第3話 旅行

 窓の外は一面真っ白な霧に包まれていた。人影はなく、まだ辺りは薄暗い。明神は軽自動車の後部座席に座って窓の外をぼうっと眺めていた。夜通しずっと運転をしていた直人の母親が椅子を四五度くらいに倒して寝ている。その隣の助手席では直人が椅子を七十度くらいに倒して偶に鼾をかいていた。車の窓が微かに空いていて、涼しい風が時折車の中を撫でるように駆け抜けていた。

 隣のクラスの橋本 直人が一緒に遊園地へ行こうと言ってきたのは金曜日の朝だった。また藪から棒に……と思っていたらそれを聞いた百合が嬉々として目を輝かせたので明神は渋々了承した。金曜日の夜に出発するのだと聞いて夜行バスにでも乗るものと思っていたら、直人の母親が運転する軽自動車で行くのだと知って百合の様子を伺った。百合はそんなことを気にも止めていないらしく、彼女がそれで良いのならばと乗り込んだ。けれども車中は狭く、夜の八時を過ぎて走り出した車はじりじりと車通りの無くなった峠道を越え、フェリーに乗って小さな海を渡り、そしてまたのろのろと慣れない道を走って行く。何度かパーキングエリアにも止まったが、流石にはしゃいでいた百合も深夜を過ぎると眠りに落ちていた。最初は助手席に座っていたので、椅子を倒しても良いと直人の母が言ったのだが、後ろに座っていた直人に気を遣って倒さずにいた。その状態で舟を漕いでいたものだから直人の母が一度車を路肩に止め、百合と直人の座る場所を交換させたのだ。

 眠気眼の彼女の肩を引き寄せると、明神はそっと彼女の頭を自分の膝に乗せた。荷台にあった毛布を掛けて、恥ずかしそうに顔を赤らめている百合の顔に帽子を被せると直に眠ってしまったらしい。車が再び動き出して何度目かの信号で止まった時に帽子が落ちたが、すっかり眠りこけている百合の顔に目を伏せた。

「明神て、そういうこと普通に出来るのな」

 静まり返った車中に直人の声が響いた。

「あんたは恥ずかしがって手も握れないものね」

 誂うように母が言うと直人がそっぽを向いていた。窓の外は真っ暗で、街灯も疎らだ。

「……今寝れなかったら、昼間眠くて楽しめないだろうと思ったんだが」

 いつもの、心の底が読めない顔で明神が呟いた。

「そういう意味じゃなくて……やっぱりなんかズレてるんだよなぁ……」

 溜息混じりに直人が呟くが、明神にはその意味がよく分からなかった。何を恥ずかしがる必要があるのかと瞳を天井に投げるが、直人なりの、思春期の葛藤か何かを自分に当てはめられたのだろうと思う。

「だからね、明神くんはそういう子なのよ」

 いつものように直人の母がそう言った。明神は膝で寝ている百合に視線を落とした。そっと髪を撫でると絹糸のように柔かだった。日本人形のような長い黒髪に嫉妬に似た感情が湧く。このまま目が開かないまま時が止まってくれないだろうかと思った。目が開かなければ嫌がられないし、嫌われていても分かりはしない。勝手に何処かへ行ってしまう心配もないし、傷付けることもない。そう思う自分は多分、普通とは違うのだろう。個性だと言われれば聞こえは良いかもしれないが、そういった所をズレていると直人は言ったのだろう。

「でも、毎回断られるのによく付いてきてくれたわね」

「明神を誘いに行った時に古夜ちゃんがすごい興味津々だったんだよ。それで冗談半分で古夜ちゃんも行かない? って誘ったら明神と目を合わすからさ……お前ら付き合ってるの?」

