第4話 手紙
庭に咲いた藤の花を眺めていた。自分はここで何をしていたのか思い出そうとするが、何も解らなかった。
「……」
誰かの名前を呼ぼうとして口を開いたが出て来なかった。静かな屋敷の中を歩きながら誰か居ないだろうかと見回す。部屋を一つ一つ確認するが誰もいない。玄関まで行くと白髪の男が立っていた。
「だ〜れ?」
ふと、そう言ってやっと自分の身体が小さくなっていることに気付いた。振り返った男の瞳が碧い。男が刀を振り上げると迷いなく心臓を貫いた。火鉢でも押し当てられたような熱い痛みが襲う。何かが自分の中に流し込まれる感覚があった。
「やめて!」
玄関の引き戸が開いて、女の人が入って来た。見たことのない顔だったが、自分の口が無意識に声を出した。
「お母さん……」
刀を引き抜かれ、力なく倒れる三歳の子供を母が拾い上げる様に抱きしめた。母の胸が赤く染まる。倒れた母がそっと頬を撫でた。
「生きて……」
それはあまりにも残酷で、けれども子煩悩な母親にとってはごく当たり前の願いだった。
「なんてことを……」
父の声が聞こえたが身体が動かない。慌てた父親が母に抱きかかえられた子供の姿を見落としたのか、はたまたもう手遅れだと判断したのかは解らない。ただそのまま父が出て行ってしまったことに寂しさを覚える。
お父さん……
門が閉まる音がした。気付いて身体を起こすともう何処も痛くない。母の腕をすり抜けて門のところまで走った。
「お父さん……開けてよ」
幼い子供の力ではその大きな門戸は開かなかった。見慣れた四脚門が、無情に立ちはだかった。
「お父さん……やだよ! 僕も連れて行って! 僕を……置いて行かないでよ……」
涙が溢れ、ずっとそこで泣き続けたが門は開かなかった。すぐに開くと信じていた。すぐに門が開いて、殺してくれると信じていたーー
「本当ですか?」
古夜 百合は瞳を輝かせて再度確認した。雑多に並べられた大量の本に埋もれる形でカウンターに腰掛けている六十代の男性が、小さな丸眼鏡の奥で笑みを浮かべる。
「うちで良ければいつでも来なさい」
老人の言葉に歓喜した百合が頬を紅潮させる。
「私、頑張ります!」
桃色のスカートを翻して百合は力強く拳を握った。明神から気にしなくて良いと言われていたが、何だかんだとお金を使われていることが気に掛かっていた。遊園地へ行った折にも、ジュースやら人形焼やら買って貰ってしまった。要らないと言いつつ、本当はお揃いのキーホルダーが欲しかったなどとは口が裂けても言えない。あれから時間があればアルバイト先を探していたのだがなかなか見つからず、諦めかけた時にこの商店街の古い本屋を発見したのだ。アルバイト募集の張り紙を見つけ、人の良さそうな店主に雇って欲しいと直談判するとすんなりと受け入れて貰えた。学校帰りに、店の前を掃除したり、本の整理を手伝った。
「何か欲しいものがあるのかい?」
本の整理をしている時に老人に聞かれて少し戸惑った。
「今時の若い子は携帯電話だとかを欲しがるらしいのぅ」
老人がにこにこしながら聞くと、百合は少し恥ずかしそうに視線をそらせた。
「実は、この間友達の誕生日だったらしくて、私……知らなくて何も用意してなくて……何をあげたら良いか分からなくて……」
棚の本を入れ直しながら百合が呟くと老人は首を傾げた。
「本人に聞いてみたらどうかね?」
百合が驚いたように目を丸くして老人を見つめた。
「それは……気付きませんでした」
「初々しいのぅ……」
老人が声を立てて笑うと百合は俯いた。
「文房具なら学校で使えるかなと思ったんですけど……」
「うむ、中学生らしくてええと思うよ」
老人はそう言ってふと細い目を棚へ向けた。
「儂の嫁は手作りのケーキを焼いてくれておったよ。息子が甘いものが苦手での、色々と試行錯誤しておったわ。クリームは使わずに砂糖を減らして……儂は嫌いなんじゃが、息子が干し葡萄が好きでの、レーズン入りのケーキを焼いたらぺろりと食べたものだからそれこそ喜んで……」
それまで嬉しそうに話していた老人が言葉を止めた。百合が不思議そうに老人の表情を伺うと老人は百合を見て微笑んだ。
「すまんのぅ、こんな老人の昔話ではそのお友達のプレゼントの参考にはならんじゃろ」
「いいえ、私、料理はあまり得意じゃないんですけど、作ってみようと思います」
百合がそう言うと老人が嬉しそうに微笑んだ。
暑い日差しの中で、それはまるで烏のように颯爽と目の前を通り過ぎた。止める間もなく飛び降りたその黒い影を目で追いながら橋下を覗く。四メートル程下の水面が丸くうねり、慌てて橋を渡りきった。
自殺だろうか?
