第6話 筆――異世界の文字を書いてみよう

「ここは、ゲームのなかの世界だ」

 蒼と名乗った男は、真剣な顔でそう言った。

「僕がやっているMMORPGが、ちょうどこんな世界なんだ」

「えむえむ、おー?」

「インターネットを介して多人数で遊ぶゲームだよ」

 稚葉は改めて室内を見渡す。木造、ところどころ石造りのような家屋、家具や丁度は木材だったり、謎の光る石だったり、不思議な光沢を持つ金属質だったりする。プラスチック製品のようなチープなものは見当たらない。稚葉は、魔法使いが活躍する映画のセットのようだと思った。

「それに、僕のこの姿。僕がゲーム内で操作しているアバターと一緒なんだ」

 蒼の、まるで秘密を打ち明けるように厳かな声。それも、本来の蒼の声ではなく、成人した男性のテノールだ。正直、彼が本当に蒼なのか半信半疑なのだが、見た目に反した口調の幼さは蒼のようにも思える。もう随分とまともに口を利いていなかったので、それがなんとなく懐かしかった。

「それじゃあ、わたしは?」

「それがわからないんだけど、多分、姉さんはもともとこのゲームをやってなかったし、もしかしたら新しいアバターが作られたんじゃないかと思う」

 「見てみたら」と、蒼が部屋の隅にある姿見を指し示す。稚葉は立ち上がり、少しドキドキしながら姿見の前まで歩いて行った。

「うっわぁ……」

 細身で背の高い、金髪美女がそこにいた。ストレートの長髪に緑色の瞳。作り物のような大人の美貌は怜悧な印象で、つり目がちの緑色の瞳が見る者を射貫くようだ。胸元や太股の露出が多い服が気にかかったが、それ以上に目立って見えたのは、小振りなナイフのような尖った耳だった。

「エルフだね」

 背後で蒼が言った。

「人間じゃないの?」

「そうだけど、あんまり関係がないかな。種族によって得手不得手があるっていう設定だけど、結局、遊んでいる人はみんな人間なわけだし」

「そっか」

 これはいよいよ、ゲームの世界だと認めざるを得ないかもしれない。

 稚葉は改めて、蒼のアバターだという男性を見る。彼も現実では到底あり得ない姿をしていた。

 真っ青の髪に、金色の瞳。顔立ちは日本人的な優男だが、顔の横から頭頂部に向かって生えている耳は、犬か狐のもののようにピンと立った三角形の獣耳だった。腰のあたりに目線を落としてみれば、均整の取れた体の後ろから、もふもふした青色の尻尾が少しだけ見えた。

「動物、好きなの?」

「見た目のことは気にしないで!」

 大の大人が頬を染めながら言い返してきた。尻尾や耳が感情を表わして上がったり下がったりするのが面白い。

「ここは蒼の家?」

 今、二人がいる部屋は大きな作り付けの本棚があったり、座り心地の良さそうなソファがあるあたり、本を読みながらくつろぐ場所のように見える。衣食住にまつわる生活感はあまりない。

「そんなもんかな。あとで見て回ってもいいよ」

「うん、そうする」

 座り込んだままでもいけないので、慣れない体で立ち上がってみる。容姿はかなり違うが、背格好が本来の稚葉と似ているのか、動かすのに不便はほとんどなかった。強いて言うなら、腰まである長い髪が邪魔になるくらいだ。

「髪伸ばしてる人ってすごい忍耐力だよね。尊敬する」

 癖のない艶やかな金髪を一房手に取りながらぼやく。稚葉は生まれてこの方、ボブ以上には伸ばしたことがない。髪が頬や首筋にかかると鬱陶しくなって、すぐに切ってしまう。

「さあ、姉さんが女っぽくないからそう思うんじゃない?」

 蒼は素っ気なく言って、部屋の外へ出て行こうとする。

「なにそれひどい」

 一応怒ってみるが、蒼は特に気にする様子もなく歩いて行く。

 稚葉も、口にするほど傷付いてはいなかった。「女っぽくない」は一種のステータスだ。女子だからだと気を遣われるのはなんだか馬鹿にされているような気がするし、男子と同じノリで扱われるほうがずっと良い。

