第7話 生贄
青白い月光に照らされ、闇夜の中で扇子が舞った。うねる様な風がさっきまで光を放っていた萌葱色の狐火を消し去った。
「見つかりました」
右慶の声で明神は不意に振り返った。赤い袴姿の子供が鬱蒼とした草原の中に立っている。
「そうか」
扇子を閉じると控えていた左慶が明神の直ぐ隣に姿を現した。青い袴を履いた子供が少し不安気に主人を見上げている。
「それじゃあ予定通りに頼む」
不安気な表情が、悲しげに俯いた。それに気付いた右慶が溜息を吐いた。
「本当にそれで良いのか?」
右慶の問い掛けに明神は瞳を宙に投げた。
「俺が決めたことに何か不満でも?」
「俺は関係ないから別に構わないけど、左慶と狛は? 清はどうなるんだ?」
「悪いようにはしない」
明神の言葉に左慶が顔を上げた。
「お前が望むなら空に還してやるし、それが嫌なら智弥にでも頼んでその姿のままで居られるようにしてやるから」
「何でそんなに落ち着いていられるんですか!」
思わず左慶が怒鳴った。明神は相変わらず底の知れない顔をしている。
「本来の跡取りが現れたら大人しく身を退くのか? そいつに下る事の意味を知らないわけではないだろう?」
「だからといって別に喧嘩する程、屋敷に執着している訳ではない。まあ、下った後のことは俺の知ったことでは無いからどうでもいい」
それを聞いて、苦虫を噛むような顔をする右慶と、今にも泣き出しそうな左慶の顔を見比べた。
「記憶を良いように弄られても?」
「まあ、それで呪詛の封印が上手くいくのならば文句はないさ」
どうせ上手くいかないだろうから、身体に封じた呪詛と一緒に消されるだろうと言うことは右慶にも想像がついた。
「今まで本来なら当主が受けるはずの呪いを肩代わりさせられて、十年も放っておかれて、今更出て来て当主面されて、いいように玩ばれて……普通、怒るでしょう!」
左慶の頬に一滴の涙が伝った。
「お前は俺の身の上を案じて泣いてくれるのか」
「情けないんです! 悔しいんです!」
左慶が怒鳴るとそっと頭を撫でた。
「……そういうものか」
「そういうものです」
右慶も応えると明神は溜息を吐いた。
「良くわからんが、済んだことを蒸し返しても仕方が無いだろう。謝って貰ったところで、この十年が戻るわけでもないし……」
それを聞いて右慶は頭を抱えている。左慶も眉根を寄せて泣いていた。
「あんたなら、兄貴に呪詛を移すくらいのことは出来るだろ」
「呪詛を身体に封じていた期間が長いだけに、上手く剥がれるかはやってみないと分からん。出来たとしても、削ぎ落として穴の空いた部分に兄貴のかけた式神化の呪詛が浸透すれば、どの道あいつへ下らなければならないだろう」
「奴を殺せば、式神化の呪詛は解けるだろ」
「……式神化の呪詛を解いたら鬼の呪詛に侵食されて鬼になるだろう……」
明神の静かな声が闇夜に消えていく。二つの幼い子供の式神がお互いの顔を見やって目を細めた。主人の言い分が正しいことは二人とも分かっている。けれどもそれが本音なのか建前なのか、傍また兄にかけられた呪詛による洗脳の賜物なのか二人には分からなかった。
鳴神 智弥は大きな銀杏の木を見上げていた。葉は青々と繁っていて、晴れた空に枝葉を伸ばしている。ここへ来たのは初めての筈だが、何故か懐かしさがあった。
「大きな木でしょう?」
声をかけられて振り返ると、赤茶げたショートカットの少女がそこに立っていた。少女も智弥の顔を見ると一度驚いた様に目を丸くして笑った。
「あの時はお世話になりました」
彼女がにこやかに頭を下げると、智弥は困っていた。
「いや、助けたのは祐で、僕は何も……」
「あの子、祐って言うの? 素敵な名前ね。私は西城 美奈。宜しくね」
美奈がそう言って握手を求めた。智弥も右手を差し出すと、小柄な女の子の手に触れて少し恥ずかしかった。
