第4話 離婚
広い一軒家全体が、すえた臭いを発している。
トイレから出た、やつれた直子。待ってましたと言わんばかりに、色黒の垂れ下がった頬に、満面の笑みを浮かべた義父が現れる。
「直子ちゃーん」
目を逸らした。早く部屋へ戻ろう。
が、義父からすれば、逃す気はないようだ。直子の周りをぐるぐる歩き、下から覗き込んだり、上から見下ろしたり。
「直子ちゃん、今日もかわいいね。おはなちちようよ。きみが言っちゃのよ」
幼児言葉。話者は六十代男性。剥き出しの歯は真っ黄色。
嫌悪を通り越して、激しい恐怖に襲われる。足が動かない。
ちょうどその時、義母が来た。トイレがお目当てのようだが。
「あなた……?」
二階から、オギャア!と赤ちゃんの泣き声が響いた。
これ幸いにと、階段を駆け上る。
「お義父さんすみません。美苗が泣いてるんで」
悔しそうな義父の視線と、訝しそうな義母の視線を受けながら。
最近の美苗は夜泣きがひどい。引っ越して環境が変わったからだろうか? それとも、大人のいやらしい、汚い雰囲気を察しているからだろうか?
抱っこであやしても、一向に泣き止まない。
「お腹すいたの? さっき飲んだのに」
服をめくろうとすると、いきなりドアが開いた。
「直子ちゃん!」
「ぎゃっ!」
急いで胸を隠す。鼻息の荒い義父に、ギラギラと凝視される。
夫に助けを求めようとするが、ぐっすり寝ていた。
怒りより、失望感が大きい。
「なんの用ですか……?」
声を絞り出すと、義父はズンズンこちらへ歩む。身構えたが、義父は直子の脇をすぎると、窓をノックするように、コンコンと叩いた。
は?と、変な声が出そうになった。
義父は至ってまじめに、
「戸締まりしなきゃね。不審者が入ってこないように」
窓を叩くのが戸締り?
不審者は自分でしょ?
いくつもの疑問が湧くが、言ってもどうせ聞きやしない。
「入ってこないでくれますか? 美苗が眠れません」
「遠慮しなくていいんだよ。美苗ちゃんのお世話もさせて」
「大丈夫です」
「ご飯も食べないとおっぱいもでないよ。直子ちゃんのおっぱいはゴクゴク飲まれるんだから。おっぱいゴクゴク」
この男は、人を不快にさせる訓練を、学校で受けでもしたのだろうか?
部屋から出る時も、一旦ドアを閉めきる寸前で止め、チラッと直子を覗く。
睨みつけてやると、敵はニッコリ笑って手を振り、やっとドアを閉めた。
もし寝ている間に、義父が部屋に入ったら?
不安で頭が冴え、一睡もできなかった。
義姉はリビングのソファに寝そべり、テレビを見ていた。すると、年老いた父が、階段から降りてくる。
「直子ちゃんいっつもおっぱい見せてくれないんだよな。おっぱいおっぱいかわいい直子ちゃんのかわいいおっぱい」
ブツブツぼやきながら、父はリビング横の寝室へ入っていく。
開いた口が塞がらなかった。なんてことを言っている。
テレビでは、こんな番組をやっていた。
『特集! 恐怖の家庭内ストーカー。義理の親からストーカーされた女性、AさんのVTRをご覧ください』
『家族がストーカーするなんてひどい』
風呂に湯を張る。直子は湯水を桶に入れ、美苗を浸した。
小さな体を洗ってやると、美苗は気持ちよさそうに目を細める。
直子もシャワーを浴び、すばやく髪をシャンプー。お風呂は必要最低で済ませた。
宿敵が来る前に。でなければ。
風呂と脱衣所を隔てる、磨りガラスのドアに、ヌッと人影が現れ、ドアノブが下がった。
「美苗ちゃんのお風呂手伝わせてよ」
遅かったか。
背中でドアを押し、開かないようにする。
「いいです。入ってこないで」
押し開けようとする力は、強くなる。
「遠慮しないでよ。おはなちちようよ」
幼児言葉に、体の芯からゾッとした。
怖いのか、桶の中の美苗がくずっている。
すると、押し開けようとするドアの力が、フッと弱まった。
「ん?」
なにかに気づいたような声を最後に、義父は静かになる。
諦めた?
ドアから背中を離した。
瞬間、直子の尻が押し付けられていた部分に、ガラス越しに、舌が張りつく。
「ひっ」
舌はガラスをベロベロ舐めている。入念に、しつこく。
身を縮こませた。
美苗もギャーッと泣き出す。
「あ。俺もお風呂入っていいんだね」
ドアが開けられそうになる。
風呂場の外から足音がした。
「お父さん、なにしてるの?」
義母の声。
義父は煩わしそうに、
「美苗ちゃんのお風呂手伝おうとしただけだよ」
「直子さんが入ってるじゃない」
「いいじゃない。家族なんだから」
「美苗ちゃんが泣いてるでしょ。お腹空いてるのよ。すぐ飲ませられるようにお父さんはミルク作って。ほら」
ちぇ、と発してから、風呂場から足音が出ていった。
ドアの隙間から、脱衣所をのぞく。
タオルの下に、目立たないよう下着を置いていたのだが。なくなっている。
「お義父さんが盗んだんだ……」
仮にそう訴えても、義父はどこかに落ちていたとか、別のところに紛れていたとか、なんとでも言い訳してくるだろう。
お義母さんや健二は私を信じてくれるかな。信じてくれないだろうな。
自分を信じてくれない人と、なんで結婚しちゃったんだろう。
やりきれなさに、虚しくなる。
数日後。
消沈した母と、ソワソワした姉が、リビングの椅子に座っていた。
仕事から帰った健二は、何事かと二人に近寄る。テーブルには、離婚届と銀の結婚指輪が、置き手紙と一緒に置かれていた。
『離婚してください。ごめんなさい』
健二は目を丸くする。
母が神妙に、
「荷物は全部そのままだったから、着の身着のまま出ていったみたい」
「なんで」
姉が真剣に、
「あのね健二、落ち着いて聞いてほしいんだけど、多分お父さんのせいなの。実はお父さんが……」
「私も見たんだけど……」
二人から聞く、父の気色悪い行動の数々に、立ち尽くした。
義母は続けて、
「そういえばお父さんはどうしてるの?」
「知らない。家にいないの?」
「さっき健二を迎えに行くって出かけて行ったわよ」
まるで聞いていない。
父はどこへ行った?
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