第21話 未完成
夜の湖の中に、七森は飛び込んだ。
雅に対して、あまりいい印象はなかった。
それに、呪われるほど恨まれているなら、地獄に落ちても当然だと普段の七森ならそう考える。
だが、沈んでいく雅を見て、七森はそんなことを考える暇もなく走り出していた。
昼に見たときは綺麗な緑色をしていた湖も、夜の月明かりの下では真っ黒だ。
ちっとも綺麗じゃない、その湖の中に、沈んで行く雅の体には、湖の底から無数に手のようなものが伸びていて、掴んではなさい。
子供のような小さな手が、幾つもいくつも絡みついて、湖の底へと引き寄せる。
奇妙な淡い光をほんの少し纏うその手が見えるからこそ、七森にはこんなに暗い水の中でも捉えることができた。
必死に泳いで、七森はその無数の手から雅を救おうとする。
しかし————
その瞬間、フラッシュバックが起こる。
七森は、同じような光景を見ている。
子供の頃、もう何年も前に同じように、水の中で何かに引っ張られて————
同じように、誰かを助けようとした?
違う誰かに助けられた?
誰に?
誰を?
誰が?
誰と?
誰だ?
七森の意識はそこで途切れてしまった。
もう少しで、雅に手が届きそうだったのに、伸びていた無数の手が、七森の方へ伸びて来たところで————
「————見るな」
水の中だというのに、はっきりとその声が耳元で響いた。
*
「なんだ……あれは!?」
水面から飛び出していた白い手のようなものが、八嶋の叫び声を聞いて駆けつけた刑事たちにも見えていた。
彼らは事情聴取を終えた後、念のため密かに八嶋の行動を見張っていたのだ。
「一体あれは……?」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう! 助けないと!!」
謎の現象に立ち尽くしている刑事たちに向かって、八嶋は叫ぶ。
「あなたたち、刑事でしょう!? 助けてよ!! 妖怪に連れていかれるわ!! このままじゃ————」
白い手に、水面から顔を出している妖怪に雅が引っ張られ、助けに入った七森も沈んだまま顔を出さない。
助けなければならないとわかってはいても、それが一体なんなのかわからない恐怖で刑事たちは動けなかった。
「雅!!」
「————り、莉乃!?」
八嶋は突然娘の声がして驚いた。
友達の家に泊まりに行くといって家を出て、そこにいるはずがなかった莉乃は、見知らぬ黒いスーツの男性か女性かよくわからない環と現れたのだから無理もない。
「まったく……使えないね。男ってのは、本当に度胸がない。その図体は飾り物かよ」
環は、刑事たちにそう吐き捨て湖に飛び込む。
一般市民にそんな暴言を吐かれて、悔しい刑事たちは意を決して環の後に続いて湖に入る。
七森と雅を引きずり込もうとする無数の手。
環がその緑色の瞳で、水面からこちらを見下ろしている大きな目を睨みつけると、その手は一瞬怯んだ。
その隙に三人がかりで水中から、意識を失っている二人を救い出だした。
水面から顔を出した後、環は刑事二人に叫ぶ。
「振り返るな! あれの目を見るな! ここから離れろ!」
「わ、わかった」
声を聞いて、他の大人たちが集まってくる。
七森と雅を陸に引き上げると、すぐに応急処置を施した。
七森は息を吹き返したが、雅の意識は戻らない。
大人たちは雅をコテージに運んだ。
「所長さん、どうしよう……雅が!! 私のせいで…………!!」
湖から上がった環に、莉乃は駆け寄る。
もう遅かったと。
莉乃が呪いのせいで死んでしまったと。
自分のせいで、自分がかけた呪いのせいで連れて行かれてしまったのだと。
「……違う。大丈夫。君のせいじゃないよ、莉乃ちゃん」
環は泣きじゃくる莉乃の頭を撫でた。
「君の呪いは未完成だったんだ。だから、大丈夫」
雅を引き込んだものは、莉乃の呪いなんかじゃない。
「あれは、呪いじゃない。あの湖に住む化け物の仕業だよ。だから、君のせいじゃない。大丈夫。あんなやり方を間違えた未完成な呪いじゃ、君も連れては行かれないから」
環には、雅のSNSの画像から呪いが未完成であることが最初からわかっていた。
それでも、ここへ来たのは————
「所長……どうして…………ここに」
「どうもこうもないよ」
環は横になったままこちらを見る七森の上体を抱き起こしながら、耳元で囁いた。
「たいして泳げないのに、余計なことを……」
「え……?」
助けようと飛び込んだことの、何が余計なことだったのだろうかわからない。
理由を聞こうとしたが、不意に腕が環の胸があたり、柔らかさを感じる。
そこで改めて、やっぱり環は女性であることを認識し一瞬体が硬直した。
七森の反応をわかっているのかいないのか、さらに環は「助かってよかった!」ととてもわざとらしく大げさにハグをすると、七森の肩に顎を乗せたまま、湖の中からまた顔を出している妖怪を睨みつける。
「しょ……所長?」
戸惑う七森を無視して、しばらくその体勢のまま何かをブツブツと呟いていた。
七森には、何を言っているのかほとんど聞き取れなかったけれど……
「いいかい、七森くん。もう君は、二度とこの湖に近づいちゃいけないよ。あれは僕らが仕事しているプロのあやかしとは、違うものだからね」
今度は急に立ち上がり、七森の目をじっと見つめて、そうはっきりと言った。
「返事は……?」
「……は、はい」
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