 書斎を出ると、隣部屋はリビングのようだった。そんじょそこらの日本の一軒家のリビングよりもずっと広く、対面型のキッチンも奥に見える。食事を摂るダイニングテーブルがキッチン寄りの場所にあるが、それ以外は大型の家具はなく、がらんとして殺風景だった。

「随分と物が少ないのね」

「いろいろ置こうと思うんだけど、どういう物がいいのかわからなくて放置してるところ」

 書斎は部屋の主の好みを凝縮したような完成度で、家具や小物の配置まで拘っているように見えた。それに比べて、リビングという生活空間はぽっかりと穴が空いたようになにもない。

「ゲームのなかは生活する必要がないから、生活必需品みたいなのは置く必要がないんだよ。だから、ここにはなんにもいらないような気がして」

「でも、これからはもしかしたらここで生活していかなきゃいけないわけだし、そういうのも必要になるかもしれないよね。ゲームの世界だとして、食事とかお風呂とかどうするんだろう?」

「うーん……」

 稚葉の疑問に、蒼が首を傾げる。とにかくわからないことだらけだ。こんな立派な家があるのに、まるで未開の地にでも来てしまった気分になる。

「未開……? そうだ!」

 思い立って、稚葉は手を打った。くるりと踵を返し、今しがた出てきた書斎へと戻る。手近な書棚から分厚い本を一冊手に取って、びっしりと書かれた文章に目を走らせる。

「なるほど」

「なにが?」

 後ろから付いてきた蒼の問いに答える代わりに、本を彼に渡してやる。蒼もそのページを見て、どうやら稚葉が確かめたことを理解したようだ。

 「読める」という蒼の呟きに、稚葉は頷いた。

「紙とペン、ある?」

「そういうのは確か、デスクにセットされていたような……」

 蒼は言いながら、書斎の一角にあるどっしりとした執務机に向かっていく。確かに机上にはレターパッドのような紙とインク壺に挿されたガラス製のペンがある。

 稚葉はペンを引き抜くとレターパッドに「木島稚葉」と書いた。

「おお、そうなるかぁ」

 稚葉は日本語の漢字で自分の名前を書いたつもりだ。しかし、レターパッドに実際に綴られていたのは、稚葉が書いたこともない不思議な文字だった。そして稚葉は、それを「木島稚葉」と読むことができる。

 横から稚葉の手元を覗き込んでいた蒼も、感心したように「へぇ」と頷いた。

「僕たち、意外とこの世界に順応できるかもね」

「うん。あとはこの世界の人たちとの会話かな。でもそれも、元が日本語で遊べるゲームなんだから問題なさそうだけど」

 言いながら、稚葉はレターパッドの空白に適当な文字を書き連ね、それが実際にどんな文字に変換されるかを確かめていく。自分が頭で思い描いた形とは違う文字が綴られていくさまは不思議で仕方ない。

 他にも考えることはいろいろある。衣食住、お金、他にもこの世界でどう生きていけば良いのか、不安もあるが、未知の物事に挑めると思えばわくわくする。

「姉さん、なんだか楽しそうだね」

「え?」

 ひらがな五十音をは行まで書き終えたところで、蒼に図星を指された。

「姉さんは絶対に嫌だろうと思ったのに。突然見知らぬ場所で見知らぬ姿で、なにが起こったかもわからなくて、絶対に現実世界に帰りたくて怒ると思った」

「そりゃあ、帰りたいけどさ。でも、帰るためにもまずはいろいろ調べないといけないでしょ」

 反射的にそう言い訳してから、「本当に?」と思った。本当に元の世界に、元の自分に戻りたいのだろうか。今、まったく知らない世界で、新しい自分になっていることに、心底から安堵している気がするのに。

 蒼に反論する隙を与えたくなくて、稚葉は強めの口調で言い募る。

「とにかくもっといろいろ調べたいし、街とかさ、人が集まる場所に行ってみない?」

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