第2話 勉強

土曜日の半日授業を終えて帰ると、不意に百合が台所で声をかけてきた。

「ノートを貸して貰えないかな?」

 唐突に言われ、明神は一度百合の顔を見た。昼ご飯の用意をしていたのだが、手を止めて自分の部屋に戻り、新しいノートを五冊持って来た。そういえば、家が燃えてしまったのでノートが無いのだろうと思って差し出したら、百合はそれを受け取って交互にノートと明神の顔を見比べた。何年か前の福引の景品で貰ったノートでは不満があるのだろうか?

「すまん、それで足りなければまた明日、買ってくるから……」

「そうじゃなくて……明神くんの使ってる授業のノートを見せてもらえたらと……」

 申し訳無さそうに言う百合に明神は一瞬意味が分からなくて瞬きした。

「悪いけど、俺、ノートとってない」

「え?」

「ノートとったら書くのに集中してしまうから教科書にメモとるくらいにしてる」

 百合がとても残念そうな顔をすると、明神は瞳を宙に泳がせた。

「勉強の方法は人それぞれだからノートをとることで覚えられるならそれで良いと思うが……教科書に大体書いてあるだろ?」

 学校で使う教科書は今日、担任から渡されたと聞いたのでノートの必要性がよく分からない。期末テストがそろそろなので勉強したいのだろうが、他人が写した板書が不可欠というわけではないだろう。

「一緒に勉強するか?」

 明神の提案に百合が目を輝かせた。誰かとした方が集中出来るというのであれば、バイトも辞めてしまって暇なのでいいかと思った。

「お願いします」

 昼食を終えてから、取り敢えずこの間の中間テスト用紙を百合に渡して解くように言った。ちゃぶ台の上に筆記用具とテスト用紙を広げ、答えをノートに書くように言って、その間に食器を片付けた。百合が手伝うと言ったが、片付けを終えるまでにやっておけと言ったら目を丸くしていた。

 髪を何度も掻き上げながら考え込んでいるので、髪ゴムが必要かと思ったが、そんなものはこの家に無い。とりあえずシュシュを作って手渡したら喜んでいた。慣れた手付きで髪を一纏めにするが、それでも鉛筆の進みが悪かった。ノートを覗くと、あまり進んでいない。明神は蔵に行って昔使っていた参考書と問題集を取って来た。

「掛け算は解るか?」

「それくらいなら……」

「面積の公式は?」

 不意にそう聞かれて、百合は困ったように首を傾げた。

「底辺×高さ÷2」

「三角形かな?」

 百合が直ぐに答えると、明神は問題を続けた。

「4πr2乗」

「ごめん、分かんない」

「球体表面積だ」

「……」

 百合が冷や汗を流して目をそらした。明神は何も言わずに持ってきた問題集の中から適当に数枚破って渡す。

「出来るとこだけでいいから一枚十分でやって。十分経ったら出来てなくても休憩しろ。座ったままだと血流が悪くなるから立って庭を一周して来い」

 そう言ってちゃぶ台の上にキッチンタイマーを置いた。百合が不安気な表情を浮かべると明神は再び瞳を宙に投げた。

「テスト範囲だけ丸暗記するよりも、まだ間に合うからつまずいたところまで戻って勉強し直せばいい。俺が教えるから」

「……ありがとう」

 百合が申し訳無さそうに言うと、明神はタイマーを押した。百合がそれを見て慌てて鉛筆を持つ。明神はそれを見てさっきまで百合が解いていたテスト用紙とノートを見つめる。赤鉛筆で印をつけると今日、貰ったばかりの百合の教科書を開いた。百合はその様子を盗み見ながら手渡された問題集に視線を落とした。掛け算から始まり、分数が出てくる。小学校三年生くらいの問題だろうかと思いながら鉛筆を進めた。



 明神は百合の解いた問題集を眺めながら百合を一瞥した。今、他の問題集を解いているのに話しかけるのも気が散るだろうかと思ったが、彼女のこれからの事を思えば一言告げるべきだろうと思う。ただ、どう伝えれば彼女を傷付けずにすむだろうかと考えたが、そういう所に疎いので何も思いつかない。百合が不意にこっちを向くと、明神は視線を泳がせた。

「言いにくいんだけど……」

 明神が切り出すと、百合は何を言われるのだろうかと身構えた。壊滅的に頭が悪いとか、時間がかかりすぎているのだろうかと考えたが、明神は百合の解いた問題集を指し示した。

