第6話 人形
鳴神 智弥は昔のことを思い出していた。
遊園地へ行く当日に熱を出したのは智弥だった。血の繋がらない新しい母が心配する声と弟が我儘を言う声が階下から聞こえる。
「にーちゃんと行く〜!!」
「お兄ちゃんはお熱があるんだから……」
ずっと楽しみにしていたのに残念な気持ちと、申し訳ない気持ちとが綯い交ぜになる。茶色い天井を見つめながらじっと家族の会話に耳をすませた。僕だけを置いて行ったりはしないだろう。折角の家族旅行を台無しにしてしまったが、当然のように皆が居てくれると思っていた。
「橋本さんとこと一緒に行っておいで。あそこなら直人くんが同い年だからいい伽になるだろう」
弟も楽しみにしていたことを知っていた父が提案した。それを聞いた時、弟だけ特別扱いを受けているんじゃないかと嫉妬に似た感情が湧く。自分も行きたかった。なのに自分は置いていかれて、弟だけ遊びに行くだなんて理不尽じゃないかと思った。
「たまにはいいじゃないか。行っておいで」
「でも……」
「今のうちに家の片付けもしておきたい。子供が居たら捗らないから行ってきなさい」
今度、引っ越すのだと言っていた。というのも僕がちゃんと呪術を上手に扱えないからだ。この屋敷には鬼が居て、それを封印している。それを抑える為に代々屋敷を引き継いで来たらしいが、僕にはそれが出来る程の力が無かった。身体が弱くて呪術を使えば反動で直ぐ疲れてしまう。だから父はこの家を出て行こうとしていた。その為の準備に少し時間がかかるとも言っていた。
弟の声が聞こえなくなったので行ってしまったのだろう。すごく寂しかった。布団の中で悔し涙を拭う。
僕がちゃんと出来ないから……
僕はこの家が好きだった。外に出れば直ぐに山で、秘密基地だって作った。虫取りもしたし、夏には縁側で蛍を捕まえた。沢山の思い出が詰まっていた。それなのに、自分のせいでここを出なければいけないことが悔しかった。
ある時、父に式神の作り方を教えて貰っていた。昼寝から目覚めた弟がやってきて、眠気眼のまま片言で話しかけてくる。
「にーちゃ、あーそーぼー」
何も知らないで話しかけてくる弟が鬱陶しかった。
「ごめんな、お兄ちゃん今、忙しいから後でのぅ……」
父にそう言われて不貞腐れた弟が床に散らばった紙の人形に目を向けた。
「けちー」
「あっちに行ってなさい。クレハ、頼む」
屋敷に昔から住んでいる女の式神が来て弟を抱きかかえた。僕は呪文を唱えて紙に息を吹きかける。その紙が蝶の様に羽ばたいて舞うが、直ぐに力尽きて落ちてきた。それを見た弟が目を輝かせた。
「すごーい! ぼくもやるー!」
無邪気にそう言ってクレハの腕をすり抜けた弟が、床に散らばった紙を両手でガサガサと触る。
「こら、いたずらは……」
父が止めようとしたその時、弟が触った紙が全部宙に浮いた。十枚程の紙の人形が蝶の様に羽ばたいて舞う。
「わーい! 僕にも出来たー!」
嬉しそうにはしゃぐ弟の姿に唇を噛み締めた。まだ呪文も知らないはずの弟の才能に嫉妬した。
「やめなさい」
父が珍しく怒って弟の頭を叩いた。羽ばたいていた紙が全部床に落ちる。クレハが慌てて抱き上げるが、弟が声を上げて泣くと急に雨が降った。屋根瓦を激しく叩く雨の音が弟の泣き声と呼応する。よくある事だった。弟が笑うと晴れ、泣くと雨が降る。不貞腐れると曇りになるし、怒ると雷が鳴る。クレハが頭を下げ、弟を連れて部屋を出て行く。父の拳が震えていた。父は面と向かって言わなかったが、きっと僕を見限ったのだろう。言いしれない不安と、弟の才能への嫉妬と憎しみが僕を襲う。
山を散策している時に古い刀を見つけた。錆びついてもう木の枝みたいになっていた。それを手にした時、悪いことを思いついた。
弟を式神にできないだろうか?
