第3話 凪を見る時化

 涼の意識が戻ったのは、爽やかな風を浴びたときだった。寒いというよりかはいい感じに涼しく、決して強くもない。とどのつまりは、心地よい風だった。

 重い瞼を開けると、そこに見えてきたのはジプトーンだ。久しぶりに見たため、白に交じる黒く細長いものが一瞬何かしらの虫に見えたがパニックになる気力もない。

 涼は体を起こすと、自分が今置かれている状況を確認する。涼が今いるのはベッドの上であり、周囲はカーテンで囲まれている。ベッドといっても家庭用のものではなく真っ白で無機質さの感じられるものだ。おそらく、病院である。カーテンの隙間は僅かながら開いており、先程の感じた風はそこから漏れてきたのだろうと推測した。

 体にチューブが繋がっていないことを確認すると、ベッドを下りカーテンを開ける。カーテンを開き最初に目に映ったのは、満開を迎えている桜だ。真っ白な花びらに囲まれたマゼンタ色の中央部。異世界に転移する前に散々と言っていいほど見た桜だ。窓を全開にしようとしたものの、取り付けられていた窓は半開までしかできないものだった。とはいえ、長い間見ていなかった祖国の国木というのは郷愁を感じるには充分だ。

 そして、桜の奥には海が見えその奥には小島が見え船が進んでいる。穏やかな景色に、涼は右肘で窓枠に頬杖をつき眺めた。


「桜……か。日本かな」


 桜が多いため、日本かもしれない。だが、海外にも植樹されたりしているため決して日本だと断定もできない。

 とはいえ、どちらにしろそのまま見ていたいというのが涼の本心だ。そして涼は、感慨に浸り始める。

 だが、そんな至高の一時は一瞬で潰えてしまった。病室が開いたのだ。


「あ、目覚めたんですね。あ、でも日本語通じてるかな。は、はろー」


 ドアの開く音に反応し、涼は振り返る。

 涼に話しかけてきたのはタブレットらしきものを持った若い看護師だった。おそらく、タブレットは電子カルテかなにかだろう。

 患者が目覚めたと知り、声をかけてくれたのだが日本語が通じているのか不安になり声は小さくなる。そして、涼の外見から外国人と判断したのか、拙い英語で話しかけてきた。


「こ、こんな外見ですが、日本人なので」


 英語で話しかけられ続けても困るとばかりに、涼は照れ臭そうに語った。まさかどこにでもいそうなモブ日本人の自分が、こんな説明をするなどと思ってもみなかったのだ。


「そ、そうでしたか。すみません。ここがどこだかわかりますか?」


「病院だということはわかりますが、地名までは」


 そうですかと呟きながら看護師はタブレットに何かを打ち込む。


「ここは、広島県御調みつぎ市の総合病院です」


「御調……?」


 御調市。涼からすれば、初めて聞いた地名だった。そもそも広島県ですら、涼にとっては縁もゆかりもない場所なのだから。とはいえ、無事に日本に転移できたのは確定でそのことは幸運という他ない。日本語が通じない場所に転移していたら、さぞ大変な道のりになっただろうと。


「港で倒れてる子どもがいると通報があったんですよ」


「そ、そうですか」


 少し座標がずれていれば危うく海に出る所だったと身が縮む思いだ。


「お体の具合はどうですか? 何か痛かったり、苦しかったりしませんか」


「いえ、特に……ありません」


 性転換のことを言うべきか一瞬戸惑ったが、さすがにそこまで信じてはくれないだろうと思い言わないことにする。


「ご自身の名前と年齢、住所は言えますか?」


「あっ」


 言えないことはない。記憶は何の問題もない。だが、言ったところで間違いなく両親がやってくる。でも、両親と会ったところで自分が子どもだと信じてくれるだろうか。そんな不安がよぎる。

 『おまえ誰だよ』と言われることは想像に難くない。

 一瞬過呼吸気味になってしまったが、なんとか心を落ち着かせた。

 今現在、涼にできることは、取り敢えず記憶喪失を装い数日間の考える時間を手に入れるということだけだった。


「えっ……と。下の名前は涼。年齢は……思い出せません。住所は、静岡県だとしか」


「静岡県? 涼ちゃんはどうやってここまで来たのか覚えてますか?」


 『涼ちゃん』という言葉を聞いた瞬間、一瞬何のことか体が理解してくれなかった。そして、文面を反芻するとつられるように涼は全身が震え上がり顔が赤くなる。乳幼児ならいざ知らず、高校生にもなってちゃん付けになるとは思ってすらなかった。だが、女児にしか見えないことを考えると看護師は別に間違ってはいないのだ。こんなことに一々反応していたら看護師も、何かあると感づいてしまうかもしれない。そう考えると、受容するしかなかった。


「い、いえ。その辺りは……」


「わかりました。記憶はすぐ戻ることが多いので、取り敢えず様子見ですね。ですが、中には何年経っても戻らないものもあります。一応心に留めてくださいね」


 その看護師は、今までにそういう患者を相手にしたことがあるのか。或いは教科書で知り得ただけなのかはわからない。だが本当は全部戻っているというのに、力説されると申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 そう言い残すと看護師は病室を出ていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る