 直人が振り返ると、明神は百合を撫でていた手を引っ込めた。

「そういうことを軽々しく口にするな。彼女が迷惑だろ」

「だから……」

「そんなこと聞くのは野暮よ。別にいいじゃない。付き合ってなくても仲が良ければ……」

 母に制されて直人は不貞腐れていた。

「どうせ中学にもなってお母さんと遊園地に行くだなんてマザコンだとか言われたんでしょ。だからって明神くんに当たらないの!」

「何で知ってんだよ」

「去年だったか、クラスメイトに言われたって言って、行かなかったじゃない。仕方ないから伊勢神宮へのお参り旅行にしたのよ。あんたがわがまま言うから」

 直人の母が呆れ気味に話した。

「十年ぶりなのよね。明神くんと遊園地へ行くの。あの頃は遊園地は嫌だとか二人共、文句言わなかったのに」

「え? うそ、覚えてない」

「そりゃそうよ。あんた三歳だもの。明神くんのお母さんと四人で行ったのよ」

「あのさ」

 ふと、背後から声がして直人の母はバックミラー越しに明神を見た。明神の顔はいつも通りだが、不穏な空気が漂っている。

「そういう話は俺の前でするな」

「何だよ。別にいいじゃん」

「ごめんね。ちょっと煩かったよね。直人、あんたも寝ちゃいなさい」

 母が笑みを浮かべてそう言った。直人は頬を膨らませて不満そうにしていたが、車に揺られながらやがて眠りに落ちていた。

「明神くんも寝なさいよ」

「……あんたが事故ったら嫌だから起きてる」

「相変わらず心配性なのね」

 明神の言葉を嫌味と受け取らない直人の母親に溜息を吐いた。心配性……と言うよりも、相手を信用していないと言った方が正解だろう。明け方近くに目的地に着いて、駐車場に車を停めると直人の母は椅子を少し倒した。

「もう運転しないからね」

「窓閉めとけ」

 明神に言われて直人の母はクーラーの代わりに少し開けておいた窓を見た。開いていると言っても精々五センチくらいな上に、サイドバイザーがあるので大した隙間ではない。少々の雨なら吹き込んだりはしないだろう。

「このくらいなら大丈夫よ」

「火のついたタバコ放り込まれるぞ」

 明神の言葉に直人の母は目を丸くした。

「そんなことする人居ないわよ」

「魔が差す事もあるだろ。自衛と言うのは自分の身を守ることは勿論だが、相手に罪を犯させない様に配慮することでもあると思う」

 バックミラー越しに見る明神の顔はいつもの、何処かつまらなそうな表情だった。

「何だか息苦しそうよ」

「俺一人ならまだしも、直人も居るんだからそれくらい考えろ」

 そう言われて直人の母は窓の隙間を細くした。完全に閉めなかったのはせめてもの反抗だったのだが、明神はそれ以上何も言わなかった。

 それから皆寝静まったが、明神はずっと窓の外を伺っていた。日が登ったのか辺りがぼんやりと明るくなり始める。白い霧で少し先の景色すら伺い知る事が出来なかった。

「こんな所で車中泊とか信じられん」

 車の外に座っていた右慶が呟いた。車の屋根の上に清が座っている気配がする。その清が、屋根の上から右慶を見下ろしている。にこりと微笑むと飛んできた虻を手で払い除けた。清の手に触れて飛ばされた虻が角の生えた異形の姿に変わる。擬態を解かれた小鬼が悲鳴を上げてそそくさと逃げて行った。

「里の外に出たら何が起こるか分からんぞ? 雑魚妖怪くらいならまだしも、陰陽師なんかにでも鉢合わせたらどうするつもりだ? 今の身体の呪詛や鬼に気付かれて殺されかねないのに。どうかしている」

 霧の中から現れた百足を数えながら右慶が呟いた。結界に足止めされて、一定の距離を保ったままそこで足踏みしている。日が登り始めたので大分数は減ったが、それでも二十匹くらいが車の周りを彷徨いている。

「陰陽師は怖いですか?」

 清が不意に聞くと、右慶は清を一瞥してから目を伏せた。何か思い出したのか、口籠った。

「陰陽師が、と言うよりも……人というものは恐ろしい生き物なんだ」

 右慶が苦虫を噛み潰した様な顔をして呟いた。清はそんな右慶の隣に座り込むとそっと頭を撫でたが、右慶はうざったそうに手を払い除けた。



 百合が目を覚ますと車が止まっていた。帽子は下に落ちていて、直人も直人の母も椅子を倒して寝ている。

「起きたか」

 視線を飛ばすと明神と目が合った。そっと起き上がると小声で話しかける。

「ごめんね。明神くん寝れなかったんじゃない?」

「いや……」

 そう言って目を伏せる顔がどことなく寂しそうだった。窓の外は霧が出ていて真っ白だ。直人と直人の母がまだ寝ているので静かにしていた方が良いとは思うが、沈黙に耐えきれなくなって小声で囁いた。