あいつの方が才能がある。だから自分の式神にしてしまえば、自分の命令に従ってくれる。そうすればお父さんも僕のことを認めてくれて、屋敷を出ていかなくて済む。あの煩い泣き声も聞かなくて済むし、何よりもう弟に劣等感を抱かなくて済む。そう思った。
「にーちゃん」
家の奥で弟の声がした。弟の名前を呼び、刀を後ろに隠して玄関で待った。弟が不思議そうな顔をして僕に近づいてくる。
「だ〜れ?」
弟の目には何が映っていたのだろうか? 憎しみと嫉妬に狂った兄を、兄だと識別できなかったのだろうか? 古びていた刀がいつの間にか白銀の光を放っていた。弟の胸に突き刺すと弟が驚いた様な顔をする。
「にーちゃん……」
口の端から赤い血が流れる。白い肌に引き立てられた鮮血が綺麗だった。その時に一瞬だけ、死んでしまうのではないかと不安になった。こいつが死んでしまったら利用出来ないと……こいつが使えないと自分は本当に出来の悪い兄になってしまうと思った。
「祐、僕の式神になって。ずっとここにいて」
「…………」
弟が何か言っているが耳に届かなかった。多分、僕への恨み言を吐いたのだろう。そこで意識が途絶えた。
遠い記憶を探りながら山道を歩いていた。鬱蒼と茂る雑草を縫うように獣道が続いている。椚の森を抜け、見覚えのある姫沙羅の木を横切った。木々が呼吸する様に、白い霧を吐き出していた。一度迷えば、もう山から出られなくなってしまうような、そんな異様な雰囲気が漂っていた。
智弥はどうしても会わなければならないと思っていた。会って、謝って、連れて帰らなければならないと思って山を登った。
「……おかしい」
確かにこの辺りの筈なのに、屋敷に辿り着けなかった。何度も同じ所をぐるぐる周り、いつまで経っても屋敷に辿り着けない。十年前の記憶と言えども、自分が慣れ親しんだ場所を見間違えるはずがなかった。
「祐!」
弟の名前を呼んだ。霧のかかった森の中に自分の声だけが響く。
「祐! 出ておいで! 聞こえているんだろ?!」
悔しかった。どうしてずっと忘れていたのかと……自分のしてしまった罪を忘れ、何も知らずに生きていた自分が情けない。
「祐!」
ふと、霧の中から小柄な少年が現れた。以前会った明神と名乗った男の子だ。紺の作務衣を着た彼の姿が、十年前に最後に自分が見た姿と重なる。
「良かった。やっと会えた」
嬉しくて涙が溢れた。どうして最初に会った時に気づかなかったのだろうと後悔した。十年という歳月をかけて成長こそしているが、その面差しはあの頃のままだった。
「祐、一緒に帰ろう」
表情は変わらないが、左の瞳が碧く輝いていた。静かに首を横に振る姿を見て抵抗しているのだと知る。
「分かってる。祐が怒るのは当然だから謝る。だから一緒に帰ろう。お父さんも待ってる」
十年前に使役したはずの自分の命令に抵抗できるはずがないと思っていたが、やはり自分には才能が無かったのか、術が中途半端になっている。この状態で十年も放置してしまった自分が歯痒い。
「祐、聞いて。君はあの屋敷の本来の跡取りじゃないんだ。父さんも最初から君に継がせる気がなかったから、君は母さんの戸籍に入れられたんだ。だから鳴神の姓じゃない。君が屋敷に留まる理由は無いんだよ」
彼の手には刀が握られていた。あの時の刀だ。自分が弟の胸に刺した十年前の……
「それが……」
やっと弟が口を開いた。智弥はそっと耳を傾ける。
「それが唯一の、俺にとっての家族との繋がりだったとしても?」
自分の良心に彼の言葉が突き刺さった。完全に式神に出来なかったから、人間としての記憶が幾らか残ってしまっていたのだろう。その記憶が、家族への思いを馳せていたのだとしたら、再び使役してでも屋敷から連れ出そうとする自分の行為は間違っているのではないだろうか?