「僕は鳴神 智弥」
名前を聞いて美奈は再び目を丸くした。
「時仁さんの息子さんの? 話は聞いてます。どうぞ」
そう言って美奈は踵を返した。玉砂利の敷き詰められた庭を横切り、社の横を通って裏にある蔵へ案内された。蔵の扉は開いていて、その奥に真っ暗な闇が燻っていた。
祐を人間に戻す手掛かりはないだろうかと父に相談したのは、祐を連れ戻すのに失敗したその日だった。出来ることなら普通の兄弟に戻りたかった。
「あの呪詛って何なの?」
智弥の質問に父は深い溜息を吐いた。
「まあ、いずれは話さなければならないとは思っておったがのう……この地域に伝わっておる鬼伝説は智弥も知っておろう?」
「確か、疫病を流行らせたり、水害を起こしたり、悪逆非道の限りを尽くした鬼が、討ち取られたって話しでしょう?」
智弥が思い出しながら話すと、父は頷いてみせた。
「それがの、山を隔てて反対側、つまり北側の里には全く別の伝承が残っておるのじゃよ」
「は?」
「呪術の鬼才と呼ばれ、どんな願いも叶えたと聞く。山の南側から生贄として差し出された人々を里に住まわせたり、戦から里を守ったとされておる。最期は、人身御供として差し出された姫君が、鬼に叶える事のできない願いを請うたが為に蒸発しておる」
智弥はそれを聞いて腕を組んだ。
「別人みたいだね」
「まあ、そうかもしれんな。鬼は屋敷に封じられておって、その封印が解けない様に見張るのが鳴神家の務めじゃった。その鬼が復活を目論むのに、今まで自分を抑えて来た一族を呪うのはまあ、当然といえば当然じゃろう。その上、智弥は呪術の扱いが下手じゃから格好の餌食じゃったんじゃろうのう」
まるで他人事のような物言いに少し腹が立った。
「それで、僕の呪詛を肩代わりした祐を十年も放置ってわけ」
「別にこの十年、何もしなかったわけではないわい。ただまあ、向こうの方が数倍呪術の腕が上じゃからの、何をしても歯が立たなかったことは否めない。祐も記憶を無くしておったし……」
父が遠い目をしていた。
「どうにかして人に戻せないかな?」
智弥の言葉に父は嫌悪の表情を見せた。
「お前の中途半端な呪詛を解いてやればあの子は完全に鬼に呑まれてしまうじゃろう。かと言って智弥から移した呪詛を先に解けば式神化が進んでしまう。もう詰んどるんじゃよ」
「両方の呪詛を同時に解けば?」
智弥の言葉に父は眉根を寄せた。
「身体に張り付いておった期間が長すぎて、剥がしてもまた戻ろうとするじゃろう。開いた穴を塞ぐのも同時にせねばならん。それに、剥がした呪詛は智弥、お前の所へ移ることになる。じゃからあの子は、それをしてこなかったんじゃよ。十年前あの子は、呪詛を身体に宿したまま死ぬつもりでおったんじゃ。それをクレハが……」
言いかけて、言葉を濁した。智弥は何故、クレハの名前が出てきたのか分からなかった。
「いや、まあ兎に角、家のことについて調べるのなら左近の神社に行くといい。儂が屋敷を畳むつもりでいた折、屋敷にあった文献の殆どはそっちへ移したんじゃ」
智弥の脳裏に、屋敷にあった小さな社が思い起こされた。
「それって、家にあった右近の社と何か関係があるの?」
「まあ、そういうことじゃ。先方には電話しておくから、行ってみるといい」
そう言われて調べてみると、ここだったと言うわけだ。
「あれ? もう帰っちゃったのかな」
美奈が電気を付けると、裸電球が暗い蔵の中を照らし出す。そこここに積まれた本や、大小様々な箱が厳かに整列していた。
「帰った?」
「さっき話してた祐くん、朝一に訪ねて来て、さっきまで蔵に居たの」
そう言われて外に視線を飛ばしたが、人の姿はない。
「誰か来たみたいって言われて、神社の方を見に行ったら智弥くんが居て……ちょっとびっくりしちゃった。蔵の中はあの天窓しか無いから」