鳴神 智弥の脳裏に悪い予感が過ぎった。河原まで下りると直ぐに辺りを見渡す。黒いシャツを着た小柄な少年が川の中央辺りに居る。慌てて川に入ると、少年が女の人を引っ張って泳いで来た。一緒に女性の体を河原へ引き上げると、女性が咳き込んで水を吐き出したので背中を擦る。背格好からして自分と同じ高校生くらいだろうか? 自殺じゃなくて良かったと安堵しながら周りを見渡すと、少年の姿がない。川の方へ目を向けると再び川に入っている少年の姿に目を丸くした。
「ちょ、ちょっと!」
心配していたが、中洲に引っ掛った帽子を拾って直ぐに戻ってきた。少女に差し出すと彼女が笑顔を向ける。
「ありがとう」
照れくさかったのか、少年は何も言わないで行ってしまった。
「大丈夫?」
こくりと頷くと彼女は立ち上がった。
「帽子飛ばされて手を伸ばしたらそのまま川に落ちちゃってびっくりしちゃった。あの子、風邪ひかないと良いんだけど……」
心配そうに少年の背中を見つめている。中学生くらいのまだあどけなさの残る少年が、高水護岸の階段を上っている。
「君もね」
「私は家がそこだから。ほら、あの川辺に建ってる神社」
彼女が指し示した方向に鳥居が見える。確かに、歩いても五分と掛からないような距離だ。
「私は大丈夫だから行ってあげて?」
「え?」
「なんだかあの子、すごく悲しそうな目をしていたから……」
少女の言葉に押されて彼を追いかけた。追いかけなければならない様な気がする。ちゃんと捕まえていないと何処かへ消えてしまいそうな、そんな危うさが彼にはあった。
太陽に熱せられたアスファルトを踏みしめながら走っていた。やっとあの黒い小柄な背中を見つけて声をかけようと思ったのだが、走っていたせいで声が出なかった。
「見つけた!」
やっと彼の腕を掴んで声を絞り出した。けれども彼は何も言わずにすぐ手を振り解く。
「待って、行くとこがないならうちに来なさい。風邪引くよ?」
まだ服の裾から水が滴っていた。髪も濡れている。
「僕の家、すぐそこだから!」
もう一度腕を掴んで強引に引っ張った。今度は何も言わず、引っ張られるままについてくる。団地に着くと三階まで登って自分の家のドアを開けた。
「お風呂そこだから使って。着換え出しとくから」
狭い土間に靴を脱ぎ捨て、入って直ぐ左手のドアを指し示した。短いフローリングの廊下を歩いて家の奥に入ると少年は智弥が指示した風呂場へ入って行く。昔着ていた服は何処に片付けただろうかと思案しながら部屋の箪笥を引いた。適当に昔着ていたTシャツとジャージを出して脱衣所に放り、自分もズボンや靴下が濡れていたので着替えた。
お湯が沸くのを待っていると風呂場から少年が出てきた。用意した青い長袖のジャージを着ているが、小柄な彼には少し大きいらしい。Tシャツも用意しておいたのだが、肌を見せるのが苦手なのだろう。
「コーヒーと紅茶どっちがいい?」
気さくに聞くが、返事は無い。ブラウン管テレビの上を指でなぞり、埃が指に付くのを見ている。
「ごめん、あんまり掃除してない」
彼の表情は変わらなかった。天井からぶら下がった電気傘の埃から、フローリングの隅の塵にまで目を光らせているのではないだろうかと勘ぐってしまう。
「あ、洗濯機回すから濡れた服持っておいで」
それには素直に従って風呂場から服を持ってきたのだが、どうやら風呂場で既に洗ったらしく、慣れた手付きでハンガーにかけ、ベランダの物干し竿にかけている。靴も智弥の分まで洗ってくれたらしく、室外機の上に並べてくれた。
「ありがとう」
何だか妙に気の回る子だと思った。まだ一言も喋ってくれないので警戒されているのかもしれないし、もしかしたら口が利けないのかもしれない。聾学校が近くにあるのでそういう子もいるのは知っていた。
「ミルクティーにしたんだ。温まるから飲んで。って言っても暑いかな? アイスティーの方が良かった?」
いくつか質問してみたが彼から返事は無い。表情が変わらないので何を考えているのか分からない。こうなるとどうしていいやら分からなくなる。ふと、友達に貰ったビデオテープを思い出して棚を探した。彼はソファに座って黙ってミルクティーを飲んでいる。
「ねえ、大人のアニメって好き?」
なんの気無しに言ったのだが、何か気になったらしい。彼は大きく溜息を吐いた。
「あのさぁ……」
何だ。喋れるんじゃないか。と少し驚いた。
「個人の趣味で楽しむのはどうでも良いけど中学生に薦めるのはどうかと思う」
「え? そう?」
彼の目の前に以前話題になったアニメのビデオテープの表紙を見せた。彼はそれと智弥の顔を交互に見比べる。
「荒廃した世界で巨大芋虫とかが出てきて、ヒロインが戦争を止めるために奔走する話なんだけど……環境問題とか、戦争について凄く考えさせられる面白い作品なんだけどな。そっかぁ……じゃあ……」
「すまん、勘違いだった。忘れてくれ」
何を勘違いしたのだろうかと思ったが、表情が変わらないので推測しにくい。18禁のスプラッター映画か何かだと勘違いさせてしまったのかもしれない。流石にそんなものは家に無いのだが……
「顔がパンで出来たヒーローが出てくるやつの方が良かった? それとも未来から来た青い禿ロボットがポケットから便利な道具を出す……」
「だからそういうの興味無いからいい」
「分かった。特撮なら……」
「しつこい」
「何だかやけに大人びてるね。お父さんかお母さんが厳しいの?」
自分がこのくらいの頃は同級生と遊んでいた思い出しかない。ゲーセンに行ったり、カラオケに行ったり、坂道で全速力で自転車漕いでみたり。そんな初々しさが彼からは感じられなかった。足も揃えて座っているし背筋も伸びている。良いところのお家柄といった感じがする。
「……さあ……」
彼のそっけない回答に、聞いてはいけないことだっただろうかと話題を変える。
「名前聞いてもいい? 僕は鳴神 智弥って言うんだ」
「明神」
下の名前を聞こうかと思ったが、本人が名字だけ名乗ったと言うことは知られたくないのだろう。わりと臆病な子なのかもしれない。
「怪我はない? 他人を助けたい気持ちはわかるけど、橋から飛び降りたりしたら危ないよ。それとも、飛び降りた先にたまたまあの子が居た?」
その可能性も否定は出来ないだろう。けれども、普通助走をつけて飛び降り自殺なんかしないと思う。まあ、勝手な想像なのだが。
「流れが速かったから海まで流される前に捕まえておきたかった。理由はそれだけだ」
彼の言葉に嘘は無いだろう。あと一キロもしないであの川は海に合流する。昨日の雨で水嵩も増していた。橋を渡りきって土手を降りている間に見失う可能性を考慮すると……という判断だったのだろうが、それは正義感があるというより、自分の命を軽くみた行為だと思う。
「君も流されてたら危険だったんだよ?」
「その時はその時だ」
「ご両親が悲しむよ」
彼の瞳が一瞬だけこっちを睨んだ。
「あんたはさぞ良い両親に育てて貰ったんだろうな」
静かな口調だったが、怒ったのだろう。
「ご両親と上手くいってないの? 相談くらいならのるよ?」
そういう子が世の中に居ると言うことも知っている。虐待を受けたりしたのだろうか? 感情が表に出なくなる程の苦痛とはどんなものだろう?