「そんなことない! 君は僕の弟だ!」
そう言いながらも再び使役しようという考えを見透かされたのだろう。それとも十年の間、ずっと憎まれていたのかもしれない。だから彼が刀を振り上げて襲いかかって来た時、受け止めてあげるつもりだった。弟に殺されれば十年前にかけた僕の術が解けるはずだ。そしたら彼は人間に戻れるだろうか? それとも、死んでしまうのだろうか?
「やめて!」
眼の前に少女が現れて刀の切っ先が彼女の身体を貫いた。白いワンピースが赤く染まるが、その血飛沫が赤い花弁に変わる。驚いた顔をした弟が刀を引き抜くと彼女を抱き寄せた。
「祐、その子は……」
彼女の頭に触れようと手を伸ばすと弟が怒鳴った。
「俺の人形に触るな!」
そう言って、自分の言葉に驚いているようだった。
「そうか……ごめんね。君はまだ、人でいたかったんだね」
自分がそうしておいて、憐れだと思った。一方的に式神にして今まで放っておいて、今更また使役しようだなんて図々しいにも程があるだろう。けれども、このまま放っておけば何れ、彼は呪詛に染まって鬼になってしまう。そうなる前に、自分の式神にする必要がある。
「帰れ!」
「祐、一緒に帰ろう」
「お前の元に下るなんて願い下げだ」
成程、もうとっくに兄弟には戻れないことを彼も理解している。
「じゃあ、今日は帰るね。また来るから」
「二度と来るな!」
彼が少女を強く抱いて姿を消すと溜息を吐いた。幼かったとはいえ、自分のしてしまったことに責任を感じる。だから迎えに来た。勿論、弟としてではなく自分の式神として。けれどもあんな状態だと、時期に彼の意識も消えて無くなるだろう。あの不安定な状態で十年も……そう考えるといたたまれなかった。
門を閉めると明神は息を吐いた。怒りと悔しさが綯い交ぜになって身体が震える。彼女の身体を抱きしめて部屋に寝かせると様子を伺った。涙を流し、辛そうな表情を浮かべている。白いワンピースに、赤い牡丹の刺繍を施した様に血が広がっている。血は既に止まり、傷口も塞がっていた。
「なんであんなことしたんだ! 自分のことを大事にしろってあれだけ言ったのになんで俺の言うことが聞けないんだ!」
人形のくせに……とまた言いかけて言葉を飲み込む。そんな風に彼女を見ていた自分が嫌だった。自分の言葉がどれ程彼女の心を傷付けてしまっただろうかと考えただけで耐えられなくなる。自分のせいで彼女をこんな身体にしてしまったのに、物と同じ扱いをしていた自分に気付いてしまった。
「……ごめんね」
彼女の言葉に苛立った。謝ってほしいわけじゃない。
「お前、自分が何をしたのか解っているのか? その身体でなければ即死だぞ。謝るくらいなら最初からするな」
「うん……」
痛みが引いて来たのか、百合は少し笑った。
「本当に刺さるとは思ってなかった」
まるで他人事のように笑う百合に腹が立った。
「刃物で刺されて、刺した相手を目の前にして何で笑っていられるんだ!」
自分が彼女を傷付けたのに、彼女に怒りをぶつけるのは間違っている。そう思うが、どうしても自分の中の怒りを抑えられなかった。
「明神くんの方が苦しそうだよ?」
百合の言葉に呆然とした。自分が罪を犯していながら、被害者ぶるのは間違っている。だから何もかも許すように笑いかけて欲しくなかった。怒りに任せて責め苛んでくれた方がずっとましだった。