美奈の指し示した先に、高い位置に設けられた窓が一つあった。観音開きの窓は片側だけ空いているが、蔵の背後に立った楠の枝葉と、その向こうに青い空が垣間見えた。
弟には離れた場所を見通す天眼と呼ばれる能力があることを智弥は知っていた。だから、この閉ざされた空間に居ても外に居る智弥のことが解ったのだろう。あの子の才能は本当に素晴らしくて嫉妬してしまう。せめて彼の半分程でも自分に力があったならと思ってしまう。けれども彼には、どうやら本気で嫌われてしまっているようだと智弥は肩を落とした。
「うちの神社は今年、千年祭をしたの。橘 真盛と言う人が建てた神社なんだけど、鬼を鎮めて呪いを抑える為に建てられたそうよ」
美奈の話に智弥は首を傾げた。
「鬼の呪い?」
「真盛さん、中々跡継ぎが産まれなかったんですって。この神社を建ててからやっと男の子が生まれたけど、その息子もまた、跡継ぎに困ったそうよ。遠縁から養子を貰っても次々に流行病で亡くなり、結局橘の家は断絶してしまったんだけど、それを鬼の呪いと思ってたんでしょうね」
まあ、単なる偶然だとは思うが、何故、それを鬼の呪いだと思ったのだろう?
「鬼は関係ないんじゃないかな?」
「鬼を創り出したのが真盛さんだと伝わっているの」
成程……と思ったが
「自分が創り出した鬼に呪われるなんてなんか間抜けだね」
智弥の言葉に美奈は少し笑った。
「呪われてなんかなかったと思うのにね」
美奈はそう言うと、一つ木箱を出して蓋を開けた。色褪せて襤褸になった手紙が一枚入っている。手紙を開いたが、虫食いが酷くて読めない。
「鬼が行方不明になってから、真盛さんは相当悔やんだそうよ。
後の世の子らよ、どうかあの憐れな鬼が再び目覚めることの無きよう、ずっと傍にいてやってくれ。
そう書いてあるの」
「……後の世の子ら? でも、橘家は……」
「そう、橘家は断絶したけど、どうも真盛さんの息子さん、双子だったみたいなの」
「?」
「双子の片方を、鬼の屋敷に生贄として差し出したらしいの」
それを聴いて、一気に悪寒がした。
「その生贄として差し出した真盛さんの子供の子孫が、屋敷を代々引き継ぐ鳴神家になったと伝わっているの。皮肉なことよね。もしも差し出した双子が違っていたなら、橘家は今も続いていたでしょうにね」
「僕たちは、産まれながらに鬼への生贄だったってこと……?」
智弥が問うと、美奈は首を傾げた。
「鬼なんていないよ」
何も知らない美奈に説明するのを渋った。
「……そうだね」
「可哀相な人だったと聞いているわ。実の父親から虐待を受けて、母親は早くに亡くなってしまったそうなの。父親が亡くなってからは真盛さんが面倒を見ていたらしいけど、優しいばかりに他人の病や呪詛をその身に移して周ったそうよ」
聞いたことのない話に智弥は目を丸くした。
「ただ、自らの私欲の為に生贄を差し出した者にはその病や呪詛を移して周ったらしいの。南側の人は礼を尽くせば礼で返してくれることを知っていたのね。だから鬼が優しい里の守り神として伝わったけれども、北側の人はそれが分からず、私欲の為に利用しようとしたのを見透かされたのよ」
「成程。それで二つの伝承が残ったのか……」
「結局、最期は生贄として南側から差し出された姫君の願いを叶えられなくて、それで蒸発してしまったそうよ。討ち取られたとか病死したって話はもっと後になってから広まった噂みたい」
「その、鬼に叶えられない願いって?」
「それは伝わってないけれど、その願いの為に怒りを買った姫は鬼に殺されたと伝わっているわ」
はたと首を傾げた。心の奥底で嫌な予感がした。
「その鬼は、人だった?」
恐る恐る聞くと、美奈は微笑した。
