さらさら
夏場の西日は殺人的だ。先輩宅のベランダは西寄りの南向きなので、このごろは日が傾き始めたと見るや遮光カーテンを引くことにしている。吸血鬼の館のごとき松橋邸である。
今日は家に俺一人。昼か夜かわからない、しかし間違いなく涼しいリビングのテーブルに仕事道具を広げて仕事をしていたら、会社の納涼会に出ていたはずの家主からメッセージがきた。
〈悪い、これから帰るけど会社の人がどうしてもっていうからふたりつれてく〉
「まじ」
急に気が咎めた俺は、散らかしていた書類をざっとまとめつつ簡単に返信する。
〈俺出てたほうがいいすか〉
〈いて ていうかお前に会いたいらしい〉
「ええー」
居候が珍しいのだろうか。別に俺、面白くないけどな。
そもそも先輩が人を家に呼ぶなんて初めてのことだ。学生の頃から、集団には馴染むが群れるふうでもなく、どちらかというとパーソナルスペースが広い印象の人だった。そう考えると、どんな人が一緒に来るのか、俺もにわかに興味が湧いてきた。
〈了解す〉
そう答えたところでやりとりが途絶えた。おおかた、生真面目に同僚の相手をしているのだろう。時刻は午後四時半。仕事のキリもいいので、かるく来客準備くらいはしておこうと腰を上げた。
きゅうり、みょうが、オクラにサバ缶。適当に材料を集めたところでいまいち足りない気がして、レシピサイトを確認する。
「味噌ね、みそみそ」
アルミホイルに載せて焼けとあるので言われたとおり味噌を火炙りにしながら、薬味の類を細かく刻む。きゅうりは皮に三カ所くらいピーラーを通して輪切り、これはざっと塩もみしておく。サバ缶も、蓋を開けたらいったんひっくり返して水を切る。今日は手早く済ませたいので顆粒だしを適当に溶かしてから、焦げ目のついた味噌を少しずつ伸ばした。そこへほぐしたサバの身その他を全部放り込んで、白ごまを大量に摺ったらできあがりだ。
白飯にかけてよし、そうめんを入れてもよし、そのまま飲み干すもよしの冷や汁である。
ぼけた鉄琴のようなチャイムが鳴るなり、玄関から物音がして家主の帰宅を知らせた。これがどうもきゃいきゃいとかしましい。
(女の人?)
いよいよ面白いことになってきた。
適当に手を拭いて廊下に顔を出すと、こちらに気づいた来客の甲高い声が響いた。
「同居人さんですかあ?」
「落ち着け藤本、まず名を名乗れ」
小柄でテンションの激しい女性を、すらりとして落ち着いた女性が押しとどめている。トイプードルとアフガンハウンド。二人ともオフィスカジュアルよりいくらかくだけた服装で、それがまたキャラを際立たせている。
「いらっしゃーい」
「すまん、こういうかんじ」
「ご愁傷様です」
「えーっ、なんか失礼なこと言われてます?」
「失礼はあんただよ藤本」
かわいそうに、先輩はやつれ果てていた。断るのも面倒になって承諾したものの、道中で相当エネルギーを吸い取られたらしい。男女が二対二で同じ空間にいるのに、色事の気配は一切ない。
「すみません……」
「いえいえ」
背の高いほうの女性は
「はあ、やっかいですね」
「ちょっとお!」
俺の皮肉にか藤本さんの反応にか、吉田さんは口元だけでふふふと笑う。落ち着いて見えるが、その頬がうっすら上気してることに気づいて俺は先輩に声をかけた。
「今日酒出ました?」
「出た。全員けっこう飲んでる」
「あちゃー」
これでいろいろと説明がつく。先輩は酒には強いが昼から飲むと眠くなってしまうたちだし、藤本さんの傍若無人さも、吉田さんの目がそれなりに据わってるのも。
「メシは?」
「寿司とか唐揚げとか、なんか適当につまんだ……」
「わかりました」
もうこれは、食い物で釣ってクールダウンさせるしかない。収拾がつかない状況では声のでかいやつが勝つ。俺はひゅっと息を吸い込んだ。
「冷たくてうまいもん食べたい人!」
「はーい!」
よし釣れた。全員リビングに通してから大急ぎでそうめんを茹で、氷水で締めて冷や汁に放り込む。来客の分だけ、もらいもののガラスの器によそって、箸はコンビニの余りを剥いて数を揃えた。さすがに食卓の椅子は足りないので、男二人はソファに座る。吉田さんはともかく、藤本さんは安定したテーブルでないときっとなにかをひっくり返す。そんな予感がする。
「これが噂の、松橋家の福利厚生……」
この短時間の俺の頑張りを吸い込みながら、元凶の藤本さんがしみじみと呟いた。
「えっ、なにそれ」
「弊社における沢村さんの異名です」
「ごく局地的だけどな」
「俺は一体なんだと思われてんの」
知らないところで自分の存在が一人歩きしていると知るとさすがに身構える。戸惑う俺をじっと見て、その視線を宙にとばして、うーんと考えてから吉田さんが答えた。
「お母さんですかね」
「それ!」
藤本さんがのっかって、俺はコメントしたこと自体を心から後悔した。
「先輩、どうにかしてくださいこの酔っ払い」
「悪い、もう俺限界……」
「うそでしょ」
「ねえおかあさーん」
「いいからもう黙って食ってくださいよ」
打つ手なしと見て遠慮をかなぐり捨てた俺に、さすがにやりすぎたと思ったらしく二人ともスッと椅子に戻った。
「すみません、悪ノリしました」
「でもほんとこれ、すごいおいしい。家に帰ったら作っててくれるの、ほんとに羨ましい」
おとなしくしてくれていればかわいいもので、喜ばれれば俺だって悪い気はしない。言い方が強かったことを謝ってから、人の世話ばかりで自分が食べていなかったことに気づいた。俺はいつもの箸を使って、まずは汁からさらさらと吸い込む。
薬味の香り、きゅうりの水っぽい甘さ、サバの食べ応えに味噌の塩気がまわって、噛むごとに甘さが引き立つ。たしかにこれは、間に合わせにしては美味くできたかもしれない。
「これ食ったら帰ってくださいよ」
「はーい」
調子がいいのは返事だけ。このあと、彼女たちはテレビ台で見つけた映画のブルーレイを一本見終わるまできっちり居座り、先に電池の切れた先輩に代わって俺が最後まで相手をする羽目になったのだった。
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