第4話⑤
ヘスペリデスの屋敷。
アイリカーの訃報を知らされたヘスペリデス姉妹は悲しみに包まれた。
しかし、勤めは果たさなければならない。ヘスペレトゥーサとラドンは丘に戻り、黄金果実を守っている。
ヘスペラが涙を拭って、エリュテイアにアイリカーの亡骸について尋ねる。
「アイリカーは?」
「大地に還ったわ、ニンフだからね」
「……どうしてだよ!! どうしてアイリカーが……声を聞いたときに向かってれば……!」
「落ち着いて、クリュソテミス。アイリカーが助けを求めなかったのは、僕らのためなんだから……」
「……ひぐっひぐっ……ああぁっ……」
アステロペーが泣き崩れた。彼女も外に居たため、クリュソテミスと同じように己を責めていた。リパラーが慰める。
屋敷の一部屋からヒュギエイアが出てきた。自作の薬を使って兵士の治療を試みていたのだ。
「ヒュギエイア、どう?」
「ダメです。薬ではどうしようも……外科手術じゃないと。それに仮に治っても、完全に声帯が断裂しています。喋れはしません」
「なら、そんな奴殺しちまえ! アイリカーを殺したんだぞ?!」
「やめてください! アタシは薬剤師、命を奪うなんて真似をする訳にはいかないの!」
「なら、アタシがやる。この中じゃ、アタシだけが運命決まってるし。今更何をやっても変わらないからさ」
「止めて皆! 今はそんなことをしている場合じゃないでしょ!? わたしたちは侵入者をどうするか考えないと」
「……考える必要なんてない。決まってるよ」
揉める姉妹たちをヘスペラが一蹴する。
「追い返すんだ。それが私たちの役目だもの。……その途中で手荒になったって構いやしない。黄金果実さえ守れれば」
「……ヘスペラの言う通りね」
「ああ」
憎き侵入者たちに報いを味合わせる。
言うまでもなく、全会一致した。
それはその場に居なくとも、ヘスペレトゥーサも同じく。
そして、ラドンも同じだった。
――――
拠点ではアッタロスと隊長が会議を重ねていた。
アッタロスは一度撤退し大勢の軍隊を連れてくるべきだと提言するが、ラドンを見ていない隊長はそれを拒否した。むしろ、部下の命を奪ったアッタロスを激しく非難した。
「隊長、聞いてくれ。今すぐ逃げるべきだ。装備も人数も、まるで足りていないんだ! 奴は言葉が使える、こちらの作戦が筒抜けになる。数で攻めるしかないんだ」
「黙れ、アッタロス! 部下を殺しおって。何が猪殺しの英雄だ、ただのデカい蛇ごときに怯えやがって。ニンフを一人殺したならば手柄だったのだ! 何故、助けなかった?!」
「ふざけるなよ、隊長。ニンフを殺してしまったせいで、奴らは俺たちを許しはしない。怒らせちまった。必ずここを攻めてくる! あんたはあの蛇を見ていないからそう言える。全滅するぞ!?」
アッタロスは必死の説得するが既に隊長は彼への信頼を失くし、一言も彼の言葉を信じなかった。
隊長は兵士たちに防衛の指示を飛ばした後、アッタロスの装備に付いた隊章を引き剥がす。
「貴様はもう仲間じゃない! どこへなりとも行ってしまえ! 次に見かけたら、本国の裁判も待たずに俺が貴様の運命を決めてやる!」
隊長はその場を後にした。
一人残されたアッタロス。自前の剣を強く握る。
「…………なら、たった一人でも生き残らせるために勝手にやらせてもらうぞ」
――――
因果が収束するときが来た。
運命の天秤が傾き始めた。
どちらに天秤が傾くか、それは神のみぞ知る。
深夜。アイリカーの時間。
ラドンが兵隊の拠点を襲撃した。
兵隊も防御態勢をとっていたが、巨大な蛇が縦横無尽に動き回り質量で兵士をなぎ倒していきながら拠点を蹂躙する。