「親に愛されなかったからって、腹いせに自分の命を粗末にしていい理由にはならないよ」
「心配するな」
彼の言葉に口籠った。
「最初から愛されてなどいなかったのだと思えば恨む必要も無いだろう」
「君は嘘つきだ」
彼の心の中で怒りがとぐろを巻いている気がする。恨んでいないと言いながら後ろにナイフを持っているような殺気を覚える。
「言葉と感情が伴ってない。まるで優等生のフリをして万引きしている子供みたい。辛かったら辛い。助けてほしかったら助けてほしいと周りに言えばいい。子供なんだから下手に背伸びしなくていい」
何があったのか知らないが、このままではいけない気がする。
「僕に話すのが嫌なら友達とかさ、学校の先生でもいいし、警察に行っても良いと思う」
「帰る」
急に立ち上がった彼の表情は変わらないが、一方的に話していたので怒ったのだろう。
「もっと自分を大切にして。何かあったらいつでも遊びに来ていいから」
干したばかりの靴と服を取り込む彼にそう言ったが、反応がない。
「もう危ないことはしないって約束してくれる?」
「あのさ」
溜息混じりに彼は呟いた。
「俺の命なんだからどう使おうと俺の勝手だろ」
「またそういうことを言う……」
どうすれば彼の心に響くのだろうかと目を伏せた。彼が背を向けて着替えている。ふと、背中に大きな傷痕があるのが見えて目を背けた。
「子供ってのは親の所有物で暇潰しの道具なんだよ。親の気分次第でいつでも捨てれる。精々お前は親の顔色伺って胡麻でも擦ってろ。良い子にしている間だけは可愛がってくれるさ。親を引き立てる装飾品として」
「そんな言い方……」
「お前は親に愛されているって証明出来るのか?」
ああ……この子の心は完全に壊れてしまっているんだと思った。
何も言わない智弥を置いて彼が出ていく。追いかけようかと思ったが、怖くて追いかけられなかった。彼の問いに答えられない。答えたとしても否定される気がした。
家に帰り着くと早々に風呂に入った。自分とは違う人間の臭いに嫌悪する。いつもの作務衣に着替えてやっと一息吐くと、くれ縁の窓を開けてそこに腰掛けた。広い庭と、色とりどりの植物が塀の脇に広がっている。物干しが出してあって布団が干してあった。頼みもしないのにマメに庭の手入れをするのはクレハの趣味だった。家の中もよく掃除してくれるが、百合が住むようになってからは気を遣ってあまり表立ってしなくなった。だから布団を干したのは百合だろう。
徐に総竹扇を取り出したが、開きかけて留まった。
「クレ……」
言葉を飲み込んで扇に視線を落とした。
身体に溜まった膿が出るような、じわじわとした怒りが込み上げていた。この怒りの原因を確かめようとしたが、思い留まった。それを知ってしまったら自分が自分でなくなってしまうような気がして怖い。だから知らなくて良いと、自分の思い過ごしだと自分に言い聞かせて扇子を消した。
少し風に当たっていると、何かが焦げる臭いがして台所に顔を出した。百合が何やら本と睨めっこしながら眉間に皺を寄せている。小麦粉やらベーキングパウダーやらがシンクの上に並び、丸くて大きな、焼け焦げた煎餅のようなものが皿の上に乗っている。明神に気付いた百合が慌てた様子で片付けようとしたが時既に遅しだった。
「……ごめんね。直ぐに片付けるから……」
百合がそう言うと明神は瞳を宙に投げた。百合が片付けた本の表紙に気付くと台所に立ってコップを二つ取り出した。百合が流しの前で食器を洗っていると、棚からホットケーキミックスを取り出してコップに入れ始めた。牛乳を入れて混ぜると、シナモンシュガーをふって電子レンジに入れる。焼いている間にお湯を沸かし、また別のコップを二つ出した。
「今日はね、クレハさんにお琴の弾き方教えてもらったの」
せめてピアノくらいにしておいてほしかったが、如何せんそもそもピアノがこの屋敷にはない。先週は清も巻き込んで女子会と称した茶道をしていた。一度教えたくらいでは身につかないだろうと言ったのだが、多趣味なクレハにはそんなこと関係ないらしい。毎回着付けは丁寧に教えているらしく、先週百合が一人で浴衣を着れたと喜んでいた。勉強の方も本人の努力が実って、最近やっと中二程度に追いついて来た。
そんなことを考えているうちに電子レンジの音が鳴った。膨らんだカップケーキが二つ出て来て百合は目を丸くしている。明神がインスタントコーヒーを作って片方にだけ砂糖を入れていた。牛乳を入れると居間に卓袱台を出してカップケーキとカフェオレを並べる。座布団を出して百合に座るように促すと、百合は手を洗って座布団に座った。
「うちにはオーブンが無いから、ケーキ作りたかったら橋本の家に行くといい。それか、炊飯器でも作れるから」
「そうなの?!」
まさか炊飯器でケーキが作れるなどとは思っていなかったらしく、百合は落ち込んでいた。
「フライパンで焼けなくはないけど、始めて作るならやめといた方が良い」
