、十数年が経った。兄がいまだ従兄弟と関係をもっているのか、瑛太郎は知る由もなかった。
それまで瑛太郎は、誰かに焦がれる、という経験がなかった。だからこそ従兄弟のことが忘れたくても忘れられず、出来るだけ遠くの職場を選んだ。
何年もかかってやっと記憶が薄れたころには、誰かにそんな気持ちを持つこともなくなっていた。
祭りから帰った夜、汗で汚れたワイシャツのすえた臭いが、瑛太郎の記憶を呼び覚ました。洗濯かごに放り投げ、靴下も下着も乱暴に脱ぎ捨てて、頭からシャワーを浴びる。
初めて会ったときから目が離せなかったのは、杏珠の父親が、従兄弟に似ていたからだと、今更気づいた。厳密に言うなら、造りが似ているのではなく面影が似ているのだ。端正な顔立ちと柔らかな物腰。瑛太郎が高校生の時に、四歳年上だった従兄弟と年齢こそ違えど、雰囲気が似ているのだ。低くまろやかな声も、杏珠を優しく抱き上げる細長い指も、どこか懐かしい。
それにしても、あんなところに家があったとは、本当に意外だった。いつも通る道ではなくても、あの先にあったのは空き地だったと記憶していたのに。家の外観からしても最近建ったわけでもなさそうだった。
またあの親子に会うことがあるだろうか?そう考えて、それはないだろうと瑛太郎は思い返した。あの路地に気が付いたのは、祭りで浮かれる学生たちを避けたから。これからさき、あの家の前を通ることはないだろう。
シャワーを浴びたというのに、背中を汗が伝わり落ちた。
夜でもまだ暑い、夏の盛り。
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