第18話 美桜
とても大きな桜の木の下で、穏やかに笑う男の人が私を大事に大事に抱きしめてくれました。
母も隣で優しく微笑んでいて、幸せで穏やかな空気が流れていたことを覚えています。
父の記憶は割と残っていて、とにかく優しさの象徴のような人でした。どんな時でも、誰に対してもニコニコと笑っていて、気がつくと父のまわりにはいつも人がいた気がします。
私がワガママを言って母を怒らせても、父がいつの間にか間に入り、母をなだめ、泣け喚く私を気が済むまで抱いてくれます。
"また甘やかして"と母に言われながらも、困ったように笑いながら私が泣き止むまで温もりを与え続けてくれます。だから、父がいる時は私に怖いものなどなかったのです。
私は一生この人に守られて、優しさに包まれながら生きていくのだと幼いながらに思っていました。
ある雨の日だったと思います。母はいつものように、父の帰りを待ちながら台所で食事の準備をしていました。
私も大好きな絵本を読みながら、母の邪魔をしないよう大人しく待っていました。きっと、父が帰ってきたらいい子であった私を褒めてくれると、沢山抱きしめてくれると期待に胸を膨らませながら。
しかし、待てども待てども父は帰ってきませんでした。いつも、夕飯までには必ず帰ってくるはずなのです。
心配をした母が何度も何度も電話をかける姿が印象に残っています。
夜も遅くなり、私は母の膝の上で段々と重たくなる瞼と必死に戦っていました。
今日褒めてほしかったけれど、あの優しい手で沢山頭を撫でてほしかったけれど、忍び寄る睡魔には勝てず私は瞼を閉じました。
仕方がないので明日にしましょう。そうだ、今日帰ってこなかったことに拗ねて、沢山泣いて、沢山抱きしめてもらいましょう。
そんな事を考えながら夢の中に入る準備を始めた時です。
電話が鳴りました。私の身体は瞬時に反応し、父からの電話だと思い飛び起きました。母も少し安心した様な表情を浮かべつつ、すぐさま電話をとりました。
しかし、母の表情は段々と曇り青ざめていきます。何を話しているのかはわかりませんでしたが、鬼気迫る雰囲気で返事をし、"すぐに向かいます"と電話を切った母を見て、何か大変な事が起きているのは察しました。
不安な表情を浮かべる私に対し、母は無理矢理に笑顔を作りながら話します。
「美桜、お父さんねちょっと怪我しちゃったみたいなの。だからこれから病院に行こうね」
母は私を抱き、車に私を乗せてすぐ様出発しました。急いでいるのか、少し荒い運転に揺られながら私は父のことを思います。
父は転んでしまったのでしょうか。血が出ていたら可哀想です。そうだ、私が絆創膏を貼ってあげましょう。痛くなくなるおまじないもかけてあげましょう。怪我が治るまでは、ワガママを言うのもやめておきしょう。
色々なことを考えていると、いつの間にか病院に着いていました。
母は私を連れ、駆け足で病院内へ向かいます。中に入ると、白い服を着た女の人が母と私を待合室まで案内してくれました。母は私をソファに座らせ、少し離れた場所でその女の人と話しをします。
私も父のことを聞きたかったけれど、聞いてはいけないと言われているようで大人しく待っていました。
少しすると、母が戻り私に言いました。
「お父さん、今怪我と一生懸命戦ってるみたいなの。だから、応援してあげようね」
私は大きく頷きました。
私もよく転ぶので、痛いことのツラさはよく知っています。痛くて痛くて涙が止まらなくなるのです。でも、そんな時は必ず父が抱きしめてくれるのに、怪我をした父のそばに母も私もいれないことがとても可哀想で仕方ありませんでした。
心の中で沢山父のことを応援しつつ、母と手を繋ぎながら長い時間を待った気がします。
しばらくすると、父がいると思われる部屋の中から今度は何人もの大人が出てきました。
母は急いで、その人達の元へ駆け寄り話しかけます。中心にいた男の人が私のことを遠目でチラッと見ながら、俯き何かを母に伝えました。
母は固まり、ポロポロと涙を流し始めます。
私は急いで母に駆け寄り、手を握ってあげました。そんな私を母は抱きしめ、涙を流しながらずっと震えていました。
私は明日がくると思っていたのです。
父に起こされ、母の作った朝ごはんを食べて、また3人で手をつないで桜を見に行く明日がくると。
「美しい桜はね、僕の大事な宝物なんだよ」
桜の木の下で私を抱きしめてくれた父の、あの優しい声をまた聞けると思っていたのです。
しかし、そんな明日がやってくることはありませんでした。
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