明神がそう言ってスプーンを差し出すと、百合はそれを受け取った。百合はコップからはみ出る程に膨らんだカップケーキを凝視していたが、明神は何も言わずに食べていた。
「いただきます」
百合が呟くように言ってカップケーキを食べると、ふわふわの蒸しパン生地とほのかなシナモンシュガーの香りが口の中に広がって目を輝かせた。
「美味しい!」
「俺に分かる範囲でなら聞いてもらったら教えるから」
明神にそう言われ、百合は少し考えて口を開いた。
「明神くん、何か欲しいものとかある?」
「は?」
唐突な質問に明神が百合の顔を見つめる。その真剣な瞳に自分の姿が映るのが嫌で、そっと視線を外した。
「別に何も……」
と、言いかけて思い当たる節があった。この間の旅行の折に、直人の母親あたりから誕生日だったことを聞かされたのだろう。生活費のことは気にしなくて良いと言ったのにバイト先を探していたので、何か明神には言えない入用なものでもあるのかと思って知り合いに雇ってもらうように根回ししておいたのだが、まさかもう一ヶ月も過ぎた明神の誕生日プレゼントの為にバイトを始めたとは思っていなかった。だから、ここは当たり障りない適当なものを言っておけば、バイトに行く必要もなくなるわけで……料理は火を使うから火傷とかさせられないし、縫い物は大分慣れたとはいえ針を使うから怪我しないか心配だし……と、そこまで考えて何も思いつかない。
「……何も要らない」
それを聞いた百合があからさまに残念そうな顔をした。こういう時、どういったことを言ってやれば正解なのか良くわからない。
「お前が生きてさえいてくれれば俺は充分だから」
百合が不思議そうに顔を上げた。
「大抵のことは一人でするようにしていたのにお前が居てくれて助かってる。だから俺に気を遣って、感謝を伝えたいと言うのであれば伝わっているから、その気持ちを無理に何か形にする必要はない。思い出だけで充分だから」
「明神くんてさ……」
百合が口を開くと、明神はそっと百合に視線を向けた。
「すごい怖がりだよね」
心配性とはよく言われるが、そう言われると少し困ってしまう。百合には以前にも「怯えている」と言われた事があった。
「そう見えるか?」
「明神くんらしいけど、もう少し周りを頼っても良いと思うよ?」
さっき智弥にも似たようなことを言われた手前、なんとも心中穏やかでは無いのだが、百合には関係のないことなので顔には出さないでおく。
「まあ、確かに……」
安全で手軽でお金がかからなくて彼女にも出来そうなこととなると……と考えると明神はそっと口を開いた。
「……」
百合はそれを聞くと目を丸くする。
「そんなんで良いの?」
明神が一度宙に視線を飛ばして頷いた。
翌日、百合はバイト先へ行くと店長の老人に話しかけた。老人は入荷したばかりの本を一つ一つ確認している。百合の話しを聞いて老人は思わず顔を上げ、眉間に皺を寄せた。
「それは……厄介なものをねだられたのぅ」
老人の言葉に百合は目を丸くして首を傾げた。百合は老人が指示した本を平台に並べながら言葉を続ける。
「厄介ですか? 手紙ですよ?」
百合が聞き返すと老人は溜息を吐いた。
「お嬢ちゃん、文通なんぞせんじゃろ?」
「まあ……でも、手紙なんて別に……」
「日本という国はの、話し言葉と書き言葉が別々に発展してしまった国で、割と慣れておらんと手紙は難しいんじゃよ。まあ、中学生にそこまでのレベルは求めておらんじゃろうが、かと言って少年式を迎えて大人の仲間入りをする年齢ともなれば、話し言葉を書き並べるようなことは出来ないじゃろう。便箋の選び方から書いた手紙の他に無地の便箋を一枚入れる所まで確認するぞ? あの子はそういう子じゃ」
そこまで言って、慌てて老人は口を噤んだ。
「え? 明神くんのこと、知ってるんですか?」
百合が驚いて問い質すと、老人が諦めたように肩を落とした。
「実は、以前ここで働いておったんじゃよ。かれこれ五年くらい……事情は知らんが、ある日突然辞めたかと思ったら、今度は君を雇ってあげてくれと頼まれてのぅ」
それを聞いて今まで感じていた違和感の正体に気付いた。ここの店主が、他のお店のように親の承諾の有無を聞かなかったのは明神の口利きがあったからだ。
「よく気の利く良い子なんじゃが、なかなか気難しい所がある子じゃよ。まあ、下手な手紙を寄越しても怒りはしないじゃろうが……多分、これから先大人になって、手紙を出すようなこともあるだろうと、お嬢ちゃんの将来を案じてのチョイスじゃろうな」
赤ペンで修正され、点数つけて突き返されやしないだろうかと老人は不安になった。
百合はそれを聞いて成程、と関心してしまった。かさばらないとか、貰っても困らないからだろうかと色々と考えていたが、老人の話を聞いて納得する。二人が神妙な顔をしていると店の扉についたベルが音を鳴らした。
「いらっしゃいませ」
条件反射で百合が声を上げて入口に目を向けると、背の高い高校生くらいの男の人が立っていた。
「いらっしゃい」
