第36話
「ほぅ、貴方が辺境伯の奥方ですか。噂通りお美しい」
隣国の第二王子であるハンス・フォン・シューア様が馴れ馴れしくわたくしを手を取る。身分差があるから振り払う事は出来ないけれど、曖昧な笑みを浮かべる事で喜んでいない事を示す。
「お褒め頂き光栄です。シャーリー・エル・ドゥイエと申します。夫が不在の為、代理で参りました」
「こんなに美しい奥方を放っておいて辺境伯はどちらに行かれたのですかな?」
……は?
ハンス様は、今なんと仰いました?
フレッドが不在なのは、そっちが攻めて来たからだろうが! ハンス様はニヤニヤとした笑みを浮かべてわたくしの反応を窺っている。
落ち着け、落ち着いて……。
思い出すのよ。自分勝手な人はお姉様で慣れている。大丈夫、先生の教えを思い出して。感情のままに怒ってはいけないわ。数を数えて、フレッドの顔を思い出して。とにかく怒りを落ち着かせるのよ。ましてや相手は格上。
わたくしの態度次第で、多くの民や兵士の命がかかっている。舐められてもいけないし、喧嘩腰になってもいけない。
フレッドに贈られたブレスレットに触れると、不思議と気持ちが落ち着いた。そうよ、わたくしはフレッドの妻。フレッドが守っているものを、一緒に守ってみせるわ。
「夫はもうすぐ帰って参りますわ。辺境はなにかと多忙なんです」
「寂しくはないのですかな?」
「ええ、寂しくありませんわ。その分、一緒に居る時にはたくさん愛情を注いで頂いておりますので」
だからわたくしに触れないで欲しいわ。フレッドが帰って来たら、いっぱい抱き締めてもらうんだから!
「……へぇ、シャーリー様はあの熊が好きなの?」
この失礼な男、引っ叩いてもよろしくて?!
フレッドは熊じゃない! 人間よ!!!
大丈夫、落ち着け、フレッドはいつもどうしてる? 熊と呼ばれても、穏やかに笑ってる。本当は悔しい筈なのに。
ここでわたくしが怒れば、フレッドが今まで築いてきたものが無駄になる。
それに、こんな馬鹿げた質問をしてくるって事は、ハンス様はわたくしがフレッドと結婚したのは嫌々なんだと思ってる。
こういう時、一番効くのはやっぱりこれよ。
「はい! わたくし、夫が大好きなんですの!」
「は? あの熊が?」
「熊と呼ばれても穏やかに笑う優しさ、鍛えた逞しい身体、丁寧に整えられた髭! 夫は、最高の男性ですわ。ちなみに、ハンス様が仰る熊とはわたくしの愛する夫はありませんわよね?」
「あ……ああ、失礼、辺境伯の事を熊と馬鹿にする無礼な者が居た事を思い出したんだ。私はそんな無礼な事は言わないからご安心下さい」
「ハンス様は思慮深い方ですわね。わたくしの愛する夫の名はフレッドと申しますの。今度、夫とご挨拶に伺いますわね」
「こ、光栄です……。辺境伯のフレッド様は素晴らしい奥方をお持ちのようだ」
「夫は本当に素敵なんですの。この間も……」
うっとりと惚気れば、ハンス様はポカンとした顔をなさっている。フレッドの良さは見た目だけじゃない。あの優しい性格、しっかりと仕事をするかっこいい姿……領民に慕われ、家族を大事にして、使用人も気にかける。洗練された内面こそフレッドの最大の魅力だ。わたくしがフレッドを好きなのは、見た目ではく内面なんだと勘違いされてしまう事も多い。
違う! わたくしはフレッドの見た目も好きなの! 逞しく鍛えられた身体に、優しい微笑み。あの髭だって最高にかっこいいわ!
わたくしはたくさん社交をして学んだ。
なんだかんだと、夫が好きなご夫人は多いのだ。だから、夫の話をすると会話がスムーズに進む。それに、惚気話は噂話よりも情報が詰まっている事が多い。夫がこんなものをプレゼントしてくれたと話をして貰えれば、お相手の好みが探れる。デートの場所をさりげなく聞けば、行動範囲も分かる。腹の探り合いではないから口が軽くなるご夫人も多いし、なにより皆様楽しそうに話して下さるから気疲れしない。わたくしも今は情報を漏らさないように気を付けているけど、信頼したご夫人の前ではついつい色々話してしまう。
そして、男性のあしらい方も学んだ。
フレッドがずっとわたくしから離れないから、全てエリザベスや交流のあるご夫人の聞き齧りなんだけど……全力でパートナーを褒めれば馴れ馴れしくしてくる男性は大抵退散するそうだ。
今回も、効果があった。ハンス様はわたくしの手を離し、その後は常識的な社交が続いた。エリザベスや王妃様のサポートもあり、今後は仲良くしていきましょうと話して穏やかに茶会を終えた。
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