「良い人たちだね」

 返事はないが続ける。

「私のお母さんもこんな人だったら良かったのにな」

 まるで友達の様に仲の良い直人親子が羨ましかった。世の中って悉く理不尽だと思う。

「親である前に人なんだから、合う合わないがあって当然だろう」

「……そうだね」

 共感してほしかったのだが、明神が百合の家庭の事情を知るわけがないと思っているのでそう返した。

「明神くんのお母さんはどんな人?」

 なんの気無しに聞くと、彼は考え事をするように瞳を宙に投げた。何か母親とのエピソードが聞けるのかと期待してしまう。

「……さあ?」

 思っていた返答と違って百合は目を丸くした。前にも厳しい人だったのか聞いた時、似たような回答だった。

「覚えてない」

 表情が変わらないので母親の事を聞かれて不快に思ったのか、嬉しかったのか分からない。

「春香が俺の母親の姪にあたるらしいから似たような感じなんじゃないかとは思う」

 と言って何か思い出したらしい。春香は直人の母の名前だ。

「前言撤回」

「何でよ?!」

 起きていたのか、直人の母が勢い良くこっちを振り向いた。隣で寝ていた直人が驚いて飛び起きる。

「参観日に猫のキャラクターがついた普段着で来るような母親嫌だなと」

「こんにちは白猫ちゃんは全国民に愛されたキャラクターなのよ!」

「趣味に言及する気はないがTPOを弁えろと言っているんだ」

「きー! 反論できないのが悔しい!!」

「何かと思ったら……あ〜あ、腹減った」

 直人が欠伸をすると何処かの喫茶店に入ろうと言う事になった。遊園地の開演時間までまだ少しあるので軽食を済ませると、直人の母が一番乗りで遊園地に向かう。

「ごめんな。俺は大阪の遊園地行きたかったんだけど母さんがどうしてもこっちって言うから……」

 直人が申し訳無さそうに言うが、百合は目を瞬かせる。

「え、全然。私、遊園地初めてだから……」

 百合の言葉に直人がびっくりして目を丸くする。

「初めて? 小五の時に修学旅行とかで行かなかった?」

「お父さんの転勤と重なって行けなかったんだよね」

 それを聞いて尚更不憫そうな顔をする。チケットを買って来た母が一枚ずつ皆に配ると踵を返して遊園地の入口に立つ。

「さあっ楽しむわよ!」

 おー! と一人で拳を振り上げるが周りの反応など気にせず歩き出す。百合も嬉しそうについていくのを眺めながら直人は明神と一緒に歩き出した。遊園地に入ると女子がはしゃいでいる。遠目に見たら仲の良い親子だ。どの乗り物に乗るか園内の地図を片手に話している。直人も輪に入るが、明神は少し離れた所から楽しげな三人を眺めていた。



 直人の提案でジェットコースターに乗るまでは順調だったのだが、百合は初めての乗り物酔いで気持ちが悪くなったらしい。直人と直人の母はお土産を買ってくると言うので明神が付き添っている。まだ乗っていない乗り物があるからと無理をしようとする百合を窘めながら空を見上げていた。灰色の雲が空を覆っている。そこここに配置された遊具や乗り物から賑やかな音が鳴り響いていた。こういう煩い所に来ることが無いので少し耳が痛い。ベンチに横になっている百合の額に手を当てていた清が心配そうにこっちに視線を投げた。清は治癒に特化した式神なので百合の気の流れを整えてくれている。昼の間は休んでいて良いと言ったのだが、心配性な所は明神に似てしまったらしい。右慶も、なんだかんだ文句を言いながら周りに目を光らせていた。