老人が声をかけると、男の目が店の奥に居た老人に注がれたが、百合を見て直ぐに人の良さそうな笑顔を作った。
「こんにちは」
「ああ、智弥、この子に手紙の書き方を教えてやってくれ」
老人に言われ、智弥は一瞬怪訝そうな顔をした。百合はそんな二人を見て首を傾げる。
「お知り合いですか?」
「……まあ……」
「別に隠さなくて良いよ。父さん」
智弥がそう言うと、百合は二人を見比べた。背が高いので、大学生だと言われても遜色無いだろう。反対側で本の整理をしている老人は、禿頭にニット帽を被っているせいか老けて見える。どう見ても六十は越えている。孫と祖父ならばしっくり来るのだが、智弥がお父さんと呼んだものだから百合は少し困惑する。まあ、色々な家庭の事情もあるだろうし、必ずしも血の繋がりのある親子とは限らないだろう。ただ、何処と無く雰囲気が似ていると思った。
「参観日の時に二度と来るなと言ったのは智弥の方じゃよ」
「周りが皆、若いお父さんとお母さんばかりなのにあんたが老け込んでいるのが悪いと思うなぁ」
「男手一つで育てておったらそりゃ老け込むわい。大体、智弥が産まれた時、既に四十八じゃったからのぅ……周りからお孫さんですかと声をかけられる度に悲しくて悲しくて……」
目元に手を当て、泣く素振りをするが涙は出ていない。智弥はそんな父親を見て頭をかいた。
「……手紙の書き方って?」
「野暮なことを聞くの、恋文に決まっておるじゃろ」
「それは違います! 日頃の感謝を伝えたくて……」
百合が顔を真っ赤にして言うと、老人はそうかそうかといたずらっぽく笑った。
「それなら別に形式張った書き方しなくても良いと思うけど……君、まだ中学生でしょ?」
「相手がちょっと偏屈での。クラスメイトから貰ったラブレターを本人の眼の前で破り捨てるような奴なんじゃ」
「……それは相手を選ぶべきだと思うよ」
智弥が半ば心配気に話すが、百合は笑った。
「そんな子じゃないですよ」
「橋本 直人くんじゃったかの? 彼に聞いてみると良い。彼がいつだったかそんなことを愚痴っておったから」
それを聞いて、百合は何も言えなかった。直人が言ったのならば本当なのだろう。
「相手との関係性がよく解らないから何とも言えないけど、女の子だから精々、
一筆申し上げます
向日葵の花が咲き始め、愈々夏本番です。お元気にお過ごしのことと存じます。
いつもお心にかけてくださり、感謝の限りでございます。かしこ
くらいで良いんじゃないかな?」
百合はそれを聞いて目を瞬かせた。
「聞き馴染みがないじゃろ?」
「時候の慣用句もあるけど、自分なりの表現で、季節感をうまく工夫して相手に伝えると面白いと思うよ? 主文の所にエピソードをちょこっと書き込んで……」
「やめてやらんか。挫折してしまうわい」
店主がそう言うが、百合は既に頭を抱えていた。見兼ねた店主が店の本棚に目を這わせ、手紙の書き方と書かれた本を一冊取り出して百合に手渡す。
「まあ、テストで百点をとるよりも難しいことじゃから、欠点だけとらないくらいの気持ちで書きなさい」
「え? 何? 国語の先生にでも手紙書くの?」
「その方が気が楽じゃろうな」
「なんかよくわからないけどそんなに難しいかな? 覚えてしまえば割と簡単だと思うんだけど……どうしても書けなかったら定型文切り貼りしとけば相手に失礼はないよ。まあ、自分の気持ちが伝わるかと言われるとそこは話が別になってしまうけど……」
智弥がそう言うと、店主は百合に耳打ちした。
「頭だけは何故か賢く育ってしもうての、悪気はないんじゃが、儂ら凡人からしたら鼻につく言い方じゃろう?」
「体育の成績だけ2がついて悪かったね」
聞こえていたのか、智弥がすかさず口を挟んだ。
「けど、今時パソコンとかケータイのメールで済ますことの方が多いだろうに、また古風な事をするんだね」
「向こうがご所望らしい」
父の言葉に智弥は目を丸くした。
「ラブレターを本人の眼の前で破くような子が?」
「じゃから、普通の手紙では受け付けんのじゃろう」
「それって……」
智弥はそう言いかけて百合を見つめた。
「それ、手紙書いても直接渡さずにどっかに隠しておくといい。学校で会うなら教科書の後ろの方のページとか、よく読んでる本の最後のページとか」
智弥の提案に百合は首を傾げた。
「その子、君を試してるんだよ。自分の為にどれだけ手間隙かけてちゃんとした手紙を書いてくるか。手紙って人となりのセンスが問われるから、君自身を知ろうとしているのと、自分に対しての君の気持ちを垣間見ようと画策してるんだよ。自分からアプローチしても良いかどうか石橋叩いてるんだろうね。自分から告白せずに相手の気持ちを先に知ろうとするなんて意気地のない男だよ。そんな奴に真面目に手紙書いてホイホイ渡すものじゃない。相手が付け上がるだけだから」
「……そんな子じゃない……と思うんですけど……」
今さっき、自分の知らない明神の一面を聞いてしまったばかりなので完全に否定出来ないのが少し悔しい。
