第47話 見るな
『————環くんが君を見つけるまで、君には無事でいてもらわないとね』
『君のような特別な力を持って生まれた子供はね、人の心の闇に触れれば触れるほど、その力が増すんだよ』
『人間の心の闇は、あいつらにとっての調味料なんだよ』
『強い方が、うまいから』
緑の石に守られたとはいえ、化け物に再び食われそうになった七森は、意識が混濁していた。
この言葉は誰から聞いたのか、誰が言っていたのか……次々と目の前のものが聞こえている声が変わっていく————
今見えているものが、記憶の断片なのか、本当に目の前にあるものなのかわからない。
急に真っ暗になったり、いくつもの無数の瞳があったり……
母だと名乗ったあの老婆が、目から、耳から、鼻から、口から血を流して倒れていたり……
わからない。
頬に触れているこの感触は……現実だろうか……
綺麗な緑色の瞳が、こちらを愛おしげに見つめているのは、現実だろうか……
わからない。
助けられたのだろうか。
ちゃんと生きているのだろうかも、わからない。
「————神様……」
最期に見たものが、この綺麗な瞳でよかったと思えてきた。
「————おーい、七森くん。しっかり。あの蛇ならもう何もしないよ」
「ふぇっ?」
七森は、環の膝の上で目を覚ました。
*
「え、えーと、じゃぁ、もう儀式は終わったんですか?」
「うん、七森くんが寝てる間にね」
「そんな……見たかったのに……!!」
環は後部座席でずぶ濡れのままガタガタ震えている七森の質問に、笑いながら答えた。
本来なら、七森とその儀式を見届ける予定だったのだが、老婆に邪魔されてそんな余裕はなくなってしまったのだ。
「そりゃぁ、君を二度も湖に沈めようとする、最低な母親の死ぬ瞬間を目の前で見せてあげたかったけどね……時間的にそろそろ限界だったし」
「え……? あれって、やっぱり俺の母親だったんですか?」
「ああ、ずいぶん老けていたから、わからなかっただろうね」
水神会の信者は、特にあの湖の水を大切にする。
水を通して、彼らの祈りを通して、正気を奪われすぎててしまうと老けこむのが早いらしい。
そういえば、あの村に転がっていた村人たちは老人ばかりだったなと思った。
「自分の欲のために必死になればなるほど、人は愚かにも神と崇めるものを信じすぎてしまう。全く信じるなとは言わないけど、人としておかしな方向へ行っていることには気づかないんだよ。そうなってしまうとね」
湖が見える山道を登り、車は村から遠ざかる。
七森は窓の外を眺め、湖全体を俯瞰で見つめた。
「もうあの村にいた信者たちは死んだから、しばらくあの蛇は何もできないよ。この湖はやがて消えるかもね……あれは信者たちが作り出した欲からできた、呪いの塊だから…………信じるものがいなくなれば、その力は弱くなる」
「そう……なんですね」
あの村に、水神会の信者の数がどれほどいたのかわからないが、地方に散っている信者たちだけでは、どうにもならないだろうと環は言った。
村の住人のほぼ全員が、信者だったのだ。
もう、あの村だって廃村になるだろう。
みんな死んだ。
呪われて死んだ。
その異常事態に、誰かが気づく頃にはもう、七森たちは事務所に戻っているだろう。
「————ところで、七森くん、そのままじゃ流石に風邪を引いてしまうね。街に出たら、銭湯にでも入ろうか。着替えも買っておいてあげるよ」
季節はもう秋だ。
さすがに七森をずぶ濡れのまま長時間車に乗せているのは、危ない。
「え、いいんですか!? ありがとうございます!! さすが、神様!!」
「え? なにそれ、いつから僕が神になったの?」
「神様ですよ!! 所長は、神様です!! 俺を何度も助けてくれたし————……もう一生ついていきます!!」
七森にとって、環は神だ。
化け物から何度も助けられ、地獄に落ちるべきクズたちに次々と制裁を加えてくれる。
見たことのない、愉しいものをたくさん見せてくれる。
神に違いない。
「……本当に……?」
環は車を停めて、振り向いた。
「それじゃぁ、その体、僕にくれない?」
「え……?」
綺麗な緑色の瞳で、じっと七森の目を見つめる。
吸い込まれるような、引き込まれるような、綺麗な瞳。
「今じゃなくていい。もう少し先。君がもう少しだけ大人になったら————いいかな?」
目が離せない。
頭がぼーっとして、何も考えられなくなる。
七森の瞳の色が、環と同じ、綺麗な緑色に変化した————
「はい、もちろんです」
その瞬間、それまで七森を守っていたネックレスのあの緑の小さな石が、パンと弾けて粉々に散り、ただの砂になった。
「やっぱり、女の体より、男の体の方が楽なんだよね。色々と————」
これは神ではない。
その体を、特別な力を持つ人間を、狙っている化け物だ。
闇に触れさせ、より美味しくなるのを待っている。
『もしも、そういうものと出会ってしまったら、決して目を見てはいけないよ。目を合わせてはいけない。それがどんなに魅力的な瞳でもね』
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