「明神くんは大丈夫?」

 百合に話しかけられたが、一瞬聞き取れなかった。数秒経ってからやっと彼女の言葉を理解する。

「……ああ」

「観覧車」

 彼女の言葉に視線を落とす。大分顔色が戻っていた。身体を起こしてベンチに座り直すと、清も笑って百合から手を離した。

「一緒に乗ろう?」

 百合に手を引かれて明神も歩き出す。観覧車に乗ると外の音が遠くに聞こえて静かだった。

「耳、大丈夫?」

 百合に言われて少し戸惑った。気付かれたことが少し恥ずかしい。

「ああ」

「ゲームセンターに入った時からなんか様子変だったから」

 直人の母が、巨大なぬいぐるみを釣り上げるのだとクレーンゲームに張り付いていた。千円擦った所で止めたのだが、あまりに恨めしそうな顔をするので園内のショップで買ってやると言ったら思っていたよりも高くて後悔した。が、言ってしまったものは仕方がない。慣れなのだろうが、あの騒音の中でよく平気でいられるものだと感心してしまう。

 観覧車が登って行くにつれ、さっきまで建物が模型みたいだとはしゃいでいた百合が静かになった。どうしたのかと顔色を伺うとまた真っ青になっている。

「高い……」

 どうやら思ったよりも高くまで上って怖くなったらしい。

「真下じゃなくて、遠くの景色を見ればいくらかましだろう」

 提案してみるが、窓の所にしがみついて動けなくなっている。まるで怯えたハムスターみたいだなぁと思いつつ彼女の隣に座る。ゴンドラが少し揺れて再び百合が怖がって肩を竦めた。

「虹」

「え! うそ、何処?!」

 彼女が嬉々として窓から空を見上げる。怖いのを押し殺して虹を探すが見つからない。明神の顔を伺うが、表情が変わらない。

「嘘?」

「虹は雨が降らなきゃ出来ないんだ」

 そう言って明神が空を指し示した。百合もその方向を見つめると遠くに霧の様な雨が降っている。小さく虹の色が顔を出し、雲の切れ間から溢れた陽の光に当たって大きな半円が空に架かると百合は瞳を輝かせた。

「すごい……綺麗……」

 灰色の雲の切れ間から真珠に似た光を放つ雲が見え隠れしている。幾つもの光芒が差し込み、空に鮮やかな虹を浮かび上がらせた。虹から離れた細かい雨粒が宝石の様に煌めいて空から降ってくる。その空にうっとりと見惚れていると、気づいたら一周回り終わって下りる所だった。観覧車から降りてからも空の虹を探すが空が曇って見当たらない。明神を振り返るが、彼は何事も無かったかのような顔をしている。

「明神くんて不思議な人だよね」

 明神は瞳を空へ飛ばした。

「……そうか」

 直人たちと合流して再び園内を周る。キャラクターの劇や夜のイルミネーションを見終わってから母は満足そうに「帰ろう」と言い出した。直人も百合も疲れたのか賛成している。

「二人はお土産買わなくて良かったの?」

「誰に買うんだ?」

「自分によ」

 そう言ってさっき明神に買ってもらった巨大ぬいぐるみを見せびらかす。白い毛色の猫が、両耳にピンクのリボンをつけ、フリルのついたピンクの可愛らしい服を着ている。スカートの部分にリボンが沢山ついているのが少し鬱陶しい。

「……邪魔になるからいい」

 あの巨大ぬいぐるみが部屋の一角を占領すると考えると嫌だ。

「私も大丈夫ですから」

 百合もそう言うが、彼女の場合は遠慮しているのだろう。「欲しかったら買ってやる」とは言っておいたのだが、結局ジュースや人形焼き程度で終わってしまった。適当に買い与えても良かったのだが、どうも自分の趣味に合わないので、相手もこういうものが好きなのかどうか悩ましい。

 結局何も買わないまま車に乗り込むと、助手席に座った百合が巨大ぬいぐるみを抱きかかえる形になった。そのせいで前が見えない。車の荷台もお土産や雑貨でいっぱいになっている。