百合は起き上がるとその場に座り直した。赤い牡丹柄のワンピースが痛々しい。
「悪役買って出るのもうやめよう? 明神くん、私に言ったよね? 自分を傷つけるなって。なのにどうして明神くんは自分で自分を傷つけるの?」
「煩い……」
責める気がないのなら何も喋ってほしくなかった。怒って当然なのに、こんな状況でも笑みを浮かべる彼女に焦燥する。
「知ってたよ? 明神くんが私のことをお人形さんみたいに大事にしてくれていること」
否定出来なくて何も言えなかった。大事にしたい気持ちはある。でも、結局は自分が作った式神と同じで、人間としてどう接してやれば正解なのか分からない。
「どうせ笑ってたんだろ。人間らしい生き方に憧れていながらそれがどういうものなのか全く分かってない。自分が人間じゃないことすら気づいてない。最初から生まれて来なければ良かったのに……」
自分を産み落とした母への恨みと、捨てて行った父への憎しみと、中途半端に式神にした兄への怨嗟が纏わりついて離れない。
「そんな風に思ってないよ!」
「黙れ!」
智弥は俺の本名を知っている。また呪詛をかけて使役するつもりなのは間違いない。だからその前に先に殺しておく必要があった。
「狛、あいつを……」
殺してこいと言うつもりだった。彼女が咄嗟に近付いて口を塞ぐように口づけをした時、一瞬何をされたのか分からなかった。震える彼女の身体を突き放した時、頭の中で幼い頃に自分が言った言葉と彼女の声が重なった。
「大好きだよ」
遊園地から帰ると、智弥は自分の部屋で眠っていた。父が智弥の部屋の前で呪い除けの作業をしているが、それは智弥が生まれてから彼がずっとやっていたことだった。それを知っていたから、智弥は父に愛されているのだと思った。
「ねえ、にーちゃんどうなるの?」
遊園地で買ったお揃いのキーホルダーを片手に訪ねた。父はそっと目を伏せる。
「お前は何も心配しなくていい。お母さんの所に居なさい」
心配している自分を思って言ったのは分かった。だから多分、自分も父に愛されているのだろう。
「にーちゃんの呪いを解いてあげようか?」
父の目が希望と絶望の色で混沌とする。近々この世を去らなければならないと解っていた。その代わりに不思議な能力を授かっていることも知っていた。だから自分に出来ることなら何でもしたかった。この家族が大好きだったから、自分がいなくなった後も幸せでいてほしかった。
「二度とそんなことを言うな」
激しく頭を叩かれた。嬉しさと切なさが入り交じる。父に抱きかかえられて一階へ下りると、夕餉の支度をしている母の元へ連れて行かれた。
父は僕に何も教えなかった。家のことも、呪術の使い方も。次男坊なんだから当然なんだろうけど、家族なのに蚊帳の外に出されている疎外感もあった。けれどもそれは、普通の人間として生きてほしいという父の願いでもあったことを知っている。長生きして、僕の結婚式を見るのが夢だなんて言うものだからまだ三歳の僕は可笑しかった。
あの日、引っ越しの当日だった。家から荷物を運び出していた。アルバムも、子供服も、春から通う幼稚園バッグも……父と母が忙しそうにくるくる回って家の中が片付いていく。くれ縁に座って藤の花を眺めながらその作業が終わるのを待っていた。
「祐〜」
兄の声で立ち上がった。
「にーちゃん?」
遊びに行ってしまった兄が帰って来たのだ。今度は一緒に遊んでくれるかな?
