うまいメシさえあればいい

金魚

「さわむらー」

「へいおかえり」

「ザリガニ拾った」

「なんて?」

 俺がネクタイを引き抜きながら靴を脱いでいると、リビングから沢村がひょっこり顔を出した。腕組みするなり、いかめしい顔で言い放つ。

「うちじゃ飼えませんからね、返してらっしゃい」

 どこから出るんだそのマダム声。

「いや連れてきてないし。ていうかここ俺んちだし」

「申し訳ございませんでした」

 時刻は夜八時。家にメシがあると思うと無茶をしなくなるもので、近頃はずいぶんまともな時間に退社するようになった。夏至をすぎたばかりだというのに、おもては熱したアスファルトによって蒸し器のごとき暑さである。冷房のありがたみが身にしみる。

 基本暦どおりに働いている俺に対し、同居人の沢村の仕事には波があるそうで、谷間の時期は家にいるか近所の手伝いに出ている。地面にめりこみそうなほど谷、とぼやいていたのは昨晩のことだ。「金がない」が口癖なだけあって食事はほぼ自炊、ともに暮らすようになってから俺もその恩恵に預かっているわけだが、いまや食材費を切り詰める必要のなくなった沢村はたまに謎の贅沢をする。台所を覗くと、衣をまとったえらく立派な海老が網の上に並んでいた。

「で、どうしたんすかザリガニ」

「金魚屋から逃げ出したみたいだったから拾って返してきた」

「金魚屋?」

「金魚とか熱帯魚とか水草ばっかりだから、ペットショップっていうのも違うかなと思って。ほかになんて言えばいいの」

「いやそうじゃなくて、そんなとこありましたっけ?」

「え、あるじゃん」

「どこに」

 商店街でやたらと顔を売っているこいつにしては珍しい。場所を説明するものの、沢村は「あったかなあ」と首を捻るばかりだ。

「もう行ったほうが早いんじゃないの」

「飼いませんからね!」

「わかったわかった」

 その日の晩飯はエビマヨとネギソースがのったトマトスライス、卵ときくらげのスープにニラもやしのナムル。品数も量もやけに充実していて、エビマヨにはちゃんとレタスが敷いてあった。

「あのエビ、揚げて終わりじゃなかったのか」

「手を動かしてると、余計なこと考えなくていいんすよ……」

 沢村が虚ろな目をするので、俺は慌てて箸を運んだ。

「やっぱエビがでかいとうまいな」

「先輩の稼ぎで買ったエビですけどね」

「めんどくせえな」

 とはいえ地雷を踏み抜いたのは俺だ。話なら聞くぞと言うと、沢村は「大丈夫す、ありがとうございます」と口を噤んだ。

 別に無理に話すこともないが、変なところで頑固なやつである。


 *


「ここ、店だったんすね」

 訪れた金魚屋には「アクアランド富士田」という立派な名前があった。店名の書かれたビニール庇は破れて育ちすぎた枝が突き出しており、店前にはどう見ても売り物でない水槽が空のものもそうでないものも積み上がっている。気づかないのも無理はない。

 さすがに店内はきちんと整頓されていて、薄暗いなかを色とりどりの魚が泳ぎ回っていた。揺らめく尾びれ、丸や三角の胴、身体全体が透明な魚もいる。申し訳程度に石や筒状の隠れ家が設置されているものの、どの水槽もどこか殺風景だ。買い手がつくまでの仮住まいなのだから別にいいのだろうが、なんだか切ない気持ちになってきた。

「あ、いたいた。先輩こっち」

 沢村に呼びつけられて行くと、ごろごろと石が敷き詰められた浅い水槽のなかで何匹ものザリガニが蠢いていた。

「これは脱走しますね」

「だろ」

 石の積み上がり加減が、ところどころほどよい足がかりになっているのだ。石を崩してやろうと沢村が手を伸ばすと、気づいた一匹がすかさずはさみを高く持ち上げた。

「うお」

 身じろぎしたところへ第二第三のはさみが持ち上がる。沢村は完全に敵としてマークされてしまった。ずらりと並んだはさみに、俺のしんみりした気分も吹っ飛んで、二人揃ってひとしきり笑う。

「ガッツあるなあ」

 沢村は何度かザリガニに相手してもらって、いたく感心したようだった。

「俺、ちょっと元気出ました」

「それはよかった」

 どこの家にも、その家にしか通じないローカルルールが存在するものだ。以来、相手が元気のないときにはダブルピースを高く掲げるというのが、我が家のならいとなった。

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