うまいメシさえあればいい
草群 鶏
なす
序・なす
1・灰色の液体
「灰汁と書いてアクと読む……」
「これはアクっていうか色素すね」
そうじゃなくて、という言葉は目の前の男が椀のなかみとともに吸い込んでしまった。後輩の沢村は童顔に喜色を浮かべ、うまいうまいと屈託がない。
花の金曜日に、何が悲しくて男ふたり食卓を挟んでいるのか。
職場でもらってきた山のような量のナスは、くろぐろぴちぴちと輝いていた。新鮮すぎてヘタがとげとげしている。結構なことだが、問題は、男の一人暮らしではこの量を捌ききれないということだ。近所に親しい人間がいるわけでもなく、呼びかけたら引っかかったのは万年貧乏を囲っているこいつだけ。しかも自分のところはIHしかないから俺の家がいい、という。
かくして週末の数日、ナス消費ついでに後輩の食事の面倒を見てやることになった。
茄子ってどうやって食べるんだっけ。マーボーナスくらいしか浮かばないがなんとなく面倒で、ひとまず味噌汁に放り込むことにした。切ったら水に晒すことくらいは知っている。あとは、適当に煮たらどうにかなるだろう。
そうしてできあがったのが、この灰色の液体である。
「俺が知ってる味噌汁はこんな色じゃない」
「ちょっとした手間らしいすよ。先輩んちは下処理ちゃんとしてたんすねえ」
愛ですよ、とか言うから鼻から米が出そうになった。愛か。そうなんだろうか。
「明日は俺がつくりましょうか」
「たのむ」
どうやら面倒を見てもらうのは俺のほうみたいだ。
2・それは宵の色
じゅわああ、ばちばちばち、うわああああと台所が騒々しいので、なんだなんだと様子を見に行くと、沢村が右手を抱えて悶絶している。
「なんだ、闇の右手が疼くか」
「ぐっ、誰か俺を止めてくれ……」
ちゃんと乗ってくるのがこいつの偉いところだ。
「で、どうした」
「油が跳ねただけっす……」
いてて、と言いつつ菜箸をとる姿は堂に入っていて、普段から料理し慣れていることが伺える。それとなく訊いてみると、「そりゃ自炊くらいしますよ、貧乏なんで」と嫌味で返された。
揚げナスである。後ろから覗き込んでいると、ヘタがついていたあたり、色の薄い部分がみるみる鮮やかな紫に変わって、急に彩りが増す。まるで魔法のようだった。
「今日はつまみフルコースっす」という沢村の宣言に合わせて、俺は川エビの唐揚げとつくねを買ってきた。いずれも好物、ベスト・オブ・俺のつまみだ。
「おお、見事に茶色い」
「うるせえ」
「そう来るだろうと思ったんで、俺は野菜担当で」
ナス、オクラ、ごぼうにアスパラ。俺が買ってはみたものの使い切れずにいた食材を片っ端から唐揚げか素揚げにして、キッチンペーパーの上に積んでいく。
「あっつい」
「エアコンつけるか」
「いや」
目を爛々と輝かせながら皿を持ち上げる。
「ベランダで食いましょう」
ぷし、と音を立てて缶をあけ、ぐびっとひとくち。ビール党の俺に対し、沢村はチューハイを選んだ。窓辺に調味料の容器を転がして、かたっぱしから試してみる。
「塩だけでも十分うまいな」
「俺的には七味マヨがいいっす」
時刻は午後六時半。日没から間もない西の空は、淡い紫に染まっていた。早くも酔いはじめた沢村が、ナスを宙に掲げて「同じ色だ」と笑う。ぬるい夜風がさわりと肌をなでた。
3・大人のおやつ
「甘いもんばっかだとさすがに飽きるな」
冷蔵庫の中は炭酸のペットボトルと酒ばかり、冷凍室は冷凍食品とアイスが占拠していた。仕事帰りのよぼよぼの状態で買い物をすると、どうも頭のわるい偏り方をする。
「そんなこともあろうかと」
じゃーん、と沢村が平たい密閉容器を出してきた。
「冷たいけど甘くないやつ」
「げっ、また茄子かよ」
「いやまじ先輩茄子ナメすぎっすよ」
昨晩の揚げ茄子を浸しておいたという。いつの間に。野菜室はあんまり見ないから気づかなかった。
出汁を吸ってくたくたになった茄子に、細く切った茗荷を添える。ちゃんと盛り付けると、食パンのシールでもらった皿でもちょっと良く見えるから不思議だ。
「で、これ」
「うそだろ」
またもや野菜室から出てきたのは日本酒の一合瓶。まだ日は高く、蝉は命を振り絞って鳴いている。子供が水遊びをしている声まで聞こえているのに。
俺はどこか敗北した気分でおとなしく食卓についた。
じゅわりと滲みだす出汁の遠くに、茄子の青さと油のうまみ。そのまま冷えた日本酒を口に含むと、すっきりと甘い香りが喉を潤した。
「どうすか」
「まいった」
こんなおやつもアリなのか。こういうときは、大人になってよかったなあと心底思う。
4・氷の上の宝玉
平日はどうしたって食事がおろそかになる。
昼は社食でなにかの麺、もしくはコンビニのおにぎりとカップ麺。夜は夜で、スーパーで見切り品の惣菜をみつくろって適当に済ませる。
もうちょいうまいもんが食べたい。淡い不満を持て余したまま金曜日。仕事の合間にふとスマホを見ると、沢村からメッセージが入っていた。
〈お宝入手しました。こないだのお礼に持っていきたいんですが、今日大丈夫ですか?〉
文章だとちょっと畏まるのがおかしくて笑う。お宝ってなんだ。いかがわしいものじゃないだろうな。
べたつくシャツに辟易しながら帰宅すると、ドアの前で沢村が待ち構えていた。俺に気づくと「見て見て」と子供のように駆け寄ってくる。
まるまると太った茄子だった。水茄子というらしい。
「行きつけの飲み屋でめちゃくちゃ美味かったんで、言ったらちょっとくれたんすよ」
「金ないんじゃないのか」
「まあまあ、飲みにくらい行かせてくださいよ。で、このタイミングで茄子っつったら先輩しかいないと思って」
部屋に上がると、勝手知ったる様子で台所に立つ。その手際のよさを横目に、俺はスーツを着替えに行った。
しばらくして戻ると、ちょうど支度が済んだところだった。皿に敷いた氷の上に、割いただけの茄子とそうめんが盛られている。
「生じゃん」
「まあ、食ってみてくださいよ」
「……いただきます」
促されるまま、添えられたもろみ味噌をつけてひとかじり。てっきり苦みやえぐみがあると思いきや、みずみずしい甘さがふわっと広がる。
「うまい」
「でしょう」
べつにお前の手柄じゃないだろう、と喉まで出かかったが思いとどまる。このところの食の充実は、間違いなく沢村のおかげなのだ。
「釣れたのがお前でよかったよ」
「えっ」
心からの賛辞に、沢村はぎょっと身構えた。なんだ、まったく失礼なやつ。
味噌もいいけどめんつゆでもうまそうだな。一度ハマると、今度は食べ方を考えるのにいそがしい。どうやら、俺のなかに眠る食い意地が目覚めてしまったらしかった。
もくもくと箸をすすめる俺にようやく警戒をといて、沢村も椅子を引いた。うまいものはうまいのだ。そして、うまいものの前では何人たりとも和解すべきなのである。
茄子紺の宝玉は、氷に抱かれてきらきらと輝く。ルームシェアの話が出るまで、そう長くはかからなかった。
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