 一時間程して、今度はホテルの駐車場に車を停めた。

「たまたま二部屋とれたから女の子チームと男の子チームで別れて寝ようね〜」

 母は巨大ぬいぐるみを抱えて百合にそう話しかけた。陽気な母に連れられてホテルに荷物を置くと女子は二人で露天風呂に行くらしい。二人に着いていく清が嬉しそうにしている。

「俺も行く! な、明神も行こうぜ?」

「俺はいい」

 直人がえ〜……と眉根を寄せて不服そうな顔をした。

「折角来たんだからさ」

「お前だけ行ってくれば良いだろ。俺は部屋のシャワー使うからいい」

 もう一度食い下がろうかと思ったが、直人はそれ以上何も言わなかった。母と百合と一緒に露天風呂に向かう。廊下で待っていた母と百合に愚痴ると、母は考えるように部屋のドアを見つめた。

「湿布でも貼っとけば目立たないと思うんだけどね」

 母がぽつりと言ったので直人はその手があったかと踵を返したが、母に止められた。

「まあ、無理強いしなくていいわよ。あの歳で湿布貼っててもなんか目立つし」

「湿布?」

 肩こりとか打ち身ならそれこそ温泉に入った方が良いと思った百合が首を傾げた。

「あの子、小さい頃に怪我した所を気にしてるのよ。胸と背中にね。ちょっと目立つから」

 直人の母の言葉に百合はそっと目を伏せた。


明神が部屋のシャワー室から出ると、右慶は壁に向かってお行儀よく座っていた。部屋にはベッドが二つ並べられていて、二つの間に小さなサイドテーブルが置かれている。床は一面カーペットが敷かれていて、窓際に小さなテーブルとソファが置かれていた。ベッドの反対側の壁に掛けられた大きな薄型テレビに、壁に向かって座り込んでいる右慶の背中が映り込んでいる。カーテン越しに外のイルミネーションが瞬きするように光っていた。

 明神が浴室に入っている間、ベッドの上で右慶が跳ねる音が聞こえていた。家には布団しかないので初めて見るものにはしゃぐ気持ちが解らなくもないが、ホテルの物を壊されては困る。そう思って叱ったら静かになっていた。長生きしていると言っても中身は子供じみた所があると思う。

「別に遊んでいた訳ではないですよ? ちょっと耐久性を……」

「心配するな。狛も直人の家でしていた」

「だから違うと言っているじゃないですか!」

 いつもは一番年上だという自負があって自制しているのだろう。顔を真っ赤にして必死に弁明する右慶にお茶を差し出した。右慶はそれを飲むと少し落ち着いたらしい。

「体調は?」

「あまり良くない」

「だから里に居れば良かったものを……」

 と、言いつつ右慶も心底この旅行を楽しんでいたのでそこで言葉を止めた。明神が扇子を差し出すと、右慶は総竹扇を開いて眺めた。虎斑竹独特の斑点が見えなくなるほどに扇子が黒くなっている。右慶が息を吹きかけると黒い色が抜けて斑点が金色になった。

 右慶は明神の左手を取ると気の流れを診ていた。

「綺麗な手だな」

「そうか?」

「俺が初めて主人に会った時の手はこんなんじゃなかった」

 右慶は思い出した様に話し始めた。

「気の流れこそ落ち着いていたが、酷く手が荒れていた。皹が痛々しくて、青痣があった。齢五つの子の手とは思えないものだった」

 右慶の話に明神は黙って耳を傾けていた。

「雪の降る寒い季節に素服を着て素足で彷徨く姿はそれこそ他の者の眼には異質に映っただろう。あれが鬼に変わったと言うのなら致し方ないとは思う」

 右慶は明神の手に扇子を乗せた。素服は所謂庶民の喪服で、染めていない粗末な着物のことだ。

「俺は事情があって直ぐに封印されたからあいつの幼少期しか知らない。だから何故鬼になったのかなんて想像することしか出来ないが、まあ、クレハの話を聞く限りでは狂わされたんだろうな」