「元は真盛さんの弟さんだったらしいよ。その弟を、式神として使役していたんですって」
なかなか面白い話しだよね。と話す美奈の言葉に目眩がしそうになった。自分は千年前の真盛と同じ事をしたのだ。
「鬼を、人に戻す方法は無いかな?」
智弥の言葉に美奈は首を傾げた。
「物語の中では、最期は行方不明になって終わってしまうから分からないけど……」
何故、そんなことを聞くのかと言いたげな美奈の瞳から目をそらした。
「……よく分からないけど、鬼なんていないよ?」
美奈が不思議そうに言うと、智弥は軽く頷いてみせた。
「……そうだね」
少し複雑な面持ちでそう言うと、美奈は息を吐いた。
「私には霊とか妖かしを視ることが出来ないからそう思うけど……本当にこの人が鬼に変えられてしまったのだとしたら、人に戻すことも出来るよね」
微笑んでそう言う美奈に智弥は頷いた。急に雨が降り出して二人は入り口を見た。激しい雨が、屋根を叩き割りそうな程の怒号を鳴らしている。智弥はその雨を見つめながら祐のことを考えていた。
雨の音に驚いて橋本 春香は外に出た。天気予報では一日晴れだったので外に洗濯物を干していたのだが、気付いた時には遅かった。今日はパートは休みだし、一人息子も遊びに行ってしまってうたた寝していた。雨水をしっかりと吸い込んだ洗濯物を籠に入れるとそのまま勝手口から家に入って溜息を吐いた。
「……まあいいか」
もう一度洗濯を……と思ったが、面倒臭がりが顔を出した。脱水にだけかけて、乾燥機に放り込もう。そう考えて洗濯機へ濡れた服を放り込んだ。脱水ボタンを押して洗濯機が動き出すのを確認する。玄関の呼び鈴の音に気付くと、濡れた髪をタオルで拭きながら玄関へ向かった。
「はーい」
宅配便か、回覧板か……そう考えながら玄関を開けた。息子と同い年の明神がそこに立っているのを見て思わず目を丸くする。自分の髪を拭いていたタオルを彼の頭へ被せると腕を引いて土間に招き入れた。
「何やってるのよ! 風邪ひいちゃうでしょう?!」
怒鳴りながら少し手荒く頭を拭いた。すっかり雨に濡れてしまっていて、パーカーもズボンも水を含んでいる。
「お風呂入って行きなさい。直ぐに沸かすから!」
踵を返そうとしたその時彼が声を上げた。
「直ぐに帰るからいい」
「直ぐにって……」
「顔見に来ただけだから」
明神の言葉に春香は玄関の上がり端に座り込んだ。
「……何かあった?」
「兄貴に会った」
春香はそれを聞いて安心したように笑った。
「そう。迎えに来てくれたのね。良かった。じゃあこれからはお兄ちゃんと一緒に暮らすのね? お父さんは元気?」
春香の言葉に明神は黙って目を細めた。その様子に春香は首を傾げる。
「どうしたの?」
「前に、養子にならないかって言ってくれただろ?」
「だって、一人暮らししてるって聞いたから……」
「俺が人の道に外れるようなことをしたとしても同じように言える?」
明神の言葉に春香は呆れたように溜息を吐いた。
「明神くんがそんなことするような子じゃないっておばさん分かってるわよ?」
彼の瞳が一瞬だけ碧く光ったように見えた。たまにそう見えることがあるのを知っている。多分、光の加減か何かなのだろう。
「……そうか」
「何? 智弥くんと喧嘩したの? 十年ぶりでしょ? まあ兄弟なんだから喧嘩くらいするんだろうけど……十年分喧嘩したら、十年分仲直りして、十年分甘えてやりなさいよ」
きっと感動の再会だったのだろうと思っていたのだが、色々と葛藤もあるのだろう。春香が明神の表情を伺うが、相変わらずの無表情だ。
「遠くへ行くことになったんだ」
「屋敷を出ていくのね。それが良いわ。今度こそお父さんとお兄ちゃんと一緒に暮らすのよ? 喧嘩したらいつでも来て良いから」
「いつでも来れる距離じゃない」
