第四章 化け物がいる家

第25話 何者


 幼い少年が一人、湖の底へ沈んでいく。

 岸の上で白装束の大人たちは、手を合わせて拝むだけで誰も助けてはくれなかった。


「神様……神様……どうかお助けください」

「神様……神様……我らをお救いください」

「神様……神様……」

「神様……神様……」


 大人たちが祈っているのは、この少年の命ではない。

 少年は何度も懸命に手足をばたつかせ、水面に顔を出そうとした。

 しかし、湖の底にいる何かが、少年の足首を掴んで離さない。

 太陽の日差しも届かない、暗く冷たい湖の底へ沈んでいく。

 少年は沈んでいく。


 鼻から、口から、耳、身体中の穴という穴全てから体内に妙に生暖かい何かが……水とは違う意思を持った得体のしれない何かが入る。

 少年の体を侵していく。


 消えゆく意識の中で、少年が最後に見たものは湖の底からこちらを見つめる赤く光る双眸————



「————うわあああああっ!!」


 七森は自分の叫び声で飛び起きた。

 クーラーの効いた室内で眠っていたというのに、背中にぐっしょりと嫌な汗をかいている。

 状況が理解できない。

 見慣れない部屋の壁と寝具に、自分が今どこにいるのか、理解するまでやや時間がかかった。


「……はぁ、あ、そうか……」


 伯父の家だ。

 少し遅い夏休みとして、二年ぶりに帰省した。

 帰省といっても、去年引っ越してきたばかりの家だから、この家に馴染みは全くないのだが……


「優人、どうしたの?」


 叫び声を聞いて、心配した伯母がドア越しに七森に声をかける。


「なんでも……ない。大丈夫、変な夢を見ただけだから……」

「そう? それならいいけど……そろそろさとしたちが帰ってくるから、下にきてくれる? 一緒にお夕飯食べましょう」

「うん……わかった」


 馴染みはないが、ここは七森の部屋なのだ。

 七森を引き取って育ててくれた伯父夫婦は、とても優しい人たちで、高校を卒業してすぐに家を出た七森が、いつ帰ってきてもいいようにと新しいこの家にも七森の部屋を用意しておいてくれていた。

 まさか自分の部屋があるとは思っていなかった七森は、この二年盆も正月も顔を見せなかったことが申し訳なく、少し胸が痛い。

 実の両親ではないが、育ての親だ。

 もっと遠慮せずに、わがままを言ったり、甘えてもいいのだろうけが、従兄の聡のことを思うと、そうもいかなかった。


「……まったく、所長のせいだ。あんな夢————」


 立ち上がりながら、七森はあんなおかしな夢を見た理由に思い当たる。



 *



「————所長って、人間ですよね?」


 昨日、休暇に入る前に所長室で七森は環に質問をした。

 それはずっと疑問に思っていた……というよりも、聞いていいものなのだろうかと、聞けずにいたことだ。


「……うーん、まさかそう来るとは思ってなかったな。その質問には、今は答えたくないかな」


 てっきり、呪いに関しての質問かと思っていた環は、予想外の質問にどう答えるべきか迷っていた。

 七森がこの明石家あやかし派遣事務所に入社して、そろそろ半年になるが今更こんな質問をされるとは……


「むしろ、君は、いったい何者なの? それを教えてくれたら、話してあげてもいいよ?」

「……俺が、何者? そんなの、俺はただの人間で————」

「まさか、ただの人間なはずないだろう? 君は見えすぎるくらい見えているのに……」

「え?」

「それに、僕の見立てでは、君は面白い力を持っていると思うんだよね……だからこそ、僕は君をスカウトしたんだよ七森くん」


 確かに、七森はなぜかあやかしが見えている。

 それも、はっきりと、人間と間違えるほどに。

 だからこそ、目の前にいるこの環も、実は人間ではなくあやかしなのではないかと思ってしまった。

 職業柄といえば職業柄なのかもしれないが、あやかしや呪いについての知識があり、そもそもその人ならざるあやかし達を束ねているのだ。

 事務所に所属しているあやかしたちは、環に対して怯えているということはないが、敬意を払っているように思えたし、あの気持ちの悪い呪いの化け物を見ても、環は七森のように恐怖を感じている様子もない。

 人間ではないのではないか————そう思ってしまった。


「まずは君が何者なのか教えてくれないかな? そうしたら、僕が人間かどうか教えてあげるよ。明日からご実家に帰るんだろう?」

「は、はい」

「ちょうどいいじゃない。ご両親に聞いてみなよ。どうしてこんな力を持っているのか、君は何者なのかわかるかもしれないよ?」


 環はひらひらと手を振り、夏休みを楽しんでおいでと七森を所長室から追い出した。


「両親に聞けといわれても……なぁ」


 実家に帰ると言ったが、その実家に両親はいない。

 伯父たちに両親について尋ねると、口に出すのも、思い出すのも嫌だという顔をするから、まずはそこからなんだけど……と思いながら、七森は翌朝、始発で実家へ向かった。



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