第5話 獅子と牡丹
サンダルを履いて外に出るんじゃ無かったと思ったのは、野薔薇の棘が足に刺さったからだった。痛みでその場に蹲ると、いつもの獣道とは違う所へ入ってしまったのだと気付く。草履の隙間から棘が入って赤い血が滲んでいた。振り返っても鬱蒼とした木々で家が見えない。誰も居ないと思うとほっと息を吐く。少し一人になりたくて、つい家を飛び出してしまった。本当はこんな形で喧嘩したくはなかったのだけれど……多分、向こうは喧嘩とも思ってない。私が一方的に怒ったのだから喧嘩じゃない。
「勿体ないってなによ……」
思わず声が漏れた。涙を拭うが止まらない。
彼は必死に、私を傷付けないで済む言葉を選んでくれたのだと思う。今の関係を壊したくない気持ちが伝わる。だから、今回のことはさっさと忘れて、何もなかったように振る舞うのが正解なのだ。彼もきっとそれを望んでいる。
「……明神くんらしいなぁ」
想像がつかなかった。彼が本当に私の気持ちを推し量ろうとしていたとして、それに応えられたとしても恋人同士として一緒に居られる映像が思い浮かばない。手紙を読んで笑ってくれた時、もしかしたら本当に、そういう関係になれるんじゃないかと思った。彼の笑顔を私だけが見ることが出来る特権を得た気分だった。それなのに、その笑顔が直ぐに消えてしまった。あの距離が、彼にとっては身を守るための安全圏なのだ。そこへ踏み込もうとした私が悪い。特別扱いされている気分になって浮かれてしまった自分が悲しかった。
ふと、足の痛みが消えていた。草履を見ると、赤い血が花の刺繍を施した様に濡らしている。そして足元に紅い花弁が幾つか落ちているのを見て首を傾げた。不思議に思いながら百合は草履を脱いで自分の足を見つめる。傷が綺麗に消えていた。
「……?」
棘が刺さったのが気のせいだったとしても、草履に滲んだ赤い液体がそれを否定している。百合は不意に、自分の胸に冷たい刃物を差し込まれる感覚を思い出した。誰かに後ろから胸を刺された。その時に、目の前に明神が立っていた気がする。
「夢……じゃない?」
夢だと思っていた。目を覚ました時、病院にいた訳ではなかったし、何よりその胸元に傷が無い。明神が二人居たことも、自分の胸に刃物を突き立てられたことも全部夢だと思っていた。けれどもあれが、現実に起こったことだったとしたなら、今の自分は生きているのだろうかと不安になった。胸に充てた掌に感じる自分の鼓動を疑ってしまう。もしくはまだ、ずっと夢の中に居るのではないだろうかと思った。野薔薇の棘を掴もうと手を伸ばすと、不意に後ろから腕を掴まれた。振り返ると明神が直ぐ傍に立っている。いつもの何を考えているのか分からない表情だった。
「……あのね、今……」
百合が聞こうとすると明神は百合を抱き上げた。身長は同じくらいなのに軽々と抱え上げられて赤面する。
「歩けるよ?」
「運動靴ならまだしも、草履なんかで山を彷徨くな」
「ごめん……」
初めてのお姫様抱っこに百合は恥ずかしくて顔を覆う。そっと指の隙間から明神の顔を盗み見るが、彼の表情は相変わらずだった。
「……明神くん、聴いてもいいかな?」
何となく、聴いてはいけないような気がしていた。明神は屋敷に着いて玄関の上がり端の所に下ろすと、百合と視線を合わせた。
「可能であれば、何も聞かないでほしい」
伏目がちな彼の瞳が何処と無く不安そうだった。土間に片膝をついた彼に、距離を感じる。
「一つだけ……明神くんは私の夢の中だけの人じゃないよね?」
明神の目が、一瞬だけ何を言い出したんだと言いたげに百合の顔を見上げた。けれども直ぐに視線をそらすと軽く溜息を吐く。
「お前がそう思うことで平和に過ごせるならそれでいいと思う」
「何それ」
百合の頬を一筋の涙が伝った。
「何で否定してくれないの?」
