第14話 幽暗――絶望と希望

『二人ともいなくなるなんて……』

 稚葉の耳に、母親の涙ぐむ声が届く。

『蒼ならいざ知らず、稚葉まで一体どういうつもりなんだ』

 父親の声は怒りに満ちていた。

『事件性はないだろうって警察は取り合ってくれないし、稚葉ったら、どうしちゃったのかしら……』

『蒼に唆されたんじゃないのか? 揃いも揃って親不孝者が』

 父親は怒りっぽくて、自分の気に入らないことにはことごとく憤慨するような人だった。親に従順な稚葉は彼に気に入られたが、価値観を押し付けられることを嫌った蒼は反抗して、結果的に親子間の溝を深めた。

 母親はいつだって『お父さんだから、仕方ないわよ』と笑っていて、稚葉はそれが嫌だったが、なにも言えなかった。


『稚葉、家出したらしいよ』

『うそー、あの絵に描いたみたいに真面目な奴が?』

『どっか男んところでも転がり込んだんじゃない?』

『あー、稚葉、恋愛とか免疫なさそうだし、コロっといっちゃった系かもね』

 陸上部で一緒の友人たちが、くすくすと笑い合っている。

 彼女たちの本心が、いつもわからない。

 一緒に喋っているとき、表情豊かに饒舌な彼女たちは決して嘘をついているようには見えない。けれど、一見して仲の良い友人の陰口をいつも叩き合っている。

 好きと嫌い、味方と敵、白と黒、そうやって二極化できるものではないのかもしれない。彼女たちはいつでも灰色だ。


 蒼がゲームの世界にのめり込んだ理由が、稚葉には次第にわかるようになってきた気がする。

 行き交う人たちは皆ドライだ。常に一定の距離を持ち、人間関係は強要されない。自由で表向きだけの関係は、家庭と学校というどこまでも湿っぽく不自由な閉鎖社会しか知らなかった稚葉には、衝撃的だった。きっと、蒼も初めはそうだったはずだ。

 現実のどうにもならない鬱憤を晴らすためには、ゲームの世界が相応しい。

 そこはまるで、光り輝く世界だ。




『はい、到着です!』

 稚葉が青い肌の少女と共に降り立ったのは、仄暗い古代神殿のような場所だった。外界からの光が一切ない広い空間を、中空に浮いた幾つもの炎が眩く照らし出している。そこには、稚葉と少女の二人しかいないように見える。

「ここどこなの? わたし、連れて来てなんて頼んでないのに!」

 稚葉は少女に抗議の声を上げる。しかし、少女ははっきりと喋る声音とは反対に、表情のない顔で首を傾げる。そして「それ」と、稚葉の胸元を指差す。

『ヘイロン神殿行きのお荷物に貼る切手です。あなたに貼られていましたので、お届けしました』

「ヘイロン……神殿?」

 ゲームの世界の地名にはまだまだ疎く、まったく理解できない。

 きっと、あの謎の切手がフラグになって、なにかのイベントを発生させてしまったのだろう。蒼から注意されていた。不用意にあちこちへ出かけると、それがフラグ――きっかけになってイベントが発生し、クリアするまで自由な行動ができなくなる、と。

 そういうことなら、ここはダンジョンなのだろうか。

『ヘイロン神殿には闇を統べるヘイロン様がおられます』

「そのヘイロンって人に会えばいいの?」

『会う……いいえ、その必要はありません。あなたのなかに闇があれば、ヘイロン様のほうから、あなたに語りかけてくださるでしょう』

「闇?」

 そう聞いて思い浮かんだのは、先ほど聞こえてきた両親や友人たちの会話だった。稚葉の心を暗い気持ちにする言葉たち。あれは、稚葉と青がいなくなった現実の出来事なのだろう。

(あんなふうに言われて、わたしはそれでもあの場所に帰りたいんだろうか……?)