刀を持った兄を見た時、呪詛に染まっているのだと気付いた。
「だ〜れ?」
兄の目は虚ろだった。どう見てもいつもの兄ではない。刀で胸を突き刺された時、兄を守ってやらなければならないと思った。
「にーちゃん……大好きだよ」
兄にかけられた呪いを自分に移し、そのまま呪いと一緒に死ぬつもりだった。その刹那、荷物を取りに戻って来た母が事の次第に気付いて子供に近付く。
「やめて!」
母の声で一気に迷いが吹き上がった。兄から移した呪詛が、自分を侵食していくのが解る。
どうして僕が死ななきゃいけないの? 呪いを受けたのはにーちゃんなのに、にーちゃんが死ねばいいじゃん。どうして……
「生きて!」
幼い自分を抱き締める母を諌めようとした。母にも父にも兄にも生きていてほしい。たとえその家族の輪に自分が居なかったとしても、生きていれば楽しいことや幸せなことなど幾らでもあることを知っている。
「お母さん、大好きだよ」
「死なないで!」
母の願いに縋り付きたくなる自分が情けない。もう少し生きたかったと、もっと母に甘えたかったと幼い自分が叫ぶ。
「母の言うことが聞けないのですか?」
それはあまりにも残酷な願いだった。寿命が尽きかけているのに、生きる屍としてこの世に留まった所で意味などないだろう。不意に、自分の傍に誰かが立っている気配がした。母もしっかりと僕を抱いたまま視線を向ける。
「人の子よ、私を困らせないでおくれ」
青年の声だった。長い白髪が眼の前を掠めた。
「この子はそなたの腹の石も持ってい出たのだよ。また子供なら作れば良かろう。初めてそなたに会った時に言ったはずだ。この子は長生きせぬと……生まれながらの贄だと。誰かの為にその身に呪詛を移してこの世を去ろうとしているのだから、見送ってあげなさい。留めれば留めただけこの子が呪詛に染まって苦しむだけよ」
「あなたは酷い人ね」
母の目から大粒の涙が溢れていた。
「お腹を痛めた我が子が死にゆく様をただ眺めていろと言うのですか?」
「まあそれが、鬼と呼ばれる由縁なのだろう」
ゆっくりと瞬きを繰り返す度に産まれてからの楽しい日々が脳裏を過る。この世への未練から母に縋り付いた。
「私の命をあげるから生きなさい」
母の言葉に子供は首を横に振った。
「僕、おかあさんもおとうさんもにーちゃんもみんな一緒がいい」
「じゃあ皆で死のう」
それにも首を縦に振らなかった。もうどうすればいいのか解らない。
「罪作りなことを……」
「この子はもう私の息子です! あなたの贄じゃない」
「そうか……なら、我が子が呪詛に侵されて苦しむ様を見ずに済むのがせめてもの慈悲と思え」
母はしっかりと子供を抱きしめた。
「祐、大好きよ」
優しい母の声が途絶えた。途端に母の心臓が破裂し、子供の胸の傷が塞がる。いつの間にか青年の気配は消えていた。父が気付いた時にはもう手遅れだった。
「なんてことを……」
失敗した。失敗してしまった。この命に執着してしまったが為に母の命を奪ってしまった。その罪悪感から放心状態だった。父が気を失った兄を抱え上げるのを見守ったが、落ちていた刀に手を伸ばした。
「渡しなさい」
父が驚いて左手を差し出した。刀の持ち手部分を握るだけで掌が焼け爛れる。それを振り上げると父の左腕を切り裂いた。
「祐! やめなさい!」
「出て行って。にーちゃん連れて逃げて!」
行かないでほしいという気持ちを押し殺した。父が何度も振り返りながら門へ向う。
「祐、お前も一緒に行こう!」
父の言葉が嬉しかった。自分も連れて行ってくれるのかと……その言葉に縋り付きたい自分を止める。
「僕は行けない。僕が今、出て行けばまた呪いがにーちゃんに戻ってしまう」
「そんなこと、お前はまだ子供なんだから考えなくて良いんだ!」
「にーちゃんがちゃんと命令してくれたら今度こそ上手に出来るよ」
「そんなことをしたら祐の意識が消えてしまう」
父が泣きながらその場に蹲った。
「どちらもわしの息子なんじゃよ……」
父の嘆きに手を差し伸べかけたが思い留まった。
「おとーさん、僕のおかあさんのこと愛してた?」
その言葉で父が顔を上げる。
「勿論! 智弥も祐も愛してる!」
父の真っ直ぐな眼差しが好きだった。それを聞いてにこりと笑う。