「それを否定したら、説明しなければならないだろう」
「説明するのが面倒だから?」
明神が軽く頷いた。
「私は、明神くんにとって一体何?」
明神が考えるように一度視線を宙に飛ばした。何も言わずに玄関を出て行ってしまうと、百合はその場で膝を抱える。涙が溢れて止まらない。何も話してくれないことで不安だけが募った。
不意に花の香りがして顔を上げると白い大輪の牡丹の花が眼の前に差し出されていた。その花と、明神の顔を見比べる。それを受け取ると明神はそっと目を細めた。
「……花?」
「俺にとってはこの深見草と同じだから、せめて今は、眺めていることだけ許してもらえないだろうか」
「花みたいに黙ってそこに居ろってこと?」
百合の問いかけに明神は目を細めた。
「……出来ることなら」
「私は明神くんにとって人ですらないの? 身寄りがなくて都合が良いから一緒に住もうって言ってくれたの? 観賞用の植物と一緒にしないで! 私は明神くんにとって都合のいい女じゃない!」
「……すまない」
それだけ言って明神が家の奥へ行ってしまうと、百合はその場に泣き崩れた。板張りの床に置いた白い花が悲しげに百合を見上げている。ここに居るのが嫌で靴を履き替えて外に出た。
山を下りきる頃には涙が枯れていた。それでもまだ辛くて商店街の方へ足が向く。何か気が紛れるようなものが見たかったのだが、橋の上から川を眺めても、見慣れた商店街の町並みを見ても心が晴れなかった。
「どうしたの?」
声をかけられて振り返ると鳴神 智弥が立っていた。百合は智弥の顔を見てまた泣き出しそうになったが必死に堪えた。けれどもその必死さが伝わってしまったらしい。
「ちょっとそこで話さない? 聞いてあげるから」
智弥は駅のベンチを指し示してそう言う。百合は唇を噛み締めながら頷いていた。
缶ジュースを飲み干すと少しほっとした。冷たいオレンジジュースと一緒に悲しみを腹の底に飲み込んだ気分だった。
「少しは落ち着いた?」
「はい」
百合はぎこちなく笑ってみせた。その様子から、智弥は困ったように微笑む。
「もしかして、例の手紙の子と喧嘩した?」
「喧嘩……というか……いいように玩ばれたというか……本命じゃなかったんだと言われました」
意外な百合の言葉に智弥は目を瞬かせた。
「え?」
「自分にとって深見草と同じだから、せめて今は、眺めていることくらいは許して貰えないだろうかって言われました。酷いですよね? 都合のいい花みたいに黙ってそこに居ろって……」
「それって……そういう意味じゃないと思うよ?」
智弥の言葉に百合は首を傾げた。
「でも、私のことを花と同じだって言って渡してきたんですよ?」
「……ちょっと状況が解らないから何とも言えないけど、異性に花を贈るっていうのはつまり、喜んで貰いたいっていう心理があって……深見草って事は牡丹だよね?」
智弥の質問に百合は掌で大きさを表す。
「これくらいの大きな……花弁が沢山ある白い花で、多分、芍薬か何かだと……」
「それね、牡丹だよ」
牡丹と芍薬は花がよく似ているから分からないよね。と智弥が付け加える。庭を散歩していた時に牡丹の花の説明があっただろうかと百合は自分の記憶を疑った。けれども、彼が話してくれた言葉を一字一句覚えている訳ではない。夜には星座の話もしてくれたと思うのだが、よく覚えていなかった。
ふと、明神から貰った返事の手紙に深見草という言葉が書かれていたのを思い出した。ポケットから手紙を出すと、智弥はそれを覗き込んで彼女を見比べた。二枚目の最後に深見草の文字を見つけた。
「これ、例の彼の返事?」
智弥の言葉に頷いたが、何度読んでも意味が解らなかった。
「その最後の和歌、恋歌だよ」
百合はそれを聞くと智弥を見つめた。
「人知れず 思ふ心は 深見草 花咲きてこそ 色にいでけれ
