第2話 金魚――アオとシュウ
飼っていた金魚が逃げた。ある日、水槽のなかからいなくなっていた。
数年前、神社の縁日の金魚掬いで手に入れた数匹のうち、一匹だけ長生きしている赤い出目金だった。特に名前は決めず、ずっと「金魚」と呼んでいた。
ここ一年ばかり、友人や家族よりもずっと長い時間を金魚と過ごしている。寝ても覚めても傍にいてくれる(水槽で飼われている金魚からすれば、傍におらざるを得ない)この世にたった一匹の相棒のようだと、一方的に思っていた。
金魚が逃げるとすれば、いつだっただろうかと記憶を手繰る。
今日は一度も部屋を出ていなくて、朝と昼の食事も部屋で摂った。だから、誰かがこっそりと金魚を連れ出すことはできない。部屋の扉から出ていった線もないだろう。
となると、窓から逃げたのだろうかと、普段は厚手のカーテンを閉め切っている窓を開けてみる。外はちょうど黄昏どきで、湿気を含んだぬるい風がわずかに吹き込んできた。
部屋は二階にあって、窓の外は四、五メートルほどの距離を置いて隣の家の外壁が見える。真下を見れば、家の敷地と敷地を区切る柵で仕切られた細長い空間に、エアコンの室外機が見えた。空を見上げると、屋根と屋根のあいだから、黄色みの強いオレンジ色の空が見えた。
金魚は果たして飛ぶだろうか、それとも地面を這うようにして進むだろうか。なんとなく、空を飛んでいるほうが似合う気がした。優雅な尾鰭を揺らめかせながら、水中にいるように中空をゆらりゆらりと漂う姿が目に浮かぶ。
そのとき、背後からピコン、と短い電子音が響いた。途端に、興味の矛先が外の世界から室内へと移り変わる。
勉強机の上の薄型のディスプレイに目が吸い寄せられ、画面の真ん中に表示された通知を読む。
「シュウだ」
呟いて、すぐにパソコンの前に座った。脇に無造作に放り投げてあったヘッドセットを掴んで、通知ボックスのなかの「通話」のアイコンを押す。
『やっほー、アオ』
「シュウ、今日は早いんだな」
ヘッドセットから聞こえるテンション高めのシュウの声に、ぼそぼそと呟くような声音で返事をする。部屋の扉の外で、誰かが聞き耳を立てているかもしれない。なんとなく、シュウや仲間との会話は聞かれたくなかった。
「うちの親、今日は遅くなるんだってさ。貰ったおこづかいで弁当買ってきたから、今日は食べながらやろうかと思って」
そう喋るシュウの声に混ざって、ビニールががさがさ鳴る音、プラスチックがばりばり鳴る音が聞こえる。親のいない家で、自分の選んだ夕飯を食べるのはきっと楽しいだろう。それがたまにある程度のことならば。
『アオは? この時間、夕飯じゃないのか?』
「うちは……」
咄嗟に言い淀んでしまう。
「父親がそろそろ帰ってきて、風呂に入ってからだから、まだ一時間くらいあるよ」
言い淀んでから、別に嘘を吐くようなことはなにもないと気付く。シュウはきっと、こちらの家庭事情までよく知っている。二年前、中学へ上がる前までは、パソコン越しではなく実際に毎日学校で会って、放課後もずっと一緒に遊んでいたのだから。
『一時間かぁ。じゃあ、短いとこいっこだけ行こうぜ』
「オッケー」
返事をしてPCゲーム用のコントローラーを握る。
中学校入学のお祝いで買って貰ったデスクトップパソコン。その向こう側の世界が、今や現実よりも本当の居場所のように感じている。
シュウに誘われて始めたMMORPGは楽しい。そこでは、自分の理想とする姿をアバターに投影できるし、なにより、出会う者たち同士が、互いの背景を気にせずに気楽に付き合うことができた。
学校でゲームが好きだと話せば馬鹿にされる。しかし、そんなゲームで遊んでいる人が実際にたくさんいるのだと、ゲーム内の空間ではよくわかる。詳しい内容を理解しようともしないで、ただ「ゲーム」だというだけで馬鹿にしてくる奴らのほうが、よっぽど馬鹿だ。
「アオ」
その声はヘッドセットを介してではなく、現実から聞こえた。
「お父さん帰ってきたから、もうすぐ夕飯だよ」
無駄によく通る女の声。本人は小声のつもりなのだろが、陸上部に所属しているせいか、どんなときもいちいち声が大きい。その声に、ぼそぼそとしか喋れない自分の声はかき消されてばかりだった。
声の主は部屋に立ち入ることはせずに、義務的に用件だけを告げただけだった。一つ屋根の下に住みながら、もうどれだけ顔を合わせていないだろう。
『アオ?』
今度は怪訝そうなシュウの声が聞こえた。
「ごめんごめん、行けるよ」
学校のこと、家族のこと、いなくなった金魚のこと。それら現実のすべてを頭の片隅に押しやって、ディスプレイのなかに広がる世界を睨むように強く見る。ここが、自分の世界だと目に焼き付けるように。
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