「今日くれるかな? 明日くれるかな? ってやきもきさせて、一週間くらいして貰うの諦めかけたくらいの時に渡したら勝手に色々と勘繰ってくれると思うよ? 話しを聞く限りでは慎重派で人との関わりが億劫な子なんだろうね」
「慎重派で億劫な子が、本人の眼の前でラブレターを破くかのぅ」
「そうすることで相手の気持ちを試したかったんじゃないかな? 内容云々もあるとは思うけど、信頼に足る相手なのかどうかを試さずにはいられない子なんだろうね。自分から歩み寄ることが苦手なんだよきっと」
そう言われると、確かにそういった部分もある。百合は本を見つめるとゆっくりと息を吐いた。
「面倒臭いと思うかもしれないけど、手紙の書き方って覚えて損はないと思うよ? 教養がないと今時は特に書けないからね。だから返事寄越せって最後に書いといたらいいよ。見せてくれたら赤字で添削してあげるから」
「他人宛の手紙を添削とは悪趣味じゃのう……」
「今時の若い子にこんな厄介なものをねだる男の手紙、読んでみたくない?」
「……まあ、興味はあるがのう」
二人がいたずらっぽく笑い合っている。その顔がよく似ていて流石、親子だと思った。
「便箋も、女の子らしい可愛いものとかあるから、色々見て回ると楽しいと思うよ? まあ、こればっかりは好みになるとは思うけど……極端に季節感を外すような便箋でなければ何でも良いと思うし……」
中々に、奥の深いこの手紙という二文字に百合は目眩がしそうになった。友達同士で手紙のやり取りを一度かニ度くらいはした覚えがあるが、ノートの切れ端に要件だけ書いたものだった。だから明神に手紙が欲しいと言われた時、そんなもので良いのかと驚いたのだが、まさかここまで手間のかかるものとは思っていなかった。けれども智弥の話しを聞く限り、少し難しそうではあるが、楽しそうだと思った。
ーー一週間が経った。明神は台所の壁に掛けたカレンダーを眺めながらそう思った。百合に欲しいものはないかと聞かれ、手紙を要求したのだが、あれから特に変わった様子はない。学校はテスト期間中で昼で終わるのだが、それを良い事に時間がある時にどうやら橋本家に行っているようだ。何か作る練習をしているようだが、聞かないことにしていた。
午前中は毎週の通り、クレハの相手をして華道をしていた。毎週違う事をするのもどうかと思うと愚痴を零したら、
「相手を飽きさせない様に魅了すのも教える側の努め。教えを請う姿勢さえ身に着けてしまえば何処に出しても恥をかくことなどないでしょう。そもそも、何かを身につけるつもりで私に頼むのであれば、週一と言わず、毎日指導します」
なんて言われた日にはクレハに頼んだのは間違いだっただろうかと思った。けれども百合も嫌がっていないようなので放っておいている。クレハの趣味に付き合ってくれる貴重な子なのでそれこそ自分の娘みたいに可愛がっていた。
昼からはまた、橋本家に遊びに行っているらしい。
居間に入ると、ちゃぶ台の前に腰掛けた。テスト範囲の問題集を見つめながらよく一ヶ月程でここまで勉強したと思う。元々頭が悪い訳ではなくて、勉強の仕方を知らなかっただけだろう。時間があれば予習までしてほしいのだが、やりたいことがあるなら、それに集中するのもまあ良いだろうとは思う。勉強が疎かになったら困るが……そこはちゃんと考えているらしい。解らない所はちゃんと解らないと素直に言える所が彼女の良い所だと思う。
不意に天井を見上げて溜息を吐いた。
手紙が欲しいと言った時の彼女の様子から察するに、手紙に対して拒否反応がなかったから、気軽な気持ちで書けるものだと思っていた。まあ今時の若い子に漏れなく、形式張った書き方など出来はしないだろうと思っていたのだが、それにしても一週間経ってもくれないと言うことは忘れてしまっているのだろう。自分から聞いておいて忘れてしまうなんてことはないとは思うが、どっかの老人から手紙のなんたるかをこんこんと聞かされて、書くのが面倒臭くなったのかもしれない。だから別にそれはそれで良いのだ。特に何か期待していたわけではないし、彼女の気持ちを何か形に残せるのならばと思いついたのが偶々手紙だったと言うだけだ。だから別に……と考えて目を伏せた。自分でも気付かないうちにそれほど期待していたのかと嫌気がさす。
精々、一言「ありがとう」と書いているだけのノートの切れ端を想像していまう。そんなものを渡されたらこれは手紙じゃないと、自分なら突き返すだろう。そうなると今の関係がぎくしゃくしたものになってしまうだろうから、そこは大人しく受け取っておくべきか……自分から欲しいと強請しておいて、いざ貰ったら違うと言うと子供っぽいなぁと思う。まあ、そもそもそんな紙切れ一枚で相手の気持ちを確かめようなどとあざとい事を考えるから、自らどつぼに嵌ってしまう。
くれ縁に出て庭を眺めた。クレハが植えていた瓔珞草が薄い桃色の花を咲かせている。花言葉は「片思い」「未熟」「恋の悩み」「繊細」……そう考えて、自分は病んでいるなぁと溜息を吐く。手紙なんかをねだるんじゃなかったと今更後悔していた。