訳すと、
人知れず君を思う心は深見草のように深いもの、その花が咲くように隠せなくなってしまった」
百合は脱力して手紙を見つめ返した。
「彼が言いたかったのは、自分がまだ未熟で、君のような高嶺の華の隣に居ることを引け目に感じてしまうから、せめて見守ることだけはさせてほしいって意味なんだよ」
「でも……」
「獅子と牡丹って知ってる?」
百合は聞き馴染みのない言葉に首を横に振った。智弥はそれを見て苦笑する。
「慣用句でね。取り合わせのいい絵柄って言われてて、調和のとれたものの意味があるんだよ。
手紙の後半、今は及び難いけれども獅子となったなら君の隣に置いてもらえないだろうか……
今は、若さからの未熟な部分だったりとか、しがらみだとかで君の隣には居られないけれど、君に相応しい男になるまで待ってくれないかって意味だと思うよ?」
それを聞いて思わず頭を抱える。
「分かんないよそんなの……」
「多分、向こうもそのつもりだと思うよ。大人になって、色々と覚えるうちに言葉の意味を知ってくれればそれで良いと思って難しい言葉を選んでいるんだよ。気付かなければそれはそれで良いし、意味が解る頃まで自分のことを思い続けてくれたなら一緒になろうってことだと思うよ?」
本当にそうなのだろうかと不安になった。手紙のことだって感謝を伝えるツールとして提案しただけだと言われたばかりだ。
「でも……」
「君を牡丹に例えるなんて、中々凝った告白文だと思うよ? 君は自分が安心して身を寄せられる安住の地だと、自分にとって心の拠り所だから、今は釣り合いにならなくてもいずれ必ず君と添い遂げるつもりだって。本命でもない子に、ここまで丁寧な言葉を考えたりしないよ」
それならそうと、教えてくれれば……と思ったが、素直に言うのが恥ずかしかったのだろうかと考えれば、納得もいく。
智弥は手紙を全部読むとふふっと笑った。百合は不思議そうに智弥を見つめる。
「君、百合って名前なの?」
「え? あ、はい」
そう言えば名前を言ってなかったと思い返した。
「どうして……」
「手紙の出だし、花笑みは百合の花の古語なんだよ。
それからこの最後の結びの言葉を『幾久しく幸多かれと祈り上げます』なんて、解りづらい言葉使っているんだけど、君、見た目からして中学生?」
「はい。中ニです」
「じゃあ少年式か……成程ね。賢い子だね」
智弥の言葉の意味がよく解らなかった。
「この言葉、結婚式の挨拶とか電報とかでしか今は見ないんだけど、元々は末永く、いつまでも変わらず幸せの多い事を祈っています。という人生の節目を迎えた人に対する言葉なんだ。少年式は十四才の少年少女が大人の仲間入りをする式典で、所謂、元服や裳着の名残りなんだ。君の事をちゃんと考えて書かれている所が何とも憎いね」
そう言われ百合は思わず首にかけていた首飾りの碧い石を握りしめると、深呼吸をして石を見つめた。
「それ、もしかして彼からのプレゼント?」
「……ええ……」
百合の言葉に智弥は照れたように笑った。
「知ってる? マフラーとかネックレスとか、首に巻くものを贈るのはね。君に首ったけって意味があるんだよ。惚れ込んで夢中になってるって、彼はちゃんと示してるじゃない」
思わず頬が火照って赤くなった。貰った時はただ自殺するのを止めたくてお母さんの形見の品を持たせてくれたんだと思っていた。それなのに、あの時から既にそういう風に思われていたのだと思うと何も気付かなかった自分が情けない。まあそもそもそうでなければ、家になんて上がらせても貰えなかっただろうし、一緒に住もうだなんて言われたりしないだろう。だから多分、鈍感な私が悪い。否、気付いていたのに、彼の素っ気ない表情から、そういう風に思われていないと思っていた。
「……バカみたい」
