第10話 くらげ――危機と救出
しくじった。蒼はパニックを起こしそうな頭を必死に宥めながら、息を殺す。
石造りのダンジョンの壁にぴたりと身を寄せて、付近を通る気配を探った。
顔を俯けないように、努めて周囲を見回し続ける。
これはゲームの世界。その認識が、油断を生んだ。
稚葉とリナリアを置き去りにして走り去ってから、しばらく行く当てもなくファルタの街を彷徨ったが、ふと攻略途中のダンジョンがあることに思い至った。そんな実に軽い動機で、単騎でダンジョンへと潜り込んだ。
自棄を起こしていたせいもあるだろう。冷静に考えれば、初心者向けでもない、まだ一度も攻略したことのないダンジョンを独りで攻めようとは考えるはずがない。事前の攻略情報もチェックしていたなかったから、このダンジョンがどれほど深く、深層の敵やボスに有効打となり得る武器やアイテムもわからない。
MMORPGの世界は、複数人のパーティーでそれぞれ役割分担をして敵に向かっていくのが常識だ。防御力の高いタンク役が敵の攻撃を引き受け、攻撃力の高い戦士や魔法使いが剣が攻撃、回復や補助魔法を得意とするヒーラーが後方から支援する。
蒼は攻撃役の戦士に該当する。耐久力もそこそこ持ち合わせてはいるが、同程度のレベルの敵を相手取れば打たれ弱さが出てしまう。
それでもがむしゃらに進み続けてきたが、ここへ来てとうとう動けなくなってしまった。
忘れようとしていた全身の疲労と痛みがまたじわじわと蘇ってくる。左腕が氷のように冷たい。
そう、痛い。
まるで故郷のように馴染んだゲームの世界だから、勝手知ったる己の庭だと錯覚してしまった。
頭のなかでは危険性を認識していたつもりだったが、実際に敵からの攻撃で体を負傷したときに、嫌でも理解する羽目になった。
ここでは蒼は、画面の向こうから操作するだけのプレイヤーではない。蒼は今この世界に魂と肉体を持ち、確かに存在しているのだ。
手持ちの回復アイテムは底を突き、脱出の手段もない。ダンジョンは一度入れば、脱出のアイテムや魔法を使う以外には、最奥のダンジョンボスを倒さなければ出られない仕様になっている。こんな満身創痍の状態で、敵がうようよ湧いて出る道を進み、さらに強力なボスを倒すなど到底不可能だ。
後悔が幾重にも重なって、蒼を押し潰そうとする。
もしもここで蒼の命が尽きたなら、引き籠もりの末に突然いなくなった蒼に両親はなんと思うだろうか。
(案外、なにも思わないのかもしれないな……それか、重荷がいなくなって清々するか……)
気分は暗澹としていた。痛みと寒気が、前向きになろうとする意欲を打ち消していく。もうどうにでもなれ、と思った。
ここで死んで蒼の魂が消えても、ゲーム内で起こったことは、アバター一体が消えるだけ。現実で人が死ぬよりも、事象としてはずっと軽い。こんな簡単に消えてしまえるのなら、むしろ好都合なのかもしれない。
(せめてもう少しだけゲームの世界を堪能しときたかったな……)
傷で痛む体に力を入れて、右手に握った日本刀をぎゅっと握り締める。最後に、せめて大暴れしてやろう。
そのとき――、
「斬風扇っ!!」
女の人の鋭い叫び声と共に、風が走り抜ける鋭い音が聞こえた。
「すっげぇ! あねさん本当に初心者っすか?」
次いで聞こえたのは、軽い調子で笑う男の声。その声に、蒼ははっとして隠れていた壁の陰から身を乗り出した。
漆黒の重装鎧で全身を覆った巨躯のアバター。蒼がゲームでも現実でも、一番の信頼を置く友達。
「シュウ? なんで……」
壁から飛び出した蒼にまず気が付いたのは金色の長髪を靡かせるエルフ、稚葉だった。
「あんた無事なの!? ってかなに全身傷だらけじゃん!」
蒼の様子を見て血相を変えた稚葉が近寄ろうとするが、それを遮って前に出る人影があった。
「ここはわたしが。あねさんは攻撃担当でよろです~」
そう言ったのは、稚葉の腰の高さまでしか背丈のない小さな少女だった。獣人で、ころんと丸い鼠の耳を頭に生やしている。自分の体と同じくらいの分厚い魔導書を、手に持ったり宙に浮かせたりしながら、蒼のほうへ小走りに近づいてくる。
「ミラまで!」
「アオっち、回復するよ~」
