第3話 首吊り事件

 しかたなく、美苗を抱え、健二と一緒にリビングへ出た。

 義父と顔を合わせないようにと、夫の後ろに隠れ、うつむくのだが。

 姿が見えなくても、舐め回すような、義父のギラついた視線を感じる。

 

「こっちに来て。美苗ちゃんもっと見せてよ。今日も可愛いね。ほら」

 

 手招きしてくる。

 足がすくんだ。すぐにでも逃げ出したい。

 横から健二が、美苗を取り上げ、義父に見せた。

 

「可愛いだろ」

「ああ、うん」

 

 義父はあからさまに残念そうだった。

 健二は不愉快さを滲ませ、


「なんだよ、可愛いって今言ったのに」

 

 大人たちの変な空気を感じたのか、美苗は健二の腕の中で、居心地悪そうにぐずる。

 義父がここぞとばかりに、

 

「おっぱい? おっぱい!」

 

 健二に美苗を押し付けられた。

  

「直子、美苗におっぱいやって」

  

 ストレスで、左の脇腹がズキズキ痛む。

 義父はギラギラした目で、ずいっと迫った。

 

「美苗ちゃんのおっぱい見たいな」

「だってよ、見せてやったら?」

 

 めまいがした。今倒れていないのが不思議だ。

 義父はニヤニヤと、

 

「ほら、早く飲ませてあげないと。あ、でも抱っこしてて手が空いてないか。じゃあ俺が脱がせてあげるよ」

 

 皺皺しわしわの両手が迫る。


「いやあ!」

 

 あと先考えず、トイレに駆け込んだ。鍵をかけるも、ドアがバンバンと叩かれ、

 

「おーい、おっぱい見せてよ」

 

 ドアにもたれ、美苗と一緒に泣いた。

 

  

  

 家に入れてもらい、味をしめたのか、義父はそれからも頻繁に来るようになった。

  

「直子ちゃん、開けてよ。おかず持ってきたから。お話ししよう。おみやげも買ってきたよ」 

  

 ギャン泣きする美苗を泣きやませる余裕もなく、直子は警察に電話する。


「……というわけなんです。義父をなんとかしてもらえませんか?」

 

 電話の警察の声は淡々と、

 

「とは言ってもねぇ。事件性はないし」

「そんな…」

「そのお父さん? 子育てで大変なあなたを助けたいんですよね?」

「だから……」

「そういう人は大切にしてください。親バカなだけです。私も娘がいるので。ハハ」

 

 プツッと電話は切られる。

 絶望、としか形容できない。

 

 

 買い物にはタクシーを使うことにした。出費が痛いが、背に腹は変えられない。

 独特のにおいがする車内で、過ぎていく住宅街を見ながら、今後を憂う。前に抱える美苗は、スヤスヤ寝ていた。

 

「お客さん、この辺で大丈夫ですか?」

 

 運転手の声に、我に帰った。すぐ前に自宅が見える。

 

「はい、ここで……」

 

 答えようとした時。車の窓ガラスの前を、男性が横切った。年配で、色黒で、太っていて、禿げている。

 チラッとこっちを見る顔は、

 

直子ちゃん

 

「っ……!」

 

 見知らぬ人だった。

 あの人じゃない。見間違えた。

 ぐったりしそうだ。

 運転手が横柄に、


「どうします? 降りるんですか?」

「すみません、もう少し近くへ寄ってください。あと少し」

 

 

 

 運賃を渡し、一目散に玄関へ駆け込む。

 これでもう大丈夫。

 ドアを開けようとしたら、前に置かれたダンボールにつまずいた。

 口が開いている。詰め込まれた、古い重箱、安っぽい手袋、ゴミ置き場から拾ってきたようなぬいぐるみ、おもちゃ。

 臭いタオルと一緒に、手紙が入っている。

 庭にあった軍手をはめてから、指でつまみ上げて読んでみると。

 

『直子ちゃん、人は1人では生きられないんだよ。意地っ張りな人はみんなから嫌われるよ。でも僕はいつでも直子ちゃんを助けてあげる。君は本当は優しい子。かわいい直子ちゃん。今度はたくさんお話ししようね』

 

 強すぎる嫌悪感は、頭を真っ白にさせた。

 一つの言葉だけが、ポッと浮びあがる。

 もう無理。

 

 

 

 翌日も、日課にように家のインターホンが鳴った。

 画面に映る、ニコニコ顔の義父。


『直子ちゃーん。今日もご飯持ってきたよ。一緒に食べてお話ししようよ』

 

 深呼吸してから、インターホンを取った。昨日何度も練習したセリフを、勇気を出して言う。

 

「お義父さん、もうやめてくれませんか?」

『やっとお話ししてくれたね』

 

 義父は無邪気に笑う。本気と取っていないようだ。

 

「うちに来るのはもうやめてください。おかずもいりません。迷惑です」

『遠慮しなくていいんだよ。俺には気を使わなくていいから』

「遠慮してません。本当にやめてください」

『またまた。わかった。健二だね。健二が嫉妬しちゃうよね』

 