「そう。じゃあ、落ち着いたら手紙書いて。写真も送るのよ? 明神くんと、お兄ちゃんと、お父さんと三人が映った写真!」
春香は興奮気味にそう言った。明神のことはずっと気にかけていたので、それこそ家族に会えて、一緒に暮らせるのならこれ以上ない嬉しさだった。
「じゃあ、お別れ会するから今夜来なさいよ」
「悪い。もう行くから」
明神はタオルを取ると丁寧に畳んで春香に差し出した。春香は困ったようにタオルを受け取る。
「直人、遊びに行ってて……」
「あいつに会うと煩いからいい。二人共元気でな」
玄関ドアを開ける明神の姿が何故か霞んで見えた。
「明神くん!」
振り返った彼の顔が何処か寂しそうだった。それは長年お付き合いして来た橋本親子との別れが寂しいと思ってくれたからだろうと春香は思った。
「今度こそ幸せになるのよ」
春香の言葉に明神は目を細めた。
「幸せだったよ。少なくとも、あんたと直人が居てくれたから」
「幸せだったら笑うのよ、普通。でも、そう思っててくれてたなら良かった」
春香が笑うが、明神の表情は変わらなかった。そのまま外へ出て行き、ドアが閉まりかけた時に春香は雨を思い出して傘に手を伸ばした。
「待って! 傘持って行きなさい!」
靴箱横に立て掛けた傘を引っ手繰ると閉まりかけたドアを押し開けた。ドアを開けると激しい雨が降り注いでいる。春香は周りを見回したが、明神の姿は既に無かった。
椚の森に立って雨を眺めていた。悔しさと悲しみが止め処なく溢れてくる。木々の間から見える里の景色の中に、通い慣れた学校が小さく目の端に映った。
「まあ……許せないよな」
自分の中の鬼に向って呟くと、左瞳が碧く輝いた。
「この世に自分を産み落とした母が憎いのは解る。父親に愛されなくて恨むのも、同じ兄弟でありながら兄貴だけが普通に恵まれた人生を歩むことに嫉妬するのも分かる。けど、だからって、兄貴の子孫に取り憑いて代々苦しめて良い理由にはならないだろう?」
明神がそう言って目を閉じると、真っ暗な闇の中に白髪碧眼の男が立っていた。
「苦しいか?」
「家族に執着しているから、屋敷から出て行こうとしたのが気にいらなかったんだろ?」
彼の瞳が一度空へ注がれた。
「……そうなんだろうな」
まるで他人事のように言われ、苛立った。
「何なんだよ」
「父親と智弥を連れておいで。君は空へ帰るといい」
「何を言って……」
「本来は、それで呪詛の封印がうまく行く筈だった。智弥は呪詛の抑えが出来ないからお前の命を代償に封印をし直す予定でお前を世に送り出した。そうすれば智弥は鬼にならなくて済む。お前が死ねば、智弥は自分のせいで弟が生贄になったと思って屋敷に留まるだろう。それで今迄通り、封印が上手く行く筈だった。その為に、お前に私の力の殆どを充てがってやったのに、女は怖いな。土壇場になってクレハがお前の母を結界の中へ追いやった」
脳裏に、母の顔が浮かんだ。
「それさえ無ければお前の母親は死なずに済んだ。お前が情に流されて封印を失敗することも、その身に呪詛を封印したまま十年も一人でここに留まることも無かった」
男の瞳が一瞬だけ光を放った。動揺した明神の心に男の視線が突き刺さる。
「お前の望みは何だ?」
土砂降りの音に驚いて百合は思わずその場に立ち尽くした。外を見ると滝の様な雨が降っている。クレハもそれに気付いてくれ縁に出ると窓を閉めた。
「嫌ね。雨だなんて……」
「私は雨も好きですよ」
百合がにこりと笑うとクレハも笑みを浮かべた。
「今日はこのくらいにしましょう」
百合はそれを聞いて驚いたように目を丸くする。持っていた銀の沈折り扇子を閉じた。
「あの、私がちゃんと出来ないからですか?」
「違います」
今迄、日本舞踊の型を教えて貰っていたのだが、雨の音で急に止めると言われて少し戸惑った。