当惑する兵士たちに隊長が檄を送る。
「怯むな! ただのデカい蛇だ、槍で刺しまくれ!」
隊長が声を大にして指示を飛ばし続ける。兵士たちもそれに従い、統制の取れた動きで槍を振るう。
しかし、ラドンは繰り出される槍を事前に察知したような動きで逃げ回る。尻尾を振るって兵士を吹き飛ばす。
「く、くそ! 当たらないぞ」
「こいつ、未来でも見えているのか!?」
「怯むな、怯むな!! 囲むんだ、囲めば当たる!」
兵士たちはラドンを包囲しようと追い込むが、ラドンは的確に陣形の穴を付いて包囲されないように立ち回る。
立て続けに戦法が通用しないことに、兵士に動揺が走る。
それは指示を出している隊長も感じていた。
「何故だ、何故……何故、こちらの動きがわかるんだ!?」
悲痛な叫びを上げる隊長。薙ぎ払われる兵士たち。
ラドンが鎌首を上げて咆哮を上げる。見上げてくる人間たちを睨む。
「……愚かだな、人間」
「こ、こいつ、喋るぞ!?」
「ひ、ひぃ!!」
自分たちを凌駕する蛇が喋れると知り、兵士たちは怯え始める。
その様を憐れむラドン。
「理解を越えたものに直面して怯える貴様らも、弱い生き物だ。己らだけが知性を所有していると思ったか? 我が言葉を理解することを知っていただろうに」
「そ、そんな……本当に、言葉を理解する蛇だなんて……」
隊長が己の過ちに気付いて絶望の表情になる。
言葉を理解する相手に、声を張り上げて部下に指示を出していれば当然の如く指示内容が筒抜けになる。どんな戦法を取ろうが、全ては無意味だ。
戦法が通じない。なら、数を頼りに戦法も戦略もなく攻め立てるのが正攻法。
ここに居る人数では到底足りない。
「アッタロスが……正しかった……」
「不明な怒りがある。貴様らの血で我の火照りを冷ましてもらうぞ。対策を怠った驕り、その命で悔いるがいい!!」
ラドンが隊長を丸呑みにする。
指揮官を失った兵士たちは混乱と恐怖で戦意を失って逃げ惑う。無抵抗の兵士らにラドンが追い打ちをかける。
何人も何人も。
噛み砕かれ、押し潰され、絞め殺された。
消えぬ怒りに任せて開かれた凄惨たる舞台、人間惨殺ショー。
弱い者を蹂躙して、己が強いと示すためだけの残虐さ。
最後の一人にラドンの牙が迫る。
人影が間に割り込み、それを寸前で止めた。
短い剣を使ってラドンが口を閉じるのを封じる。
「あ、アッタロスさん……」
「逃げろ。逃げて生き延びて、国にこいつのことを伝えろ!!」
兵士は逃げ出し、残っていた船で出航する。
逃がすまいと追うラドンを、アッタロスが破壊された拠点に火を放って邪魔をする。
炎が木材を燃やし、ぶちまけられていた油に引火して火の手が広がる。アッタロスが撒いていた通りの形に火が走る。
炎の闘技場が出来上がり、ラドンとアッタロスを中に閉じ込めた。
アッタロスはラドンに話しかける。
「言葉を用いる蛇よ。恐ろしい怪物だな、お前は」
「何……?」
「猛獣のパワー、人間並みの知能……そんなもの怪物としか呼べないだろう」
「……皮肉のつもりか? どれだけ知能があろうが所詮は蛇だ。蛇は怪物ではない、ただの猛獣だ!!」
ラドンが怒りを込めて尻尾を振るう。
落ちていた盾を拾って衝撃を逸らすアッタロス。
「ッ! これのどこが怪物じゃないってんだ!!」
アッタロスは折れた槍の穂先を拾い、ラドンに向かって投擲する。それを何度も繰り返す。
「怪物とは超常の容姿を持ち、尋常でない機能を持つ強い生き物だ。我の身を見ろ! 蛇の身体、言葉、知能! 無敵の身体も、英雄を殺す毒も、灼熱の息もない。不死身ですらない我は、貴様のような弱い生き物の攻撃でさえよけねばならない! この屈辱が人間の貴様にわかるか!」
