第15話 なみなみ――溢れる思い

 ワカバが家からいなくなったとき、リナリアはファルタの街にいた。

 リナリアには少しだけ不思議な能力がある。リナリアがこちらの世界へ連れて来たアオとワカバの所在が、なんとなくわかるのだ。

 ワカバがいなくなったとき、彼女の存在がこの世界のどこからも感じられなくなった。どこかにはいるのかもしれないが、存在を辿ろうとするたびに、それを阻むように黒っぽい靄のようなものが彼女を隠してしまう。

 胸騒ぎがして、リナリアは街外れへと走った。アオとワカバと、この世界で初めて出会った、テルタの木の下へ。

 『ファルタの夕べ』が催されている今、その木の下にはたくさんの短冊が吊るされている。数多の善行を為した原初の人ファルタ=テルタへ届けるための人々のメッセージが書き記された色とりどりの紙が、風を受けて枝葉のようにさらさらと音を立てる。

 リナリアは目を閉じて、いつかのように心のなかに願いごとを思い浮かべる。

(どうか、ワカバさんを助けてください。彼女を独りにしないでください)

 リナリアが叶えたかったアオの願い。その願いの渦に巻き込まれてこちらへやって来てしまったワカバ。リナリアは、どれほど彼女に責められても仕方ないと思っていたが、彼女はリナリアを責めなかった。それどころか、まるで知らないはずのこの世界をよく理解し、溶け込もうとしているようにさえ見える。

 居住のための環境を作り、食材を覚えて料理をして、緑陰同盟の仲間とも馴染んでダンジョンへ繰り出す。リナリアから見るワカバは、本当に生き生きとしている。

 今ではアオのほうがワカバの順応ぶりに戸惑うほどだ。けれど、生活力に欠けるアオは、なんでもこなしてしまうワカバをなにかと頼りにしているらしい。

 偶然の結果ながら、リナリアは、アオの傍にワカバがいてくれて良かったと思っている。

 だからなおさら、ワカバを助けなければ。

 天へ祈りを届けるためになにをすれば良いのか、リナリアはまったくわからない。そんなことは不可能なのかもしれない。それでも、心のなかで願いを唱え続けるほかに、どうしようもなかった。

(善き人ファルタ=テルタよ、この願いを聞き届けてください……!)

 いつも祈ることしかできない。アオがつらそうにしているときも、自分の手を差し伸べることはできなかった。だから、毎日毎日お祈りをした。

 今回もそうだ。ワカバの身になにかが起こっているのに、自分はこんなところに突っ立って、他者の手に縋ろうとしている。

 もっと自分に力があれば、差し伸べる手があれば良いのに、それなのに……。

『君の探し人はヘイロンに目を付けられたらしい。今すぐに君の友人を集めておいで』

 閉じた瞼の外側から声がして、リナリアは目を見開いた。

 気が付くと、そこは水のなかだった。なみなみと揺れる水で歪む視界の向こうに、見慣れた部屋がある。学習机と、その上に乗ったディスプレイのなかに輝く景色。

(あおくんの部屋だ……)

 透明なガラスで隔てられた水のなかと蒼の部屋。リナリアはいつも、パソコンに向かう蒼の姿を、少し離れた場所から見ていた。彼の楽しそうな声も、悲しそうな声も怒りに震える声も聞いてきた。水のなかを覗き込む虚ろな目も知っている。

 誰よりも、彼の近くにずっといたから。

 最初にその声を聞いたのが、この水のなかだった。

『君の願いを聞き届けよう。けれど、これから先は君自身が、できると思ったことを為し遂げて見せなさい。わたしにできるのは、ほんのきっかけを与えることだけ』

 そうして、蒼だけでなく自分もまた「リナリア」という姿を得た。差し伸べる手を持ち、傍に駆けつけるための足を持つ。まさに『為し遂げる』ための体。

(わたしは、わたしのできることを為し遂げる!)

 水のなかと部屋を隔てるガラスが、パリンと音を立てて打ち砕かれる。溢れ出る水の流れに乗って、外の世界へ飛び出した。

 視界から水の奔流が消えたとき、リナリアはもとのテルタの木の下に立っていた。枝葉と共に揺れる短冊たちが、波のようにゆらゆら揺れる。それは、願いではなく誓いが記された、人々の決意の証だ。

 リナリアはその場でゲームのメッセージ画面を呼び出し、緑陰同盟のメンバー宛てにメッセージを書き送った。

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