 いきなり見知らぬ世界に来てもどこかのほほんとしていられるのは、いつかはあちら側の世界に帰るのだろうという確信がどこかにあるからだ。それまでの、ちょっとした息抜きのつもりならば、不便な暮らしも楽しめる。

 しかし、いつか帰れたとして、またあの不自由で息の詰まる暮らしをするのだろうか。本心を隠したまま、ずっと生きていくのだろうか。

 そうなるくらいなら、この世界にこのまま留まってしまうほうが良いのかも知れない。自分の本心を隠して嘘を重ねるよりも、本当に言いたい言葉を呑み込んでしまうよりも、今はずっと自由で、楽しい。

(わたしの居場所は、どこにあるんだろう……)

 ついこの前まで当たり前のように過ごしていた現実世界が、一気に遠くなっていく気がした。いつかあの場所へ帰れると信じていた、希望の光だと思っていたものは、一体なんだったのだろう。思い返せば、苦しいことばかりなのに、なんでそんなものを必死に信じていたのか、わからなくなってしまった。

 自然と下がった視線が、足元を見ていた。地面に映る自分の影が、ぽっかりと黒い口を開けている。錯覚だろうか、そこに吸い込まれていくように落ちてしまう。

 そのとき、頭上かから声が聞こえた。

『困ったな。その子を食うのはよしてくれないか』

 困ったと言いながら、どこか面白がるような声音だった。

 稚葉は咄嗟に顔を上げ、天井を振り仰ぐが、声の主はどこにも見当たらない。

 それどころか、青色の肌をした少女の姿も消えていて、その空間には稚葉一人だけになっていた。

 けれど、声は聞こえ続ける。

『ヘイロン、その子がこの世界に招かれたのは、君に希望を食われるためではないよ。逆だ。傷つき曇った宝石を磨くように、美しい希望の光を取り戻すためにその子は来たんだ。君に食われるためじゃない』

 その声が男なのか女なのか、幼いのか老いているのかすらわからない。けれど、優しい声だと思った。稚葉の頭を支配する重苦しい懊悩が、少しだけ和らいだような気がした。

『さて、ワカバ』

 声が稚葉の名を呼んだ。

『君を案じている者たちがいる。ひとまず弟たちのところへ帰そう。それから、先ほども言った通り、君がこの世界で成すべきことは、翳ってしまった希望の光をその胸に取り戻すことだ。まあ、早めの夏休みだと思えばいい。どうか楽しんで、好きなことを好きなようにやってみなさい。自由の意味を知れば、君なら自ずと道を切り拓けるだろう』

「自由の意味……?」

『君は、現実の君が不自由だと思っている。けれど、本当にそうだろうか? 君は、君の望む自由を知らなければいけない。これ以上はヒントはあげないよ。さあ、お帰り』

 謎の声が『お帰り』と言った途端、一陣の風がどこからか吹き抜けて、灯った炎を一斉にかき消した。真っ暗になった視界に、今度は強烈な白い光が射し込む。稚葉は余りの眩しさに、思わず目を閉じた。


「ワカバさん!」

 目を閉じたすぐ後に聞こえたのは、悲鳴のようなリナリアの声だった。

「姉さん!」

 次いで、焦ったようなアオの声。

 ワカバが目を開けると、そこはアオの家の前庭だった。

 呆然としているワカバを、リナリアがそっと抱擁した。リナリアのほうが小さいから、抱擁というよりは、リナリアがワカバに縋るような感じになったけれど。

「よかった、無事で、本当に……」

 涙声でそう言うリナリアの肩に、ワカバはそっと手の平を置く。

 きっとあの切手は、他でもないワカバのなかの闇が呼び寄せたのだろう。気付かないように見ないふりをしていた未知への恐怖、未来への不安、そういったものへ目を向けさせるために。

 けれど、それでようやく前を向く決心が付いた。あの優しい声が、教えてくれた。

 わたしは、わたし自身の手で、進むべき道を切り拓ける。

「ただいま。もう、大丈夫だよ」

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