「ああ、わかるかよ! 人間は弱いんだ。神が選んだ天秤の運命に立ち向かうことすらできない。だから、助け合って次に繋げるんだよ!」
槍が無くなれば剣を。剣が無くなれば手斧を。
何でも使って、アッタロスはラドンを近付けさせない。
「俺がお前を食い止めれば、逃げたあの兵士が必ずお前を殺す真の英雄を連れてくる。それが人間の勝利だ、『次』があることが人間の繋がりが生む強さだ!!」
「繋がり……不愉快な言葉だ。繋がりなど弱みだ!! 貴様らが殺したヘスペリデスと繋がってしまったせいで、我は弱くなった!! 繋がりを想い身動きが取れず、それが害されれば傷を負い惑う。こんなものは強さではない、強くなる訳がない!!」
「……哀れな蛇だな、お前は。孤独は強さじゃない、繋がりは弱さじゃない。今のお前がそれを証明しているのに」
遂に武器が自前の短い剣だけとなった。
それを強く握り直して、アッタロスは構えて吠えた。
「お前はただの怪物じゃない。哀れな怪物よ。――来い、人間の弱さを舐めるなよ!!!」
「黙れ黙れ、人間! 弱い我を怪物と呼ぶなあああ!!!」
弱い英雄と孤独な蛇が衝突する。
結果は目に見えていた。
当然のように人間の脆い身体は噛み砕かれた。
「ぐ、ぐぅがぁ……!!」
ラドンの片目にアッタロスの短い剣が刺さっていた。剣の柄を千切れたアッタロスの手が未だに握っていた。
次に繋げる。その意志の力が人間の刃を蛇に突き立てていた。
――――
片目を失くしたラドンは黄金果実の丘に戻って来ていた。
たった一人、静かな丘の天辺に生える黄金果実の木を眺める。
「女神ヘラよ、応えよ。役目を果たした我の望みを叶えよ」
ヘスペリデス姉妹の絆。互いに強く繋がり信頼し合い、失われれば深く悲しむ。
女神ステンノと女神エウリュアレの姉妹。神の在り方を堕落させて永劫の苦しみを受け入れてまで、姉妹であり続けることを選んだ。
奴ら姉妹の在り方と、己の兄弟姉妹への認識は違う。
嫉妬し、憎む存在。ラドンのの弱さを嫌がおうにも突き付けてくる兄弟姉妹。
心底思う。殺してしまいたいと。
この一件で、ラドンはそれを確信した。
「我は繋がりなど要らない!! 兄弟姉妹は憎む相手だ。我よりも強い肉体も、不死性も、毒も、その容姿も! 全てが妬ましい、憎たらしい!! 越えたい、越えたいのだ。奴らだけではない。父テュポンも母エキドナさえも凌駕する身体と力が欲しい! 繋がりなど金輪際不要だ、代わりに我を怪物にしろ。女神!!」
ラドンの願いは聞き届けられた。
異変が起きる。身体が縮んでいき、潰れた目から流れる血が蠢く。
ラドンの意識が分割されていく。
二、五、十、五十、百。
百の意識に分割されていく。
身体の感覚が喪失し、代わりに百の意識が自在に動く。
百の眼で世界を視る。百の耳で世界を聞く。
蛇だったラドンは、小さな翼を持った巨大な頭部だけの姿になった。高度な言語機能は、自在に動かせる百の蛇型子機となった。そして、女神の恩寵によって不死身の怪物となり果てた。
変身の代償として、本体の頭部は動けなくなり正常な言語機能を喪失した。
百の蛇が言葉を理解しても、返す言葉をもはや持たない。
ラドンは外との繋がりを失ったのだ。
ラドンの蛇型子機が一斉に森へ飛び出した。子機は森の至る所に潜み、侵入者を監視する。子機の一つひとつが本体と繋がって視界を共有しているのだ。
百頭竜ラドンが誕生した。
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