第10話 偉人は意外と身近なものですよね?

 昔、あるところに1人の船乗りが居た。


 傭船業を家業とする、小さいながらもそこそこ裕福な家に生まれ、ゆくゆくは会社を継ぎ平凡な小資産家として一生を終えるだろうと思われていたその若者。


 だが、時代の荒波は彼に安寧なる日々を許してはくれなかった。

 大戦が始まり、船ごと軍に徴用された彼は、遥か彼方の戦場へと駆り出される事になる。


 だが――

 自らの父が船長を勤める排水量1000トンほどの小型貨物船。

 それは1発の魚雷で呆気なく海の藻屑と化して。


 乗組員も大半はそのまま海底深くへと引きずり込まれ、運良く海原に放り出された父親……兄貴分、弟分の船員たちも1人また1人と力尽き、波の狭間に消えていく。


 だが、彼は諦めない。


 それは奇跡か必然か。


 三日三晩、広大な大海原を漂い、やがては人も住まわぬ小さな孤島に流れ着いた若者。

 助けを求める手段……いや、喉の乾きを癒す1滴の真水すら無い状況。

 それでも彼は生き抜いた。

 彼は3年近く、終戦間近に連合軍に発見されるまでその孤島で生活したのだ。


 ……たった1人、何者にも頼らず。


 だが、彼の受難の日々は未だ終わらない。


 戦後、復員して故郷に帰り着くもそこに待っていたのは草木も残らぬ焼け野原。

 家族は皆、空襲で焼け死に。

 父親の残した会社も船も、全ては戦火に呑まれた。

 彼は全てを失ったのだ。


 ……それでも、彼は絶望の縁から立ち上がった。


 身一つで戦後のヤミ市から商売を起こし、僅か数年で企業として軌道に乗せると、かつての家業である海運業に進出。

 戦後復興の波に乗り、造船、鉄鋼、重工、金融など、ありとあらゆる業種に手を広げて巨万の富を築き上げる。


 その若者――その時にはもうそんな歳でもなかったが――、その不死身の如き生命力と不屈の闘志、そして類稀な商才により、いつしか人は彼をこう呼んだ。


 『最強鉄人』小笠原鉄舟と。


――――


 ポツリポツリと京花さんが語り、雪花ちゃんがその都度補足をいれた話を聴き終わって、俺は徐に口を開いた。


「……で、それはどこの百○尚樹?」


「小説の話ではありませんよ、お義兄さま」


 雪花ちゃんが少し呆れたような表情を浮かべながらそう呟く。


 まぁ、そうだよね。

 そうだと思うんです。


 でもさぁ……。

 俺は大きくため息をつく。


「おかしいだろ!? そんな立志伝中の人の息子がアレだなんて、何か間違っているだろ! 一体どんな育て方をしたら、ああいう性格になるんだよ!!」


「そう言われましても……」


 俺の言葉に、雪花ちゃんは困ったような表情を浮かべる。


「まぁ、器の大きさは受け継いだんじゃない?」


 母さんは、苦笑いを浮かべながら言う。


「いや、あれは器が大きいとかじゃなくて、割れた鍋みたいなものじゃないのか? 底の方が抜けているんだと思うぞ」


 俺は思わず愚痴ってしまう。

 だってさぁ……。


「……アレだぞ?」


「アレね」


「アレですね」


 俺、母さん、雪花ちゃんがそう頷きあう。

 だがそんな中、京花さんはぽつりと呟く。


「……でも、あの方は昔から朗らかで優しい方でした」


 その顔は酷く懐かしげで、それでいて悲しげで、俺は勿論、母さんも何も言えなくなってしまう。


 母さんだってその気はなくとも京花さんから婚約者を奪う形になってしまい、俺だってその息子で、しかもそれが新たな婚約者だというのだ。


 彼女の心境を思うと、軽々しく口に出来る言葉はない。


 だが、敢えてそこに踏み込む者が1人。

 雪花ちゃんだ。


「お姉さま。未練ですか?