思わずそう呟いていた。勝手に不安になって、一方的に思い込んで……良く考えてみれば好きでもない子に普通、膝枕をしたり、抱き上げたりしないだろう。手紙を要求したり、花を手渡したりもしない。それなのに、説明を渋られたことを理由に物扱いされていると勘違いしてしまった。無知な自分を棚に上げて彼を傷付けてしまった。
「勘違いさせる前提で選んだ言葉だから、きっと怒ってないよ。謝らなくてもいいんじゃないかな? 君は悪くないよ」
悩んでいる百合に向かって智弥は諭すと、手紙を差し出した。百合はそれを受け取ると大事そうに抱きしめて頷いた。大きく深呼吸すると立ち上がる。
「ありがとうございます。なんか勇気が出てきました。もう一度ちゃんと話してみます」
智弥は安心したように笑うと頷いてみせる。
「そうすると良いよ」
智弥と別れて駅を後にした。茜色に染まる空を見つめながら百合は山へ向かった。
「智弥くん?」
不意に声をかけられて智弥は振り返った。父の開いている本屋へ行く途中で、銀行から出て来た一人の婦人に声をかけられた。白い長袖シャツの胸元には猫のキャラクターが大きく印刷されている。智弥はその女性に見覚えが無かった。
「帰って来てたのね。良かった。いつ帰って来たの?」
矢継ぎ早に問い質され、困惑する。
「あの……失礼ですが、どなたでしょうか?」
智弥の言葉に婦人は驚いた様に目を瞬かせた。
「橋本です」
割とこの辺りは石を投げれば善家に当ると言われる程、同じ苗字の人の方が多い。だから屋号を名乗る人も居るくらいだが、橋本姓に知り合いはいない。ただ、最近聞いた覚えがあった。
「直人くんのお母さん?」
当てずっぽうだったのだが、婦人は首を立てに振った。
「……ごめんなさい。もしかして、智弥くんも忘れているの?」
も……と言われて再び首を傾げた。どんなに頭を捻っても何も思い出さない。ふと、あの事を思い出した。
「すみません僕、十年くらい前に事故で記憶を無くしてて、十年前の事は覚えてないんです」
智弥の話に婦人が青い顔をした。
「弟さんのことも?」
婦人の問い掛けに智弥は目を丸くした。
「……え?」
「思い出したから、迎えに来たんじゃないの?」
婦人の瞳が涙で潤んでいる。弟と聞いても何もぴんと来なかった。父から親戚の話など聞いたことがなかったし、しかも弟だなんて、この十年一度も話題に上ることすら無かった。母は自分が産まれて直ぐに離婚して、向こうは既に再婚したと聞いている。向こうも会いに来ないし、こっちから会いに行こうとも思わなかった。
「あの子、ずっと家で待ってるのよ? 家族が帰ってくるのを……私が何度誘ってもあの家を離れなかったのは、あなた達を待っていたからなのよ?」
婦人の話は信じ難いものだった。弟と言う事は、自分が今、高校二年生だからそれより下の年齢だろう。年子だったとしても十六歳だ。十年前なら六歳。そんな小さな子を十年も知らん顔だなんて普通に考えてありえないだろう。だから、離婚した母と暮らして居るのではないかと思うが、話から察するにその弟は一人暮らしをしているのだろう。
「あの……人違いでは……」
そうとしか思えなかった。今、始めて会った婦人の言葉がどうしても信じられない。
「時仁さんは?」
父の名前を言われて息を飲んだ。この人は自分のことも、父のことも知っている。
「時仁さんも忘れているの?」
思わずそこにいたたまれなくなって走り出していた。今すぐに父に会って確かめなければならないと思った。商店街を駆け抜けて見慣れた本屋に入ると、店の奥からいつもの父の声がした。
「いらっしゃい」
落ち着こうと何度も深呼吸した。ドアベルが荒々しく音を鳴らす。
「どうした?」
「……僕に弟なんて居ないよね?」
何故か脳裏に、三歳くらいの男の子が笑う顔が浮かんだ。