 意味ありげに右慶は明神の顔を見つめた。明神の表情は終始涼しげで変わらない。

「女は怖いぞ? かく言う俺がこの身体になったのも女のせいだからな」

 そう言いながらも、言葉とは裏腹に嬉しそうに笑った。

「これは俺の勝手な願いだが、彦にはあいつみたいになってほしくない。だからもっと自分を大切にして貰いたい」

「だから、鬼になる前に首を斬り落とせと言っている」

「あのなぁ……」

 呆れた様に右慶が溜息を吐いた。明神はそんな右慶の頭を優しく撫でていた。



 バイキングで夕食を食べている時に直人の母はビールをジョッキで八杯飲んでいた。流石に飲み過ぎだと明神が諌めるが、もう今日は車を運転しないから良いのだと言ってチューハイも三杯追加した所で倒れた。みんな食事は終わっていたので、酔い潰れた直人の母を直人と明神が運ぶ。部屋のベッドに寝かせて明神と直人が隣の部屋に戻ると直人はベッドに飛び込んだ。

「疲れた〜」

 明神もベッドに腰掛けると窓を眺めていた。カーテン越しにイルミネーションの明かりが代わる代わる色を変えている。温泉の地熱を利用しているとフロントの人が説明していたので夜の間中光っているのだろう。

「なあな、百合ちゃん良い子だよな」

 こちらに背を向けている明神に声をかけた。何か考え事をしていたのか、返事が少し遅い。

「ああ……」

「明神は百合ちゃんのことどう思う?」

 溜息の様な返事に物足りなさを感じてそう問い質すと、明神がやっとこっちを向いてベッドの上に正座した。

「よく笑う子だなと」

「そうじゃなくて……」

 大して意識していないのだろうが、直人は聞いていいものかどうか迷いながら頭をかいた。大きめの枕を抱え、照れくさくて天井と床を交互に見やる。

「今日、ずっと百合ちゃんのこと見てたから、好きなのかなって」

 表情はいつも通りの少し眠たそうな顔をしている。だから照れているのか、怒っているのか直人には分からなかった。

「……あのさ、他人から預かっている子なんだから無傷で帰すのが最低条件だろ」

 直人はそれを聞いて目を丸くした。同級生の恋愛とは違うその気持ちに違和感さえ覚えた。

「え〜、てっきりそうだと思ってた」

「そういうことを軽々しく言うな。彼女に失礼だろ」

 彼女……直人にとってこの言葉は付き合っている女の子、所謂ガールフレンドと言う意味だと思っていたのだが、一人の女性と言う意味で明神は使っている。そういうところが少し自分とはずれていることを知っていた。普通、他の同級生だったらこの手の話は皆、赤面しながら盛り上がるのだが、彼の表情は写真でも貼り付けているのかと思うくらい変わらない。

「まあ、俺も付き合うならもう少し胸が大きいお姉さんがいいな」

 少しふざけてそう言ったのだが、明神は割と冗談を真に受ける節がある。

「お前、嫌われるぞ」

「冗談だよ。何でそこ本気にするかなぁ……」

 他のクラスメイトと話している時はそう言うと盛り上がるのだが、明神相手だと同い年と話をしている気がしない。

「明神は付き合うならどんな子がタイプ?」

「……あのさ」

 呆れたように明神は口を開いた。何か言いかけて口籠ったが息を吐く。

「……何も言わなくて動かない女がいい」

「は?」

 意外な答えに言葉が出て来なかった。

「何それ、人形?」

 そう聞いた時、明神の眉根が一瞬歪んだ。珍しく感情の片鱗が表情に現れたと思う。

「花みたいな女がいい」

 直人はその言葉の意味がよく分からなくて首を傾げた。確かに花は喋らないし、動いたりしない。

「それってつまらないと思う」

 それだけ言って布団を被った。今日だって、百合がはしゃぐ姿をずっと明神は見ていた。表情は変わらなかったが、嬉しかったんじゃないかと直人は思っていた。



 百合は真夜中に目が覚めてしまった。というのも、トイレに起きた直人の母の物音で覚醒してしまったのだ。春香もそれに気付いて申し訳無さそうにする。

「ごめんね。起こしちゃったね。ちょっといい?」

 そう言って直人の母はお茶を淹れた。窓の脇に置かれた小さなテーブルに湯呑を二つ置くと、ソファに腰掛けて隣に座るように手招きする。百合はソファに座って温かいお茶を啜った。ほんのりと金木犀の香りがして少し不思議だった。

