Day9 団扇

 水団扇なるものがあるという情報を仕入れてきたのはアヤの方だった。なんでも、普通の団扇より断然涼しいらしい。

「何その曖昧な情報」

「とにかく、すごいらしいんだってば」

 アヤ自身も又聞きの情報のようだった。なんでも、とある同級生が習字のお稽古に行っている先生が使っていたとか何とか。その習字の教室は同級生たちが何人か行っているところで、目撃情報は複数集まっているらしい。

 というわけで、興味を持ったアヤとミツキは習字教室に行ってみることにした。折しも今は土曜日の午前中で、ちょうど教室が開かれているところだという。個人の習字教室のため見学も随時受け付けており、それに乗っかる形で(実際の目当ては別のものだが)行くことになった。

 習字教室は住宅街の中にあった。やや昔からの住民が多い区画で、立ち並ぶ家はどれも古めかしさを感じられる。その中の一軒、隣家と同様に塀に囲まれた家の門扉が開け放たれていた。道から側溝をまたぐ石段を三段登ったところにある門扉は堂々とした佇まいで、古さと重厚さを感じさせる黒ずんだ木でできていた。閉じると外に向く面には、やはり木でできた札に「習字教室 見学随時受付中」と達筆な文字で記されている。

 門構えから玄関は飛石を数個渡る程度で意外と近かった。玄関の引き戸は解錠されており、そのまま二人は家屋の中に入る。すぐ右手の和室が習字教室で、多くの児童生徒たちが文机がわりの折りたたみ机に向かっていた。室内は空調が効いて涼しい。

「あら、見学かしら?」

 和室から声をかけられた。声をかけてきたのは玄関寄りの大きな机についていた女性で、初老あたりの年齢に見えた。他の子どもたちが使っている机よりもひとまわり大きな机には、フェルトの敷物と彫刻の施された硯、筆置きと大小の筆、朱色の墨汁が並んでいる。上品な雰囲気で、いかにも習字教室の師範という印象だ。

「あ、ええと、はい」

 声をかけられると思っていなかったミツキがややまごつきながら答えると、アヤが声を上げた。

「あの、水団扇ってどんなのですか?」

「ちょっと、アヤ」

 ミツキは慌ててアヤを小突いた。アヤはだって気になるじゃんと返す。師範の女性は意表を突かれたような顔をしていたが、やがてころころと笑い出した。

「あらあら。物知りなのねえ」

 習字教室の見学者ではなく、単に水団扇の興味本位で来たことはバレてしまったが、気を悪くしてはいないようだった。少し待っててね、と言って席を立つ。程なくして女性は水を張った洗面器と団扇を持ってきた。

「これを使うの」

「へええ」

 浅めの洗面器に張った水に、団扇を浸す。引き上げると、団扇の表面に水滴が丸く乗っていた。

「水団扇に使う紙は、少し特殊な紙を使うんですって。水を弾くようにしてあるとか」

「へえええ」

 女性が水団扇で扇ぐと、細かな水飛沫が散って確かに涼しい。そういえば商店街にも大きな霧吹きのようなものが設置されていて、それの前に行くと涼しかったようなとミツキは思い出した。

「せんせー、並んでるよー」

 気がつけば、女性の机の前には子どもたちが列を成していた。女性ははいはいと言って立ち上がる。よかったら涼んでいってねと水団扇は置いたままにしてくれた。アヤとミツキは教室の端で水団扇を扇ぎながら、しばしの涼しさを堪能した。

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