「何を言い出したんじゃ……」
「さっき、橋本 直人くんのお母さんに会った」
それを聞いて父が目をそらした。
「……そうか」
「何で隠してたの?」
「聞かなかったじゃろう?」
「普通、聞かなくても言うでしょう? 言わなかったのは僕のせい?」
父は眉間に皺を寄せた。
「僕が原因で弟は居なかったことにされたんでしょう? だから言えなかった?」
智弥の言葉に父は溜息を吐いた。
「今更そんなことを知ってどうする」
「弟に会いに行く。連れ戻して、家族三人で暮せばいい」
「あの子は戻らんよ」
父の言葉に智弥は眉間に皺を寄せた。
「いや、戻れないと言った方が正解かのぅ」
「何で?」
父はずれた眼鏡を直すと、大きな溜息を吐いた。
「ひ〜む〜ろ〜」
急に勝手口から幼い子供の声が聞こえてきた。父はすかさず立ち上がると勝手口に向う。
「すまんのぅ、今日は遊べんのじゃ」
「え〜……将棋崩しをしたいのじゃ! 今度こそ負けないのじゃ!」
完全に、父の口調が移ってしまっている幼い声が可愛らしかったが、父の影になっているのか智弥の場所からは子供の姿が見えなかった。
「ほれ、芋飴あげるからまたおいで」
棚に置かれた小さい箱を取り出して父がそう言った。屈み込んで飴を渡すと、行ってしまったのかドアを閉める。智弥は父が偽名を使っていることが気になった。
「氷室?」
「あの子に本名を知られると、向こうに気付かれる恐れがあるからのぅ……」
父の言葉の意味が分からなかった。咄嗟に勝手口へ走ってドアを開けるが誰も居ない。アスファルトの道路と、大きな川が流れているだけだ。見晴らしは良く、直ぐに身を隠せるような所はない。
「今の智弥では、式神を視ることすら出来んじゃろう」
「しきがみ?」
「式神と言うのは術者が使役する神霊のことなんじゃ。植物に宿る精霊や時には動物を使うこともある」
「何を言って……」
「鳴神家は昔から呪術に長けた家系じゃった。お前はその家の、正式な跡取りじゃ」
父の話しに全く現実味がなかった。今まで聞いたことのない話に戸惑う。
「智弥、弟はちゃんとお前の言う通りにあの屋敷で人間の真似事をしておるようじゃよ? 屋敷に置き去りにされたことも、親が居ないことも、十年前に起こったことも、自分が何者かも知ろうともせずに、甲斐甲斐しいのう。自分が自らの兄に式神にされているとも知らずに……」
脳裏に幼い子供の姿が思い浮かぶ。藍色の着物姿の弟が、驚いた様な顔をして智弥を見上げていた。手に持っていた刀の切っ先が子供の心臓を貫き、その刃は背中まで貫通していた。
にーちゃん……
その口から声と一緒に赤い血が溢れていた。
木々の間から見える細い空が夕焼けに染まっている。百合が家に帰ると、縁側に腰掛けて呆然と庭を眺めている明神の姿が目に入った。何か考え事をしているのか、こっちには気付かない。そっと近付いて隣に座ったのだが、明神の顔は人形の様に眉一つ動かさなかった。
「……さっきはごめんね」
「いや、謝るのは俺の方だ。すまなかった」
振り返りもせずにそう言われて百合は不安になった。気持ちの伴わない言葉に悲しさを覚える。
「待っててもいいかな?」
明神が振り返ると、百合ははにかんだように笑った。
「教えてくれる気になるまで、待っててもいい?」
明神がゆっくりと瞬きをした。待ってて良いのか悪いのかよく分からなかった。
「私が牡丹の花なら、明神くんには蝶々くらいでいてほしいな」
特に深い意味はなくそう言ったのだが、明神は考えるように瞳を宙に投げた。
「……気付いた?」
「獅子と牡丹のこと? それとも、深見草の和歌の方?」
百合の言葉に明神が頭を抱えている。どうやら智弥の言う通りだったようだ。
「お前、花札とかするの?」
