第2話 ストーキング

 覚悟を決めた。

 抱っこ紐を肩に掛け、オギャオギャ泣く美苗を前抱っこで抱えると、片手に買い物袋を握る。

 できるだけ早足で家を出ると、路上で待ち構えていた義父が、パッと笑顔を浮かべ、トコトコ近づいてくる。太陽の光が、禿げた頭をテカっと光らせた。

 

「直子ちゃん買い物? 美苗ちゃん大丈夫? 僕手伝おうか? ねぇ? ねぇ?」

 

 健気なのはわかる。でも無理なのだ。生理的に。

 

「すみません、ひとりで行きます」

 

 車は健二が仕事で使っている。

 門の脇に停めている自転車で行くしかない。買い物袋から鍵を取り出し、急いでチェーンを外す。

 義父はしつこい。


「ねぇ僕がお金払うよ。美苗ちゃん泣いてるよ。僕たち家族なんだからさ。ねぇねぇ」

 

 背中にペタッと、大きな手が載った。

 ゾワっと身の毛がよだつ。悲鳴は我慢して、すばやく自転車に跨がった。チャイルドシートに乗せてあげられなかった美苗を前に抱いたまま、ぴゅうっと自転車を走らせる。

 義父が走って追いかけてくる。

 

「待ってよ。前抱っこで運転は危ないよ」

 

 無視だ。ペダルは全力で漕げ。




 なんとかスーパーに辿り着き、オムツを買った。ちょうど美苗がおしっこだったので、トイレで変えた。

 ついでにミルクを買ったり、お菓子や野菜や肉を買ったり。買い物袋はパンパンになった。

 

「買いすぎた……」

 

 肩が重い。

 澄んだ目で店を観察する美苗も抱えているのに。自転車に乗るのが憂鬱だ。


「ま、お義父さんが来てないだけマシか」

 

 先回りしてるんじゃないか、心配だったけど。

 

 

 

 スーパーを出て、自転車の鍵を外す。

 正面に白い車がスゥッとやってきて、停車した。

 窓ガラスが下がると、生理的嫌悪を催す色黒の顔が、悪気もなく、ひょっこり現れる。

 

「その荷物じゃ大変でしょ。送って行くから乗りなよ」

 

 喉から勝手に「ひっ」と声が出た。

 早く逃げなきゃと、荷物をサドルにかけて、ペダルを一生懸命漕ぐ。前に抱えた美苗が、居心地悪そうに顔をしかめた。申し訳ないが、荷台のチャイルドシートに乗せる余裕はない。

 車はゆっくりとタイヤを回し、近づいてくる。プップッとクラックションが鳴らされ、

 

「前抱っこは危ないぞ」

 

 正論だとばかりに諭された。

 誰のせいだ?

 車は直子の自転車のペースに合わせ、ゆっくりゆっくりついてくる。

 義父はクラクションを鳴らしながら、大声で、

 

「前抱っこで転んだら大変だぞ。意地張ってないで車に乗りなさい」

 

 道ゆく人々が、訝しげにこっちを見てくる。

 恥ずかしくて顔が熱くなった。死んだほうがマシ。


「わかりました。やめてください」

 

 泣くのを我慢して、自転車から降り、美苗をチャイルドシートに乗せた。手がうまく動かず、ぎこちないせいで、美苗が嫌がっている。申し訳なさで一杯だ。

 車は自転車のすぐそばで停車した。

 空気の読めない義父は、無神経にプッププップとクラックションを鳴らし、

 

「ねぇ車に乗ったほうが早いよ。乗りなよ。ねぇねぇ。ねぇねぇねぇねぇ」

 

 ペダルは重い。重すぎる荷物に、サドルも軋んでいる。後ろの美苗も、オギャーと耳障りな泣き声をあげた。

 それでも、絶対にあの車に乗ってはいけない。どこに連れていかれるかわからない。

 

 

 

 1週間はあっという間に過ぎる。休日が来ると、夫の健二はスマホゲームに夢中だった。

 寝っ転がってスマホばかり見つめる夫に、直子は憤りを覚える。

 普通なら、美苗と遊んでくれなかったり、家事をしてくれないことにだろう。普通なら。

 

「お義父さん本当に困るの。怖くて買い物にも行けないの。ねえ聞いてる?」

「あーはいはい」

 

 ゲーム画面に視線を落としながらの生返事。

 

「お義母さんやお義姉さんは何も言わないの? お義父さんは普段どうしてるの?」

「別に。気にしてないんじゃん? 親父は仕事も辞めてるよ。働いてた時代にしこたま貯金してたし」

 

 あの人の時間は、たっぷりあるということ?

 

「あなたから言ってよ。もう家に来ないでって」

 

 健二は面倒そうに、

 

「直子さぁ、ホルモンバランスだよな」

「は?」

「ホルモンの影響で小さなことにも敏感になってんだよな。わかるよ。辛いよなー」

 

 絶句した。

 ネットで適当に調べた浅い知識を並べるだけで、真剣に取り合うつもりはなさそうだ。

 

ピンポーン

 

 耳を塞ぎたかった。

 インターホンの音を、もう聞きたくない。

 

『直子ちゃんいるー? おかずいっぱい作ったよ。お話しようよ』

 

 あの声は容赦なく神経を掻き回す。

 ハッ、ハッと呼吸が荒くなった。怖すぎて、体も動かない。

 直子の様子に、夫はやれやれと体を起こし、インターホンに応じた。

 

「ありがとう親父。最近メシに苦労してたんだよ」

 

  

 

 健二が外に出て、義父に応対した。

 戻ってきたら、年季の入った重箱を抱えた義父を、しっかり連れていた。

 重箱に詰められたおかずは、すえた臭いを発している。健二は平然と食べるのだが。

 義父は冷蔵庫の中を物色し、

 

「食材が少ない。言ってくれりゃ毎日ご飯を作って持ってきてあげたのに」

 

 健二は虚空に向かって声を発する。

 

「だってよ直子。親父に食い物持ってきてもらえば?」

 



 直子は美苗を抱いて、寝室に籠城していた。簡単に入ってこられないよう、タンスやら荷物やらを、ドアの前に置けるだけ置く。

 張り上げた義父の声が、耳に届いた。

 

「直子ちゃん出てきてよ。美苗ちゃんの顔見せてよ」

 

 出てはならない。義父の目的は美苗ではなく、自分だ。

 健二のわざとらしいため息が、よく聞こえる。ドアが軽くノックされ、

 

「直子、いい加減にしろ。親父はおまえを気にかけてんだぞ。最近顔色が悪いし食えばいいじゃん。レトルトよりはマシだろ」

「いや」 

「親を大切にできないの? 俺そういうの嫌いなんだけど。子供っぽい」

 

 なんとでも言えばいい。いいや、やっぱり言ってほしくない。

 辛いよ。

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