金魚の夢 ~異世界姉弟生活記~
とや
第1話 黄昏――七月初日の閉塞感
部活を終えて帰路についても、空はまだ明るかった。
一方の稚葉は補欠にも選ばれず、チャイムが鳴ると早々に走り込みをやめ、仲の良い女子数人と連れ立って更衣室へ向かった。生徒たちの状況を把握すべき顧問の教師は、選抜選手へ檄を飛ばすのに夢中で、その他の生徒には目も配らない。「各自勝手に終わって片付けて帰れ」と言われた四月以来、稚葉は顧問とはひと言も口を利いていないかもしれない。
七月の初日、まだ梅雨の明けないこの時期は、晴れていても空気は湿気を含んで重い。そのなかを走っても爽快な気分にはなれなくて、気持ちもなんとなくどんよりとして重くなる。
いや、梅雨のせいだけではない。
「期末の数学、まじでえぐくなかった?」
「クロセン、正解させる気ないっしょ。うちらのレベルであんなん無理だって」
校舎裏の駐輪場で愚痴のこぼし合いが始まる。稚葉は無言のまま自分の自転車に鞄を放り込み、耳を澄ませた。
「平均50点いってなかったし、むしろ笑えるんだけど」
「大体アイツ、黒板に向かって話してるばっかで生徒とコミュニケーション取ろうとしないじゃん。あんなネクラオタクでよく教師になんかなれたよね」
定期テストの問題の難易度と、教師の人格は相関するのだろうか。それに、彼女らが「えぐい」と言った問題は、授業で習った範囲の応用に過ぎない。数学の文章題はえてして難しいが、それでも「正解させる気ない」とまではいかない。稚葉は内心で反論する。
「ね、稚葉もそう思うっしょ? あ、稚葉は頭いいから、もしかして余裕で平均超え?」
自転車に跨がってスマホをフリックしていた稚葉の元へ、友人たちがそれぞれ自転車を押して集まってくる。稚葉は急いでスマホの画面を消して、彼女らににっこりと笑い返した。
「ううん、ぜんっぜんわかんなかった!」
ささやかな嘘だ。どうせ互いにテストの点数を律儀に報告し合ったりしないのだから、バレることもない。稚葉は笑顔の裏で自分に言い聞かせる。わたしの嘘は正しいのだと。
自転車を漕ぎ出し、他のみんなが校門を出て駅の方向へ向かうのに別れを告げて稚葉は逆の道を一人で走る。空は青から茜にようやく移り変わりだしていて、影法師が稚葉の前に長く現れる。
稚葉の通う高校から家までは自転車で二十分弱。住宅街の、建て売りの似たような家が並ぶうちの一軒、その駐車場に減速して入り、鍵をかけて玄関へ向かう。玄関ドアの上部から垂れるカウベルがカラカラと軽い音を鳴らした。
「ただいまー」
後ろ向きに靴を脱ぎ、廊下をリビングへ向かうと、稚葉の母親がひょこりと顔を出した。
「あら、おかえり。連絡なかったから遅くなるかと思ってたわ」
その言葉に「ごめんごめん」と軽く応じながら、稚葉はしまったと思う。親にいちいち帰宅時間の連絡をしているところをクラスメイトたちに見られたくなくて、メッセージ未送信のまま画面を消したのだ。校門で別れてから送ろうと思っていたのを、すっかり忘れてしまっていた。
「稚葉ったらほんとにうっかりさんね。まあいいや。お父さんももうすぐ帰って来るだろうから、二階上がったらあおちゃんにも声かけてきて」
「はぁい」
キッチンに弁当箱を置いて、稚葉は自室のある二階へ上がる。二階には二つ部屋があって、どちらも子供部屋だ。片方が稚葉で、もう片方が弟の蒼の部屋。
稚葉はあまり音を立てないように自室のドアを開き、閉めた。
小学校入学から使っている学習机にベッド、本棚と洋服箪笥があって、窓辺にクマやウサギのぬいぐるみが数体並んでいる。両親の方針で、キャラクター物や少女趣味な柄物が排除された室内で、幼い頃に与えられたぬいぐるみだけが可愛げのある小物で、あとは一見して高校生の娘の部屋には見えないほど愛想のない部屋だった。それでも、家のなかで唯一一人になれる部屋は、稚葉にとっては聖域だ。
鞄を床に置き、制服を脱いでベッドの上に畳んであった部屋着に着替える。部屋はじわじわと暑いが、エアコンはまだ使用許可が出ておらず、外から帰ったばかりの体からは汗が噴き出している。本音を言えばシャワーを浴びたいが、この家の一番風呂は父親と決まっていた。
せめて籠もった熱を追い出そうと窓を開けて外を覗くと、空はようやく黄昏色に染まっていた。昼間より少しだけ冷めた風が額の汗に触れて心地よい。
今日もようやく一日が終わるとほっとしかけたとき、外から聞き慣れた車のエンジン音が聞こえた。父親の車だ。
稚葉は先ほど母親に言われた仕事のことを思い出し、そっと溜め息をつく。窓から少しだけ顔を出して、なんとなく弟の部屋のあるほうを見た。
「あれ?」
口から小さく声が漏れる。弟の部屋の窓が開いていて、そこからわずかにカーテンが飛び出して僅かに風に揺らいでいた。
弟の部屋は稚葉の部屋と違って、年中自由にエアコンを使って良いことになっているから、弟はどんな日も窓を閉め切っているのに。
なにかあったのだろうとかと考えかけて、今度は階下から玄関扉のベルの音と、母親の裏声に近い「おかえりなさい」が聞こえて慌てて考えるのをやめた。
スマホだけを持って部屋を出て、隣室と扉をおざなりに叩く。
「
そう呼びかけてしばらく待ってみるが、なかから返事はない。返事が返ってくることはほとんどない。なかから音が漏れ出してくることもなく、もしかしたらなかに弟はいないのかもしれないが、それでも彼の在不在を稚葉が確かめることはできなかった。
蒼は引き籠もりだ。中学へ上がってすぐにそうなったから、もう丸一年以上、彼は部屋からほとんど出ない暮らしをしている。
稚葉は再度ノックしようか迷い、しかしそれ以上は音を立てることなく、静かに階下へ降りていった。
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