「え、ごめん。ルール分からない。猪鹿蝶とか絵が描いてあるやつだよね? トランプのババ抜きくらいなら妹としたことあるけど……」
どうして急にそんなことを聞かれたのだろうかと首を傾げると明神は百合を一瞥した。
「いや、ならいい」
「え?」
「俺が取り合わせの意味で使った言葉を捩って返されたのかと思った」
「え、ごめん。何か変な意味で言ったつもりはなかったんだけど……ライオンは怖いから蝶々くらいの方が良いって意味で……」
何か変な勘違いをさせてしまっただろうかと不安で冷や汗が流れる。明神はその様子を見て目を細めた。
「俺が使った獅子牡丹に対して、花札の中から吉札である牡丹に蝶を選んだのは、同じ牡丹を態と使うことで俺の告白に対して肯定した意味を含んでいるのかと思った」
百合は難しい言葉に頭を捻った。
「……つまり?」
「眺めていないで傍に飛んできてほしいと、歩み寄って来てほしいと言われたんだと勘違いした」
明神の言葉に百合はほんのりと頬を赤らめた。
「その通りだよ」
「気付かずに言ったくせに強かな女だな」
「知らなかったけど、気持ちはその通りだよ」
明神は徐にポケットから髪飾りを取り出した。差し出すと、百合は目を輝かせてそれを見つめる。
「綺麗……」
細い赤と白の水引と、黄色い紐で大振りの八重の梅結びの花が一つ付いている。その花の上に紅白の水引で叶結びが蝶の様に施されていた。その隣に白と赤の水引で作った小さな花が二つ付いている。垂れ下がった黄色い紐の先があわじ玉になり、その先が房飾りになっている。細かい細工に思わず溜息が零れた。自分で作れと言われたら、絶対に脳が沸いてしまう。几帳結びでさえ何度も失敗した自分を思い出した。
「これ、作ってくれたの?」
「まあ……今時の流行りは分からないし、これなら水引で作ったから、気に入らなければ捨て易いだろうと……」
「気に入ったよ!」
そう言ってふと、戸惑った。
「あ、でも、貰っちゃって良いのかな? 凄く手間だと思う……きっと売れると思うし……」
「お前に使って貰えると嬉しいんだけどな」
明神に言われ、百合は頬を赤くした。サイドの髪を束ねてバレッタで止めると、明神に背中を見せる。
「どうかな?」
明神はそっと百合の髪を触ると、サイドの髪を編み込みにして髪留めで留め直した。百合が振り返ると、軽く頷く。
「俺は家族に捨てられて十年ここに一人で居るから、他人を愛することがよく解らない。だからお前が思っているような普通の恋愛は出来ない。お前の納得のいく説明が出来るかは自信がないけれど、それで構わなければ話を聞いてもらおうと思う」
明神の言葉に百合は頷いた。
夕食を終え、二人は縁側に腰掛けていた。食後に食べたケーキの後味がまだ口の中に少し残っている。大きめの陶器の深皿に水を入れ、そこに白と桃色の牡丹の花を浮かべていた。白地に砥部焼独特の大振りな唐草模様が、藍色で描かれている。白い真珠を沈めたような月が水面に映っているのを百合は眺めていた。その器の先に腰掛けた明神に目をやると彼は空に浮かぶ月を見上げていた。
「お前には妹が居たんだったな」
そう聞かれ、百合は少し笑った。
「うん。すごく可愛くてね。優しい子だったんだよ」
「妹だけ親に愛されてずるいって思ったことない?」
明神に聞かれ、そんな話しをしたことがあっただろうかと思ったが、今まで話したことを繋ぎ合わせて、そういう風に感じ取ったのかもしれない。
「それは仕方がないよ。私は貰われっ子だったし、家族とは血が繋がってなかったから……」
どうして急にそんな話しをふられたのか分からなかった。
「俺には兄が居るらしい」
明神の言葉に百合は目を瞬かせた。
「十年前に親父は兄貴だけ連れてここを出て行った。それから一度だってここに帰って来ない。本来なら兄貴が跡取りの筈なのに、全部俺に押しつけて出て行った。そんな奴が外でのうのうと生き延びていると考えるだけで腸が煮えくり返るんだよ」