 話が通じないというか、聞こうとしていない。

 多分、見下しているから。同じ人間だと思ってないんだろう。義父にとって、自分はおもちゃやペットと同類か、それ以下の存在なんだ。

 そう考えたら、イラっとした。

 

「……気持ち悪い」

 

 途端に、義父のブルドックのような頬がこわばる。

 

『え?』

「お義父さんは気持ち悪い。生理的に無理。だから来ないで」

 

 ああ。ここまで言うつもりはなかったけどな。でも我慢できないや。

 画面の義父の顔に、蒼白な色が浮かぶ。

 

『……わかった。もう来ない』

 

 ガチャンと受話器を置き、疲れと安堵で深いため息をついた。

 

「さすがにもう来ないよね。私がんばった」

 

 ちょっと申し訳なかったけど、自分も限界なんだ。




 包丁を持った義父が突進してくる。

 

「来ないで!」

 

 抵抗するが、床に倒された。

 義父は刃の先を突きつけ、低い声で、

 

「どうして俺の気持ちがわからない」

 

 悲鳴を上げたら、ギャーッと赤ちゃんの絶叫が、耳をつんざいた。

 


 

 ハッと目が醒める。

 横でグゥグゥ寝ている健二。ベビーベッドでギャン泣きしている美苗。

 

「んん。美苗おっぱい?」

 

 健二は寝言を言うだけで、起きはしない。

 直子は美苗を抱き上げ、乳を与えた。

 

「美苗、ありがとう」

 

 まだ心臓がバクバクと肋骨を叩いている。でも夢でよかった。心底よかった。

 その時、ブーっと着信音が。

 健二のスマホだ。

 彼は半分寝たまま腕を伸ばし、

 

「今何時だよ。……あ? 姉さん?……え?」

 

 夫は飛び起きた。普段の呑気な表情とは裏腹に、焦りの色がありありと見て取れる。

 

「どうしたの?」

「親父が、首吊ったって……」

 

 

 

 すぐに車を走らせ、病院へ向かった。

 美苗を看護師に預けてから、健二と直子は病室へ駆け込む。

 義父が仰向けで眠っていた。そばに、義母や義姉が付き添っている。

 

「親父は?」

 

 切迫した健二が尋ねると、義姉が、


「一命は取り留めたよ。すぐに助けられたから」

 

 硬かった健二の表情が緩む。直子は、逆に体がこわばった。

 義母がこっちを向き、鬼の形相で、

 

「あんたのせいよ」

 

 黙ってうつむくしかない。

 自分のせいなのは間違いはない。けど、じゃあどうすればよかったんだろう?

 健二が間に入り、

 

「待てよ。直子はなにもしてないだろ」

「遺書が残ってたの。直子さんに生理的に無理って言われて傷ついたって」

 

 健二は息を飲み、

 

「直子、本当に?」


 嘘はつけないから、頷いた。


「でもそれは……」

 

 すると、うぅっとうめき声が上がった。義父が苦しそうに、口を引き攣らせている。

 家族は直子を突き飛ばし、義父に呼びかけた。


「あなた」

「親父」

「お父さん」

 

 義父は弱々しく、

 

「手が痛いな」

 

 義母は苦く笑い、

 

「首を吊ったくせに、紐を切ろうとしてもがいてたもんね」

「ハハ。それよりまぁ、悪いのは全部俺だ」

 

 光の宿った目で、義父は直子を見つめる。

 

「子育てで大変な直子ちゃんを助けたかっただけなんだ。ごめんな」

 

 罪悪感で胸がモヤモヤとした。

 

「こちらこそ、すみません」

 

 仰向けのまま、義父はニッと笑い、直子の手を取る。

 

「え……?」

「仲直りの握手。健二たちとうちに住まない?」

「……え? え?」

 

 手を放そうとするが、しっかりと握られ、放れない。弱々しい声とは裏腹に、その力はあまりにも強い。

 夫一家はホッとしたように、


「親父は直子たちが心配なんだな。あんな遠い場所まで通ってたら、それこそ死んじゃうよ」

「健二、家の近くの会社に転職できない?」

 

 そこまで話を進めるなんて。

 

「ま、待ってください。お義姉さんはいいんですか?」

 

 最後の砦は穏やかな表情で、


「私は一人暮らしするよ」

 

 義母は感極まったように、口を覆う。

 

「あなたがそんなこと言うなんて」

「まぁ、親が死んだら私どうするんだろうって。私も自立しなきゃね」

「成長したわね。でも離れても家族の絆は変わらないわよ」

 

 夫一家は自分たちだけで顔を見合わせ、笑っている。


「いいね。家族って」

 

 義父がニタニタと直子の手を握りしめ、顔や胸や尻を舐めるように凝視しているのに、気づきもしない。

 これから、厳しい戦いが始まりそうだ。

 

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