「その言葉だけで僕は十分すぎるほど幸せだよ。だから、にーちゃんのこと頼むね」
再び刀を振り上げると、父が見捩りする。門の外へ父が出ると自ら扉を閉めた。
門の外から父が何度も扉を叩く音がする。
「祐! 祐を帰してくれ! どうして……」
屋敷の周りに結界を張ると父の声が聞こえなくなった。何の音も無くなると頬を涙が伝う。
「やだ……行かないで! おとーさん、にーちゃん……」
兄から移した呪詛のせいで悲しみが怒りへと変わっていく。どれだけの間そこで声を上げて泣いていたのか分からない程泣き続けて、やがて意識も記憶も混濁していった。
記憶が戻ると彼女を抱き締めていた。彼女の心臓の鼓動が自分のと重なる。それが不思議だった。
「明神くん……」
百合の声でそっと身体を離した。顔を真っ赤にした百合が俯く。気配に気付いて振り返ると、柱に隠れてこちらの様子を伺っている狛の姿が目に入った。
「いや、呼ばれたから来てみればその……」
狛が何かモゴモゴ言いながら顔を赤くしている。その姿を見てやっと百合にキスされたのだと気付いて少し恥ずかしかった。まだその感触が唇に残っている。
「あのさ」
沈黙に耐えきれなくなった。
「そういうこと誰にでも軽々しくやったり、言ったりするのはどうかと思う」
怒られると思った。頬を叩いて「最低」だと、「嫌い」だと言われることを期待した。
「明神くんが初めてだよ」
きょとんとした顔で真っ直ぐこっちを見つめている。その迷いの無い目が初々しい。
「なんか顔赤いよ?」
彼女に言われて思わず顔を背けた。顔が熱く火照ってしまう。今までこんなことなかったのに何かおかしい。
「ま、俺様は遊んで来るからの、あとは若いもんだけで睦み合えばええのじゃ」
「お前はなぁ……」
「むつ……え? 何?」
「知らなくていい」
百合が意味を聞こうとしたが、明神が言葉を遮った。
「知識は幾らあってもいいって……」
百合の言葉に明神は視線を投げた。もう中学生なのだし、言葉として覚えておく分には問題ないだろう。条件反射で恥ずかしがったのが悪い。彼女に理解しやすい言葉が咄嗟に思いつかなかった。
「仲の良い男女が肌を重ねるという意味で……」
言い終わる前に、百合が自分の耳を塞いでいた。顔を真っ赤にして俯いている。自分から聞いておいてそれは失礼だろうと思ったが、内容が内容なだけに話すのを止める。
二人の様子を眺めていた狛は舌を出していたずらっぽく笑うと、言葉通りに外へ出て行った。
「まあ、勘違いさせるような行動をとった俺が悪いから謝るけど……」
彼女の言葉を本気にしてしまう自分が怖かった。百合は顔を上げるが、まだ頬が赤い。
「大丈夫だよ」
にこりと笑う彼女にそれ以上何も言えなかった。何が大丈夫なんだと聞きたいが、聞くのが怖い。
「一つだけ聞いてもいい?」
彼女の申し出に少し戸惑う。
「明神くんのこと、祐くんって呼んでもいい?」
「却下」
即答すると百合が驚いた顔をした。
「俺を本名で呼ぶな。呪詛避けで式神にも教えて無いんだ。お前が声に出して音にすることで呪詛が発動する。俺の場合は半分兄貴の式神にされているからその影響をもろに受けやすい。名前って言うのは、体と魂を繋ぐ為の呪詛になっているんだ。軽々しく呼ぶな」
兄に名前を呼ばれた時、直ぐに行かなければならないと思った。それこそ飼い犬が主人に呼ばれてそっちへ向かう様に、条件反射で兄の元へ下ろうとする自分を抑えるのがやっとだった。
「……考えすぎじゃないかな?」
彼女の言葉に少し苛立った。
「百合」
名前を呼ぶと百合の身体が強張った。硬直した彼女の頬に触れると彼女は頬を赤らめて目を閉じる。そのまま髪を触って指を肩へ滑らせた。小刻みに震える彼女の身体を床に寝かせると顔を覗き込む。固く目を閉じて涙を流しているのを見ると頬に伸ばしかけた手を引っ込めた。
「だから、俺もお前の名前は呼ばない」
嫌われただろうと思って呪詛を解いてその場を離れた。彼女の言葉を鵜呑みにして、彼女の気持ちを確かめようとした。彼女の気持ちをあわよくば利用しようと思った自分が情けない。彼女の思いに縋り付くことが愛ではなくただの依存だと分かっていた。
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