表情は変わらないが、言葉には怒りが滲み出ていた。
「何か理由があったんじゃ……」
「この屋敷に居る鬼の呪いを俺が受けたから、俺に殺されるのを恐れて捨てて行ったんだろう」
「鬼?」
「……よくは知らないが、千年前に白髪碧眼の鬼がここに住んでいたと聞いている。お前のその身体も、鬼の呪いに充てられたものだ」
百合は驚いたように目を丸くした。
「呪い?」
「本来ならお前の寿命はとっくに切れているんだ。人は死んだら輪廻の輪に還って次の身体へ移る……つまり生まれ変わって新たな人生を歩んで行くんだけど、お前は輪廻の輪に還らないように無理矢理魂をその身体に押し留めているんだ。本来は寿命の切れた身体は腐敗して土に返るが、そうならないように時間を生きていた頃のまま止めているらしい。だから怪我をしても傷口は止めた時間に戻ろうとして直に消えてしまう。不老不死と言えば聞こえは良いかもしれないが、人と同じ時間を過ごせないと言うことは酷なことだと思う」
明神の視線が空から地へ落ちた。
「俺が不甲斐ないばかりにすまなかった」
「明神くんのせいじゃないよ?」
「初めて会った時に、お前の寿命が尽きかけていることも、死のうとしていたことも解っていた。せめて最期くらいは安らかであってほしい。少しでもこの世界に愛しさを見出してくれればと思った俺の浅はかな気持ちに漬け込まれてこんなことになったんだ。かと言ってお前を二度殺すことも、真実を伝えて人ならざる者として逃してやることも決められない。せめて人間の真似事だけでもと、自己満足でここに縛り付けてしまって居る。こんな優柔不断な自分がお前の隣に居て良いはずない。だからお前の真っ直ぐな気持ちが切なかった」
百合はそれを聞くと何も知らなかった自分が少し恥ずかしくて膝を抱えた。
「俺と兄貴の立場が逆だったなら、こんなことにならずに済んだんじゃないかと考えてしまうんだ」
明神の瞳が再び宙を泳いだ。丸い月を見上げるその顔は虚ろだった。
「こんな所に十年も放っておかれた人生よりも、父親に愛されて何かに怯えることもなく生きていたなら、人として普通にお前を愛せたんじゃないだろうかと、有りもしない幻想に思いを馳せてしまう自分が情けない」
百合はゆっくりと深呼吸した。
「今からでも間に合うよ。迎えに来ないなら会いに行ってみたらどう?」
「面と向かってお前なんか要らないって言われるのが関の山だろ」
百合は明神が怯えているものの正体を知って息を飲んだ。そんなことないと言ってあげればいいのはわかるのに、自分も親に愛されなかったばかりに、どんな言葉をかけてあげれば良いのか分からない。あれこれ考えても、こればかりは本人に会って話しをしなければ分からないだろう。けれども、十年も会いに来ない親に、愛していると言われた所で彼は受け入れられないのだ。だから会いに行って、それを確かめる勇気も無いのだ。
「こんなことなら十年前にきっちり殺しておいてくれれば良かったのに……」
そんな言葉でも、彼の瞳は虚ろで怒っているのか、悲しんでいるのか表情に現れない。
「私は、明神くんが生きててくれて嬉しいよ」
明神がこっちを向いたが、直ぐに目を伏せた。
「私、明神くんと一緒に居て楽しいよ?」
「俺はお前を見ていると自分が嫌になるんだ」
百合はそれを聞くと苦笑した。
「明神くんは、私が好きになった明神くんを否定するの?」
返答に困ったのか、明神は何も言わない。
「もっと自分に自信もってほしいな。明神くんは素敵な男の子だよ? 私が保証する」
百合の夜空を映したような瞳に明神の姿が鏡のように映っていた。
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