第4話 滴る――金魚は夢うつつにたゆたう
夕食後の洗い物を終え、手から滴る水をタオルで拭き取った稚葉に、隣で一人分の夕食にラップをかけていた母が声をかけてきた。
「それ終わったら、蒼ちゃんにご飯届けてきてあげて。あと、たまには顔出してって言ってくれる?」
心配げに眉根を寄せる母の顔に、稚葉は内心で怒りを覚える。
そんなに心配なら自分で顔を見に行けば良いのに。蒼の部屋は別に鍵がかかっているわけではないのだから、扉を開けてちゃんと顔を見て、それで自分の口から言えば良い。
なのに、母はそれをしようとしない。必ず稚葉にすべてを言付ける。まるで、姉弟なら心が通じ合うとでも信じているように。
いや、そんな綺麗事を信じているわけではないのだろう。ただ、自分が面と向き合ったときに、親子関係がこれ以上こじれるのを恐れているだけだ。これ以上、実の息子に己を否定されて、自分の心が傷つくのが怖いだけ。
同じ我が子の稚葉ならば、その傷を肩代わりさせても良いと思っているのだろうか。
母親に対する文句なら幾らでも吐き出せる気がする。けれど、稚葉にはそれができない。
「……わかった」
稚葉が低い声で応じると、母はあからさまに安堵した顔をして「じゃあ、お願いね」と食事の載ったお盆を稚葉の両手に渡す。
母は、稚葉も蒼と同じように親に反抗するのではないかと案じている。けれどきっと同時に、稚葉なら自分の言いつけを守るだろうという確信があるのだろう。
稚葉は、そんな母を哀れに思う。
反抗してやろうと思ったことがないわけではない。ただ、稚葉が彼女を否定する発言をしたとき、母が折れてしまうのではないかと不安に駆られて、結局いつも流されるままに頷いてしまう。
クラスメイトがよく母親と口喧嘩したと愚痴をこぼすが、稚葉は親子喧嘩なんて一度もしたことがない。怖くて、できない。
お盆を持って二階に上がり、片手の平にお盆を載せて、もう片手で蒼の部屋の扉を叩く。
「蒼、ご飯置いておくよ」
いつも、扉の前に置いておくと、翌朝には空っぽになって部屋の前に戻されている。夜中にトイレには行くのだから、そのときに台所まで持っていってくれても良いのになと、いつも少し苛立つ。
「ねえ、蒼。聞いてる? たまには返事しなよ。ちゃんとそこにいるんでしょう?」
蒼が部屋から出てこなくなって、半年以上が経つ。初め、まばらな不登校から始まり、やがてまったく学校へ行かなくなった。そのときはまだ家のなかで顔を合わせることはあったが、やがてそれもなくなり、今は家の誰も彼の姿を見ていない。
家族が、蒼を避けているのだ。トイレやシャワーのタイミングを見計らえば幾らでも会う機会はあるけれど、全員、彼と鉢合わせないよう時間を見計らい、どこかで不意に物音がすれば動きを止める。
蒼と家族の距離は、広がるばかりだ。そのことに、稚葉がいつも苛立ちを募らせている。
蒼は甘やかされている。そのツケを、親の期待という形で二人分背負われている稚葉の気持ちなど気にもしないで、弟は毎日をのうのうと過ごしているのだろう。
だから、今日こそは直接言ってやろうと思った。
かつて「開けるな」と言われた蒼の部屋の扉。物理的に鍵をかける以上に、精神的な戒めとなった彼の拒絶の言葉。けれどそんなもの、本来ならなんの障壁にもなるはずがない。彼を甘やかす家族だからこそ、効力があっただけのこと。
もう、甘やかさなければ良いのだ。
稚葉はドアノブに手をかけ、勢いよく扉を押し開けた。
「蒼、たまには顔出しなさいってお母さんが……」
躊躇ってはいけないと、部屋に踏み込むと同時に強気な口調で言葉を放つ。しかし、最後まで続けることができなかった。
部屋はさして広くない。天井のLEDの白色照明が明るく照らす室内は、ベッドと学習机、それから本棚を置けばほとんど満杯だが、きちんと整理整頓が行き届いていて、手狭な感じはしない。蒼は昔から、男子にしては繊細で几帳面な性格をしていた。
学習机の下には大きなデスクトップパソコンの本体が置かれ、ディスプレイは机の上。その画面が放つ輝きに、目が吸い寄せられる。
蒼はパソコンに向かっていたのだろう。椅子に座り上体だけを捻って姉を見ている。禁を破っていきなり踏み込んでいた姉にひどく驚いた様子だった。
だが、稚葉はそんな弟の様子を気にかけることもできなかった。
ディスプレイの前を、金魚が優雅に泳いでいた。その周りを、球状になってふよふよと浮かぶ水と一緒に漂っている。それらの不可思議な光景を、ディスプレイから溢れる光が神秘的に照らしていた。
中空を漂う金魚は、愛しい者に縋るように、蒼の頬に自らの身を寄せる。浮かぶ水のひとつが彼の目元に当たって弾けて、まるで涙のように顔の側面を伝って顎へ、そこから雫となって滴った。
一連の光景がスローモーションのように流れていく。
それが夢なのか現実なのか、稚葉は立っているのか眠っているのか。次第に様々な感覚がない交ぜになって不確かになり、やがてディスプレイから溢れ出る光に、視界が真っ白に塗り潰された。
「蒼?」
「姉さん……?」
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