「雨だと気が滅入ってしまいますからね。お化粧の勉強をしましょう」
クレハがそう言って黒い風呂敷に包まれた化粧箱を押入れから出した。百合はそれを聞いて目を輝かせて座り込む。
「お化粧をしたことは?」
「無いです!」
きっぱりと宣言するとクレハは肩を震わせて笑った。素直で宜しい。と小さく呟く。
「まだ若いうちは紅を点すくらいで充分ですけどね」
そう言って小さな丸い蓋付きの器を出して見せた。丸い器は桃色で、蓋には小さな花が描かれている。
「これが小町紅よ」
「小町紅?」
聞き馴染みのない言葉に百合は首を傾げた。クレハが蓋を開けると、器の内側が綺麗な玉虫色になっている。けれども、これが紅だと言われても想像がつかない。
「紅は純度が高いと緑色になるのよ。私はもう何年もこれを愛用しているの。点ける人によって、肌馴染みの良い色に発色してくれるのよ」
小瓶の蓋を取り、細い化粧筆の先を小瓶の中へ差し込んだ。小瓶の中身は水だ。水を含んだ熊野筆の先で小町紅をなぞると、玉虫色の紅が水を含んだ所だけ鮮やかな赤に変わった。
「すごい。魔法みたい」
百合の言葉にクレハは少し笑って百合の唇に紅を点した。手鏡を渡され、百合は鏡に映った自分の唇の色を見て少し首を傾げる。確かに塗る時まで紅色だったのに、自分の唇は少し桃色掛かった赤をしている。
「自分に合った色を探すのも楽しいかもしれないけれど、化粧初心者にはこれがお勧めよ。添加物も入っていないから、肌の弱い人向きだしね。ただ、これを造れる職人がもう二人しか居ないってことだけが少し残念だけれどね」
クレハはそう言うと、器の蓋を閉じて百合に差し出した。
「あげるわ。一昨日東京へ買いに行ったものなの」
「ええ? そんな……良いんですか?」
「紅の赤はね。魔除けの色なのよ。御守り代わりに持っていなさい」
百合の手を取って器を握らせるとそっと手を離した。百合は貰ったばかりの小町紅とクレハの顔を見比べる。
「貴女がずっとここに居てくれたら私は寂しくないのだけれど……これ以上、人に取り憑くものではないわね」
クレハの表情は何処となく悲しげだった。百合は意味が解らずに首を傾げる。
「十年前にあの子の母親が亡くなったのは私のせいなの。ちゃんと捕まえておけば、彼はここで一人にならずに済んだのにね」
静かに微笑んだが、目には涙を溜めていた。
「……よく分からないですけど、明神くんはきっとそう思ってないですよ」
二人の仲の良さは知っているつもりだった。初めて会った時の掛け合いから、明神がクレハを恨んでいないことが伺える。百合の言葉にクレハは笑った。化粧箱を片付けると百合に向き直って両手を畳の上に揃えた。
「それでは、本日はここまで」
クレハが頭を下げると百合も畳に手をついて頭を下げた。
「ありがとうございました」
百合が頭を上げると、クレハが満足そうに笑みを浮かべる。百合がいつものように着替えようとすると、いつの間にかクレハの姿が消えていた。
「?」
帰ってしまったのだろうかと考えてくれ縁を覗くと玄関の引き戸の音がした。見送りに出るつもりで玄関へ向かったが、もう誰もいない。けれども、濡れた運動靴が揃えて置いてあって、明神が帰って来たのだと思った。
一人暮らしでも脱いだ靴をきちんと揃えて置く所が几帳面な人だと思う。ただ、表情が乏しい為に誤解されやすい人だ。楽しいと思っても表情に出ないだけかと思っていたが、自分が飛び出して胸に刀が突き刺さった時、彼の表情が変わった。驚きと、恐怖と、怒りと、悲しみと……だから多分、彼は分からなくなっているのだ。自分の気持ちがバラバラになってしまっているのだと思う。
「どうすればいいかな?」
ぽつりと呟くといつの間にか後ろに明神が立っていた。いつから居たのだろうかと思いつつ、彼の表情を伺う。