「明神くん」
ふと、百合に呼ばれて振り返った。くれ縁を歩いて近付いて来た百合が小さな箱と手紙を差し出している。
「いつもありがとう」
にこりと笑った彼女から受け取ると、少し戸惑った。
何で今頃? と言いかけたが飲み込む。否、頼んだ時に期限を切らなかった自分も悪い。
「開けてみて」
貰って直ぐに、くれた本人の前で開けるのは失礼かと思ったが、百合にそう言われて居間に入った。卓袱台の上に一度置いて畳の上に座ると、百合も隣に座り込む。麻の紐で几帳結びされていたのを、解かないようにそっと紐を外した。この紐の結び方も、クレハから教わったのだろう。苦労しただろうと思って解くのを躊躇った。掌くらいの大きさの箱を開けると、パウンドケーキが顔を出す。ドライフルーツが沢山入った四角いケーキは作り立てなのかまだ少し温かかった。
「ありがとう」
「手紙も読んで」
真っ直ぐな眼差しでそう言われ、少し目を伏せた。
「後で……」
「え〜」
普通は自分が書いた手紙を眼の前で読まれたら恥ずかしいだろうと気を使ったつもりだったのだが、百合が残念そうに言うので封筒を開いた。レースをあしらった封筒の中に二枚便箋が入れられている。二枚目は白紙だが、一枚目にはちゃんと文字が書かれていた。明神はそれを瞳で追うと、堪えきれなくなって吹き出すように笑った。百合は始めて見る明神の笑顔に驚き、戸惑った。
「え、何か変だった?」
「いや、別に」
口元を抑えて手紙を持ったまま台所に立った。想像していたものを遥かに凌駕していて言葉も無い。これが女子中学生からの手紙だなどと、傍から見たら分からないだろう。
紅茶を淹れて戻ると、ティーカップを卓袱台に並べて座り込んだ。
「ありがとう」
明神はそう言うと、丁寧に手紙を封筒に戻していた。ケーキを切り分けて皿に乗せると百合の目の前に並べる。百合も座布団を出し、その場に座り直した。
「春香さんと一緒に作ったの。中々上手くいかなくて……すごく遅くなっちゃったんだけど、お誕生日おめでとう」
百合の言葉に明神は軽く頷いてみせた。いつも伏し目がちな瞳が、真っ直ぐ百合を見つめる。百合はそれに気付いて首を傾げた。
「どうしたの?」
何か言いたげな瞳に問いかけたが、明神は目をそらした。
「上手に書いてたなと」
丁寧な書き方からして手紙を書き慣れているといった印象は無かったが、よく調べて書かれていたと思う。これを書くのに一週間もかけて自分なりに調べて清書したのかと思うと何だか気恥ずかしい。
「本当に笑うとは思わなかった」
百合が不思議そうに言うと、明神は瞳を宙に投げた。別に字が下手だとか文章がおかしいといった意味で笑ったわけではなかった。
ご笑納頂けると幸いです。
という文章がツボに嵌まった。
「……滅多に見ることない文章に驚いた」
完全に不意を突かれてしまった。笑ったのは何年ぶりだろうかと首を傾げる。
「本屋さんのお爺さんに教えてもらったの。最初は難しそうって思ったけど、手紙の書き方の本を読んでたらね、何だか楽しくなって来て……」
成程、まあそうだろうとは思ったが、最近流行りのギャル文字だとか絵文字を書かれなくてほっとする。そこはちゃんと配慮してもらえて素直に嬉しい。
「その……手紙の返事とかって貰えるかな?」
百合が気まずそうに言うと、明神は瞳を宙に投げた。何も言わずに居間を出ると、和紙と筆を取り、慣れた手付きで早々に書き上げた。五分程で戻って封書を差し出すと、百合は目を丸くした。
「早っ」
百合は受け取るとその場で手紙を開いた。白い和紙に、金粉が散りばめられている。
「ごめん、何て書いてあるの?」
字は綺麗なのだが、難しい漢字が並んでいてよく解らない。
「蝉時雨の候、花笑みの君におかれましては益々生彩の事とお慶び申し上げます……蝉時雨は夏の季語。生彩は元気という意味」
「花笑みは?」
百合に聞かれ、明神は視線を落とした。文章の前後で大体察しろとも思ったが、少し意地悪をしすぎたかと思った。
「古語で……」
「あ、ごめん。やっぱりいい。自分で調べる!」
百合がそう言うと明神は安心して頷いた。流石に、全部自分が書いた手紙を読み上げて解説するのは恥ずかしかった。
「ケーキ、食べよっか」
促されるまま座布団に端座した。
「ごめんね。いつも飲み物にお砂糖入れないから、甘いものが苦手なのかと思って、お砂糖減らしてみたり、黒糖で試してみたり色々してたら時間掛かっちゃって……」
この一週間、自分の事を思い続けてくれたんじゃないだろうかと自惚れていた数秒前の自分を殴りたくなった。が、違う意味で自分のことを考えていてくれたのだろう。
「すまない。余計な気苦労をかけてしまった」
百合が少し不満そうな顔をした。何か不快にさせるようなことを言ってしまっただろうかと訝る。
「……明神くんが喜んでくれるかなと思ったんだけど」
「嬉しいよ」