  らしくもない」


「……雪花」


 京花さんの表情が僅かに曇る。

 が、雪花ちゃんは構わず続ける。


「所詮は親の決めた許嫁。相手など誰でも良いでしょうに。

 それでももし、……もしも本当に好きならば、お義母様から奪うくらいの気勢を見せたら良いものを……。

 それもせず、未練を持ったままお義兄さまに粉を掛けるなんて……見苦しい」


 雪花ちゃんの辛辣な物言いに、俺は思わず目を丸くする。


 俺の前では腹黒さを滲ませつつも、いつも穏やかで優しかった雪花ちゃん。そんな彼女がここまでキツイ言い方をするとは思わなかった。


「……貴女には分からないわよ」


 張り詰めた空気が辺りを支配する中、口を開いたのは京花さんだった。

 彼女の声音からは、普段の優しさが微塵も感じられない。

 そこには、怒りの感情が満ち満ちていて。


「私の気持ちなんて分かる筈がない!」


「分からなくて結構」


 激昂する京花さんに雪花ちゃんはピシャリと言い放つ。

 その迫力に、思わず俺はゴクリと唾を飲み込んだ。


「…………」


 雪花ちゃんの気迫に京花さんは唇を噛み締めるのみ。

 悔しさと悲しみが入り交じったその表情は、今まで俺が見た事のないもので。


 そんな彼女を見つめる雪花ちゃんの顔も、どこか寂しそうな色を帯びていて。

 だが彼女は、京花さんからふいに視線を逸らすと、


「……そんなに嫌なら私がお義兄さまと婚約しますよ?

 どうせ、お姉さまのような可愛げの無い女より、私の方が愛らしいですから。

 ね、お義兄さま?」

と言って、俺に微笑みかけてくる。


 だが、その瞳の奥に宿る冷たい光に、俺はゾクッとする。

 この世の全てを恨むような、そんな色。

 いつもの穏やかな彼女とはまるで別人のようだ。


 俺は思わず気圧されてしまう。

 そんな俺に、雪花ちゃんはついと身体を寄せてくると、耳元で小さく囁く。


「ごめんなさいお義兄さま。

 ちょっとだけ怖かったですよね? 大丈夫、すぐに元の可愛い雪花に戻りますから

 ――ほら元通り」


 そう言ってクスリと笑う雪花ちゃん。


 ……その笑顔は確かにいつもの雪花ちゃんのもので、先程の威圧感は嘘のように消え去っていた。

 そんな彼女に、俺は何を言って良いか分からず、ただ黙り込んでしまう。


 が、そこで意外な事に助け船を出したのは母さんだった。


「雪花ちゃん。あまりウチの息子で遊ばないでくれるかしら? 困っているでしょ?」


「……あら、これは失礼しました」


 母さんの言葉に、雪花ちゃんはペコリと頭を下げると辺りを見回して微笑む。


「……随分と場が荒れてしまいましたね。

 お義母様、食後のお茶は如何でしょう。私が淹れますので。

 お姉さまも一緒に手伝って頂けますか」


「……ええ」


 そう言って雪花ちゃんと京花さんはキッチンへと姿を消してしまう。


「……」


「…………」


その場に残された俺と母さんは、互いに顔を見合わせる。


「……悪いことしちゃったかな?」


「気にする事ないんじゃない?」


 母さんはそう言うが、それでも何だかモヤモヤしたものが残る。

 俺がそんな事を考えていると、不意に母さんが口を開いた。


「ねぇ、ハジメ。あなたはあの2人……どう思っているの? 雪花ちゃんの事はともかくとして、京花さんの事」


 酷く真面目な顔の母さん。

 俺は大きくため息をつく。


「そんなもん分からないよ。

 ……事情を知っちゃえば尚更」


「そうよね」


母さんは、そう言うと腕を組む。


「なら、大元に聞いてみば良いんじゃない?」


「聞くって誰に?」


「決まってるじゃない」


 母さんはニヤリと笑った。

 それは悪戯を思い付いた子供のような、実に楽しげな表情。


 俺の背筋にゾワリと悪寒が走る。

 途轍もなくイヤな予感。


 ……そうだ。

 母さんが何年父さんと連れ添っていると思っている。

 アレに付き合えるくらいには母さんの肝っ玉は太いのだ。


 俺は思わず身構える。

 ゆっくりと口を開く母さん。


「――会ってみる? 鉄舟さんに」

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