「おかえり。帰ってたんだね。雨、大丈夫だった?」
いつものなんとなくつまらなそうな顔だった。お風呂から上がったところなのか、髪がまだ少し濡れている。紺色の作務衣から仄かに石鹸の匂いがした。
彼が視線を宙に投げてから再びこちらを一瞥した。何を考えているのだろうかと表情を伺うが変わらない。
「どうしたの?」
彼が何も言わずに居間へ向かうと、百合は首を傾げた。一度立ち止まって振り向いたので、ついてこいと言っているのだろうかと思って彼の後を追う。
「何かあったの?」
偶に、そういう時が彼にはある。初めて会った時もこんな感じだった。鳥の名前を教えてくれた時も……そう考えながら居間に行くと彼は台所に立っていた。百合が座布団を二つ並べてそこに座ると明神がお茶を持ってきた。何も言わないまま明神はお茶を飲んでいる。
「毎日楽しい?」
「うん。今日はね、クレハさんに日本舞踊を教えて貰ったの。それからお化粧をちょっと……」
百合が嬉しそうに話すと明神がそっと百合の頭に手を伸ばした。
「それだけ素直なら何処に出しても構わないわな」
頭を撫でられて百合は少し頬を赤くする。
「明神くんが居てもいいって言ってくれるなら、私はここに居るよ?」
咄嗟に手を引っ込めて顔を背けた彼を見て百合は首を傾げた。
「……お前はずるい女だな」
「そうかな? 明神くんの方がずるいと思うよ?」
百合がはにかんだ様に笑うが、明神の表情は変わらない。
「何か嫌なことでもあった?」
いつもと違った雰囲気から、怒りを抑えきれなくなっているのだろうと思う。私が彼に死にたいと言った時にも、怒りを抑えきれなくなって彼は私の首を締めた。あの時、彼が泣いていたことに気付いていた。私の自分勝手な願いを、叶えてやろうという優しさと、生きていてほしいという彼の思いが伝わった。
「……別に」
「明神くんは頑張り屋さんだから、怒りを抑えすぎて壊れちゃわないか心配だな」
明神は不意に天井を見上げた。
「生贄だった」
百合はその言葉に首を傾げた。
「生まれる前から鬼の生贄としてここに押し留めていた。あったかもしれない外の世界での幸せを夢見てここに一人で居るのは憐れなものだな」
「……明神くん?」
話が掴めなくて首を傾げた。真っ直ぐにこちらを一瞥した瞳が碧く光っていた。
「この男は鬼に呑まれた。もうこの屋敷からは出られない」
やっと、いつもの彼ではないのだと百合は理解した。
「綺麗」
思わず彼の頬に触れた。宝石を嵌め込んだような碧い瞳を見つめると、彼の表情が一瞬歪んだ。それに気付いて咄嗟に手を離した。
「ごめん……でも、生贄って?」
「鬼への生贄。それが居ないと山を下りて人に災いを招くから、鬼を押し留めておく贄が必要なんだ。この子は自らの身体に鬼を封じていて、その呪詛に染まってしまっているから自分の意志で外へ出ることはもう出来ないのだよ」
「じゃあ、私もここに居るよ」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「ここに置いて貰えたら嬉しいな」
「この屋敷から出られなくなっても?」
「ここなら本も沢山あるし、色んなお花も咲いてるし……明神くんが居てくれるなら私は平気だよ?」
百合は楽しげに話していたのだが、彼の表情は変わらない。
「……外の世界の方が色々なものがあって楽しかろう」
「それは明神くんも同じでしょう? 私はずっと、明神くんの傍に居るよ」
「そうか、お前にはこの子が、お前と同じ人間に見えるのか」
宙空を見つめた瞳が元に戻る。明神の睨むような目に百合は身を竦めた。
「俺がお前をそういう風にしてしまったというのなら責任は俺にある。好きなことだけやっていれば楽しいかもしれないが、お前を飼い殺しにしたくない」