表情が乏しいせいで要らぬ心配をさせてしまっているのだろうか……ただ、それは今に始まったことではないので多分、そこではないだろう。
「……明神くん、私に何か隠していることない?」
問い質されて少し戸惑った。思い当たる節があり過ぎる。
「……別に……」
「じゃあ、私に対して後ろめたいって思わなくて良いんだよ?」
百合の言葉にそっと目を伏せた。
「私、一緒に住もうって言ってくれた時、すごく嬉しかったよ? ミシンの使い方教えて貰えて、自分でTシャツ縫えた時、すごく嬉しかった。色んなこと教えて貰って、今まで出来なかったことが出来るようになって、毎日楽しい。でも、明神くんはいつも何かに怯えているみたい。さっき手紙読んだ時みたいに笑っててほしいのに、いつも表情が変わらない。言うことも何処か保護者みたいな、大人ぶったことしか言わない。手紙が欲しいって言われた時、親が文字を覚えたての子供に言うような感覚なんじゃないかと思った。私がお金を持ってないことを気にしてそう言ったんだと思った」
そんなつもりは無かったと言いたいが、強ち間違っていないので否定出来ない。
「すまない」
「子供扱いしてほしくない」
百合の真っ直ぐな瞳が、涙を含んでいた。
「……そういうことを言うな。別に子供扱いなんかしてない」
「してるよ」
「お前は俺の恋人になりたいわけではないだろ?」
明神の質問に百合が頬を赤くした。その表情を見て瞳を宙に投げる。
「相手に勘違いさせるような事を言うな」
「勘違いしてよ!」
怒鳴って立ち上がった百合が悔しそうに唇を噛みしめている。明神は自分の小賢しい目論見に彼女は気付いていたのだと察した。
「手紙が欲しいと言ったのは、感謝の気持ちを相手に伝えるツールとしてこういう方法もあると提案しただけだ。それを、面倒な男だとあしらっておけば良いのに、律儀に自分で調べて丁寧に書いていたから、他人を思い遣ることの出来る健気な子だと思う。だからこそ、今の俺には勿体ない」
百合の目から涙が溢れると遣る瀬無い気持ちになった。彼女の気持ちが鬱陶しかったわけではないのに、素直に喜べない自分が口惜しい。彼女が居間を出て行ってしまうと、明神は溜息を吐いた。蝿帳を取ってきてケーキと紅茶に被せると、玄関の引き戸の音が遠くで聞こえた。少し一人にしてやった方が良いだろうと思う気持ちと、追いかけたい気持ちが拮抗する。けれども引き止めて、何を言ってやれば彼女が納得するのか分からない。大事にしたい気持ちはあるのに、別れが辛くなると思って二の足を踏んでしまう。彼女にとっては関係ないことだから、自分の問題を相手にすり替えるのは良くない。だから自分が悪い。こんな自分に、真っ直ぐ想いを馳せてくれる稀有な子は多分もう居ないだろう。だからこそ、彼女には自分のようなつまらない男に現を抜かさずに幸せになってもらいたかった。
縁側に出て心の中の靄をどうにか晴らしたかった。気に掛かっていた事が今更、再び浮上する。扇を取り出して開くと勢い良く振り下ろした。
「クレハ」
名前を呼ぶと朱色の羽織を着た女性が庭先に姿を現す。クレハは軽く頭を下げると、明神を見つめた。
「こちらに」
「……今、彼女が使っている部屋、あの部屋だけ内側から鍵がかかるけど……あの部屋、俺の兄貴が使ってた?」
クレハの表情があからさまに曇った。否定してほしいのに図星を刺された様な顔をしている。
「……思い出したのですか?」
悲しそうな顔をするクレハを見ていられなかった。その表情だけで全て悟ってしまう自分が悔しい。ずっとこの屋敷に居たクレハが知らないはずがない。知っていて黙っていたのは明神の為だということも分かる。けれどもそれがどれほど残酷なことなのかもクレハは分かっているはずだ。
「いや……何も」
何か兄との記憶が思い起こされたわけではなかったのだが、智弥に腕を掴まれた時、静電気が走ったような感覚があった。そして、彼の命令には従わなければならないと心の底で思った。それが何故なのか分からなかった。
「十年前、兄貴は俺に何をした?」
明神の質問にクレハは首を横に振った。その様子に溜息を吐く。覚えてすらいないのに、その存在があるというだけで無性に腹立たしかった。
「あくまで、本来なら跡取りが兄貴だから俺の質問には答えられないということか?」
「そんな事……」
一度は否定しようとしたが、クレハは思い止まった。
「……おっしゃる通りです」
クレハが頭を下げると明神は怒りを抑えて溜息を吐いた。
「お前だけは俺のことを理解してくれていると思っていた」
クレハが複雑そうな表情を浮かべたまま、一礼して姿を消した。何故か裏切られた気分だった。最初から自分に居場所など無かったのだと突き放されたような……こんなことなら聞かなければ良かったと後悔する。何も知らないまま十年前に死んでおきたかった。誰も居なくなった庭に鈴下駄の音が響くと明神は戸惑いながらも玄関へ向かった。
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