「年甲斐もなくはしゃいじゃってごめんなさいね。もうなんだか嬉しくて……」

「そんな、全然! 私、こんなに楽しかったの初めてで、寧ろお礼を言い尽くせないくらいで……」

 百合の言葉に春香はほっとしていた。カーテン越しに外のイルミネーションが仄暗く光っている。テレビの画面下についたデジタル時計は夜中の二時を報せていた。

「嫌な思いさせてたら悪いと思ってたんだけど、良かった」

「明神くんに色々と助けてもらいましたしね」

 百合が笑うと春香はどことなく悲しげな表情を浮かべて息を吐いた。

「あの子があんな風になっちゃったのは半分は私のせいなの。だから罪滅ぼしも兼ねて一緒に暮らそうって何度も誘ってるんだけどね。あの子の性格で不快な思いをしたら私が謝るから許してね」

「何があったんですか?」

「私も詳しいことは分からないんだけどね。あの子が三歳……四歳になる年の春だったわ。あの子のお母さんとよくお茶しててね。子供も同い年だったし、春から幼稚園に通わせるって話をしていたのを覚えてる。何れあの屋敷から家族みんなで引っ越す予定だって嬉しそうに話していたの」

 そこまで話して、春香はふと百合を見た。大きな黒い瞳が枕元のスタンドライトの光を反射している。

「ごめん、百合ちゃんは知らないわよね。あの子の家のこと。あの子の家ね、鬼と呼ばれる一族なのよ。人を攫って食べていたとか一晩で村一つ消してしまったとかそんな伝説が残る古い家でね。地元の人達はそれを知ってるから、長い間迫害も受けてきたらしいの。でもそんなこと全然なくてね。それで、もう家は捨てて誰も自分たちのことを知らない土地で静かに暮らそうってそう決めていたらしいの」

 春香は懐かしそうに目を細めた。きっと脳裏に明神の母の顔を思い浮かべているのだろう。

「私もその頃、直人を保育園に預けてパートに出始めたの。直人はよく熱を出す子で、仕事もまともに回せられない、かと言って辞めることも出来ない。育児で手一杯で家事もまともに出来ない。そんな自分の事でいっぱいで、明神くんのお母さんと連絡が取れなくなっていることに全く気付かなかったの。何度か思い出したこともあったんだけど、便りがないのは無事な証拠だとか思って気にも止めなかった。最後に話していた通り、引っ越したのかもしれない。そう自分に言い聞かせて私は……彼のことをすっかり忘れてしまっていたの。

 明神くんと再会したのは小学校の入学式前のことだった」

 直人の母は辛そうに顔を歪めた。

「三年ぶりに会うあの子はもうすっかり変わってた。お母さんは亡くなって、お父さんのことは知らないって……多分ショックで記憶が混乱してたんだと思う。父親が出て行った後、あの子は一人でずっと泣いていたんじゃないかって思うの。涙も枯れ果てて笑うことも出来なくなる程の孤独を、あの子はずっと一人で抱え込んでいたんだと思う。私……何で早く思い出してあの子を探さなかったんだろうってずっと後悔してて……私がもっと早く気付いていれば、あの子の心は壊れなくて済んだのに……」

 春香は涙が出そうになって目頭を押さえるが、堪えて話を続けた。

「口は悪いけど根はとっても優しい子でね。直人もあの子のことを気にして話しかけている間に少しずつ話もしてくれるようになって。直人の制服、ポケットが解れてたら直してくれてて、それで服とか作れるんだって知ったのが小学三年生くらいだったかな? 手先が器用と言えば聞こえは良いけど、あの年齢でそれをしなければ生きられなかったのよね。きっと……苦労したと思う。どっかの縫製工場でやり方教わって、体操服とか縫ってたって言ってた。子供だから雇っては貰えなかったけど、上手に出来たら小遣い程度のお金と飴玉一つをこっそりくれたって言ってた。もう、それを聞くと情けなくて……何であんな良い子を、置いてなんて行けるのよって悔しくて……」