「そういう難しいことを言われると困るんだけどな。出て行けって言われても帰る所が無いからここに居たい。施設に行くのはなんとなく嫌だし……」
百合がはにかんだように言うと、明神は溜息を吐いた。
「お前の本当の両親が見つかった」
明神の急な話に戸惑った。
「え?」
「逸れてからずっと向こうも探していたらしい」
嬉しさと不安から思わず身体が小刻みに震えた。本当の両親など、顔も名前も知らない。どんな人たちかも分からなかった。
「優しそうな両親だったから、俺も安心してお前を送り出そうと思う。勿論、身体は普通の人間に戻してからになるけれど」
「明神くんはどうなるの?」
百合の問いに明神は瞳を宙に投げた。
「俺の心配はしなくていい」
一蹴され、百合は俯いた。自分が着ている濃い桃色の桜小紋の柄を眺めた。
「遊びに来てもいい?」
「ここでの思い出は置いて行って貰いたい」
「じゃあ、私行かない」
明神が困ったように百合を見据えた。百合はその表情に居心地の悪さを覚える。
「このままがいい。身体も元に戻さなくていい。このまま……」
我儘だと言うことは分かっていた。彼が必死に手を尽くして見つけてくれた両親との再会を蹴る事は申し訳ないとは思う。けれどもその為にここでの楽しい記憶を失うのがどうしても我慢できなかった。
「楽しい思い出なら、これから幾らでも作っていけばいいだろ? 勉強したことを忘れるわけじゃないから、そんなに悲観する必要ない」
「明神くんを好きだったことは忘れてしまうんでしょ?」
「それくらい置いて行ってくれたって良いだろう?」
「よくない!」
「俺はそれが欲しいんだ」
百合は首を傾げた。
「お前の気持ちだけ、置いて行って欲しい。それだけで充分だから」
何を言っても、彼の心はもう決まっているのだと思うと居た堪れなかった。
「酷い……」
「俺の最期の頼みと思って了承してもらいたい」
「嫌だ!」
「俺に、お前に本来あったはずの幸せを奪った罪悪感を背負って生きろと言うのか?」
百合が口籠る。必死に涙を堪らえようとしたが、止め処なく溢れた。
「お前の恋愛を成就させてやれないことだけが心残りだが、お前を枯れない花にしておけない。俺が手放したことを後悔するくらい良い女になって、俺の分まで幸せになってほしい」
「幸せって何? 大好きな人のことを忘れることが幸せなの? だったら私は一生不幸でいい」
「花は一頭の蝶の為に花を咲かせるわけではないだろう。俺よりもいい男なら外に幾らでも居る。態々虫籠の中の蝶を眺める必要は無い。だから、蝶になって翔び立つことを許せ」
諦めて他の男と恋愛しろと言うことらしい。彼の気持ちが翔び立つ蝶のように離れているのだと思うと、これ以上我儘を言うのも情けなかった。
「私のことが嫌になったの?」
「……お前を幸せにしてやれない自分が嫌になった。だからこれ以上、俺に自分を嫌いにさせないでほしい。俺は自己満足の為にお前の気持ちを踏み躙る酷い男なんだ」
「そんなことない」
百合は明神に手を伸ばすとそっと頭を撫でた。
「大好きだよ。だから私が好きになった明神くんを嫌いにならないで」
突然、抱きしめられて百合は顔を赤くした。小刻みに震える明神の背中に手を伸ばすと、泣いているのかと思ってそっと擦る。
「私、明神くんのことを忘れても、きっとまた思い出してここに戻ってくるから、そしたら、ずっとここに置いてくれる? 獅子と牡丹みたいに……」
声は聞こえなかったが、明神が首を横に振るのが分かった。何故か急に眠気に襲われて瞼が重くなる。
「私、明神くんと一緒に生きていたいなぁ……」
目の前が真っ暗になる。何も見えないが、か細い彼の声が耳に残った。
「好きで居てくれてありがとう」
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