飄々とした声は、いつも音声会話で聞いている声と寸分変わらない。その声が、目の前の獣族の少女の口から直接聞こえてくる。
ミラが手を掲げると、浮き上がった魔導書から神々しい白い光が溢れ出して、蒼の体を包んだ。そよ風が吹き抜けていくような心地よい風が全身を撫でて、痛みを拭い去っていく。
これが、回復魔法なのか。
「ありがとう、ミラ。でも、どうして君とシュウがねえさ……ワカバと一緒にいるの?」
「んー」
魔導書を再び手に持ったミラが、踊るように体を左右に揺らしながらにっこりと微笑む。彼女がよくやる動作だ。
「なんか、シュウっちのところにメッセが来たんだって。アオっちがピンチだから一緒に助けにいってください~って」
「でも、ワカバは君たちのこと知らないはず……」
「あ~、メッセくれたのはあねさんじゃなくて~」
ミラがそこまで言ったところで、地面が強く揺れた。立っていられずに膝をつくと、ワカバたちが敵と戦っているあたりの地面から、鋭い爪を持った巨大なモグラが飛び出してきた。
モグラが襲いかかるのは、半透明でそこらじゅうを漂っているクラゲたちだった。巨大な体をどう動かしているのか、意味がわからない素早さで広範囲を動き回り、鋭い爪のひと薙ぎで確実にクラゲたちを打ち落としていく。
クラゲは毒や電気で攻撃したきた者を痺れさせてくるのが厄介なのだが、モグラにはどちらも効いていないようで、動きが鈍ることはない。加えて、稚葉の風の攻撃を連打して敵に反撃の隙を与えず、蒼があれだけ苦戦していた敵の群れをわずか数分で全滅させてしまった。
「そう、あのモグラ使ってる子~、リナリアちゃん。あの子が、シュウっちにメッセくれたの。なんか~、前にアオっちと三人で初心者ダンジョン一緒に行ったんだって?」
そうか、リナリアならシュウと一度パーティーを組んでいるし、そのときの履歴から連絡を取ることはできる。
「あねさんとリナリアちゃん、かなり強力な武器持ってるけど~、さすがに二人でこのダンジョンはきついからね~、タンクのシュウっちと、ヒーラーのあたしがいて、ちょうどいい感じだったんだ~」
「……確かに」
「ちょっと! 蒼!」
邪魔する敵を排除して、今度こそ稚葉が怒りの形相で走り寄ってくる。
「無茶してんじゃないよ! 迂闊なことすれば死ぬかもしれないって、あんた自分で言ってたじゃんか! それがどうして『たすけ、もとむ』になんの!?」
息がかかりそうなくらい近い距離で、稚葉が蒼の目をじっと覗き込んでくる。見慣れない西洋風の美女の顔、けれど声は確かに姉の声で、喋り方も姉と同じ。
「……ごめん」
目を逸らして、小さく呟く。大きな溜め息が聞こえた。
「……ほんとに心配したんだよ。あんたになにかあったら、わたしは母さんと父さんに顔向けできない」
続いた稚葉の言葉に、蒼はむっとする。
「なんでそこで親が出てくるの?」
「はぁ? 二人とも蒼のことめっちゃ心配してるからに決まってんじゃん」
「そんなことないと思うけど……」
「……あんたねぇ……」
稚葉は一歩身を引いて、額に手を当ててやれやれと首を振る。
「まあいいや。それより、リナリアが蒼の友達呼んでくれて、なんとかここまで来られたんだよ。お礼言おう」
蒼がメッセージを送ったのは、リナリアと稚葉の二人だった。冷静さを欠いた頭で中途半端に作成したので、あのたった11文字で通じるのかわからなかったが、恐らくリナリアが的確に対応したのだろう。けれど、まさかシュウと連絡を取るとは思わなかった。
五人で向かい合って立つと、不思議な感覚に陥る。
画面越しによく見慣れたシュウとミラが自分の目の前にいて、ごく普通に喋っている。もしかして彼らもまたゲームの世界に引き込まれたのかと考えたが、彼らは蒼と違って全然深刻そうな雰囲気ではない。言動もいつも通りのテンションだ。
蒼が自分の事情をどう話したものかと考えつつ、お礼の言葉を述べようとすると、それよりも先にシュウが興奮気味に口を開いた。
「なあ、ここにいるメンバーでパーティー組もうぜ!」
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