 堪えきれなくなって涙が溢れると、百合がそっと春香の背中を擦った。

「だからね、毎回誘っても断られるのに、今回はついて来てくれて嬉しかったの。十年かかってやっとあの子と旅行する程の関係になれたんだって思うと……勝手なんだけど、少しは許してもらえたのかなって……それこそあの子に言わせれば自己満足なんだろうけど……」

 そう言って涙を拭うと百合の頭を撫でた。柔らかいみどりの黒髪が猫の毛みたいだった。

「お酒の飲みすぎね。こんな話してごめんね。でもなんかスッキリした」

 百合はそれを聞くとにっこりと笑った。その笑顔が、春香にとっては背負っていた重荷を下ろしてくれた菩薩のようにも思えた。



 帰り道の途中に水族館があるので寄ろうと直人の母が言い出したのは本当に急だった。駐車場に車を停め、早々に水族館へ入って行く。薄暗い館内を百合と直人がはしゃいで行ってしまうと、春香は明神に話しかけた。

「急に誘ったのに来てくれてありがとうね。楽しかった」

 春香が改まって言うと、明神は水槽の方へ視線を移した。照明をあてられた小さなクラゲが水槽の中を浮遊している。

「……別に」

 表情は変わらないが、春香はそれで満足だった。色とりどりの熱帯魚を眺めながらゆっくりと二人で歩いていく。直人と百合の姿が見えなくなるとふと明神が口を開いた。

「十年前、母さんと遊園地に行ったって言ってただろ?」

 急な明神の言葉に春香は目を丸くして頷いた。

「母さんも今の彼女みたいに笑ってた?」

「勿論!」

 即答したのだが、彼がどういう思いでそれを聞いてきたのか分からない。

「……ならいい」

 春香は言葉の意味が分からなくて首を傾げた。

「俺は覚えて無いけど、親が喜んでいたならそれでいい。親孝行の一つもしてやれなかったから、早くに亡くなって可愛そうな人だと思っていた」

 意外な言葉に春香は何も言えない。親の話をした時に嫌がったのは、親を恨んでいるからだと思っていた。まさか覚えてもいない母親のことをそんな風に憐れんでいたなどと想像したこともなかった。

「……そんな……」

「あんたの思い出の中で笑っていてくれるならそれだけで十分だ」

 その笑顔を彼は二度と見る事はない。百合の笑顔を目にする度に忘れ去られた記憶から母親の面影を見出そうとしていたのかもしれない。そう思うと直人の母は切なくて俯いた。



 シロイルカの水槽の前でぼうっと突っ立っている百合に明神は近付いた。ガラス越しに気付いた百合も振り返って笑みを浮かべる。

「直人は?」

「お手洗いだって。お母さんは?」

「土産売り場」

 どれだけ買えば気が済むんだと言ったが、職場に持っていく菓子折りを買うのだと言っていた。大人はそういう人付き合いが面倒そうだと思う。

「前に縁側で鳥の名前教えてくれたことあったよね」

 唐突に言われ、そんな事があっただろうかと記憶を探す。

「八色鳥が可愛くて肩に乗ってくれたの嬉しかったの。あの時変なこと言ってごめんね」

「……覚えてない」

 正直に言ったのだが、気を使ってそう言ったのだと思ったらしい。

「ううん、忘れてくれたなら良いんだ。あの時、もうこんなに楽しいことなんて起こらないって思ってたから……」

 彼女の瞳が一瞬揺らいだ。

「私、自分のことしか考えられなくて……」

 多分、自分の姿をしたあいつと間違えているのだろう。

「だからね、ありがとう。生きてて良かった」

 にっこりと笑う彼女の笑顔が切ない。彼女は多分願ったのだ。あいつに、自分の死を……

「……そうか」

 そっと目を伏せた。死にたい気持ちが分からないわけではないからそれを願うことを責められない。かと言ってあいつが屋敷に彼女を招き入れなければ遅かれ早かれ自殺していたか、火事で亡くなっていただろう。だからと言って彼女を式神にしていい理由にはならない。

「いつかまた行きたいね」

 百合にそう言われて少し戸惑った。

「……そうだな」

 約束はしかねるが、今だけ嘘を吐くのも悪くはないだろう。

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