「急いでいるのは解るが、もう少し落ち着いて字を書こうか」

「ごめん。汚くて」

「そこまでは思わないが、答え合っているのに採点する先生にハネられたら勿体ないと思う。テストだけじゃない。大人になったら冠婚葬祭で字を書く機会はいくらでもあるし、履歴書だって手書きなんだから、丁寧に書く練習と思って字を書いてもらいたい。字は人を表すとも言って、書いた人の人柄が出るんだ。丸くて柔らかい字だから、心の優しい気長な子だと伝わる。もう少し丁寧に書けばもっと良くなると思う」

 明神の指摘に百合はこくりと頷いた。

「いい習慣は身につけて損はないから。幼少期から青年期は習慣がつきやすい時期だから良習慣をつけた方がいい。これは渋沢栄一の言葉だけど、悪い習慣が重なると泥棒になってしまうという話もあるから……」

 長々と話していて、まるで説教をしている気分になったのだが、百合は少し驚いた様な表情で明神を見つめていた。

「悪い習慣が重なると泥棒になっちゃうの?」

 そう聞かれ、百合が気にしていないなら良いかと思った。

「例えばなんだけど、小さなゴミを道端に捨ててしまったとする。これくらい、と思う事でも、一度癖になると人は中々辞められなくなるものなんだ。最初は小さなゴミでも、そのうち空き缶やお菓子の袋になり、タバコの吸殻になっていく。そういう悪い習慣が身について大人になると、他人から信用されなくなってしまう。信用されないと仕事をさせてもらえない。仕事が出来ないと給料が貰えなくて食べるものにも困ってしまう。そして遂に強盗に押し入って他人の物を盗み、前科が付いてしまう。前科が付けば尚更職に付くことは難しいから、犯罪を繰り返し、刑務所へ入ったり出たりを繰り返してしまう。だから悪い習慣はつけないに越したことはない」

 明神が説明すると、百合は瞳を輝かせていた。ゲームや漫画ではなく、こんな話に興味があるだなんて珍しい子だと思った。

 ふと、そう思って瞳を宙に投げた。他人の話は聞いているが、問いた問題集を見る限り文章題で躓いている印象があった。短い公式や単語は割と記憶している。

「あいうえおは発音できる?」

 小学校低学年じゃないのに失礼かと思ったが、彼女が口遊むと、順番が前後する。や行とわ行が少ないのは最近の四十六音表しか知らないからだろう。明神はそれを聞いて紙を一枚取ると、文字を書き出した。

「読んで」

 紙には『人通りが多い』と書かれていた。

「ひとどーりがおーい?」

 明神はそれを聞くと、平仮名を書き出した。

「一音一音はっきりと音読して」

 百合はその平仮名の羅列を見て目を丸くした。

「いろはにほへと……」

 いろは歌を読ませると、辿々しく百合が一文字ずつ発音する。ゐで躓くと百合は明神を見た。

「それは今で言う『ゐ』で、ローマ字表記だとwi、発音がウィになるんだ」

 百合はそれを不思議そうに聞いていた。

「ごめんね、それって勉強に必要なことなのかな?」

 百合が問うと、明神は視線を宙に投げた。黙って一度部屋を後にすると、蔵の中から鍵盤ハーモニカを出して来た。

「例えば、音階はドレミファソラシの七音あるだろ? けど、そこから最後のシを取ると六音になる」

 明神の説明に百合は首を傾げた。

「六音でも問題なく、低学年で習う『かえるの合唱』や『チューリップ』の歌は弾けるんだ」

 明神が試しに鍵盤ハーモニカを鳴らすと、成程確かに六音で曲が弾けている。

「でも、『もろびとこぞりて』からシを抜くと曲にならない。弾く曲数を増やそうと思ったら音数を増やす必要が出てくる。

 これと同じで、普段使わないけれども、日本語は本来四十八音あって、それが基礎になっているんだ。そこから二音減らすと、古典が読めなくなる。古典を勉強した人が書いている文学が多い。だから古典が読めないと文学が読めなくなり、文学で勉強した人が教科書の編纂に関わったりしている。だから文学が読めないと日本語文の機微が拾えない。そうなると日本の勉強は当然日本語で勉強するから数学の文章題や歴史、理科も軒並み理解度が低下してしまう。短い単語や公式は覚えられても文章題で足引っ張られたら勿体ないと思う。だから、四十八音は正確に基礎として定着させておく必要がある。だから日本の国歌は古今和歌集の君が代なんだと思う」

 明神の説明に百合はたじろいだ。

「……知らなかった」

「別に知らなくても生きてはいける。勉強はより善く生きる為のものだから、やって損はないと思う。俺はそうやって勉強して、それが自分に合っていたからそうしただけで、個人差は勿論あるから強制はしない。お前に合った勉強法を模索するのも良いが、基本くらいは頭の片隅に入れておいてほしいと思う」

 明神の説明に、感心した様に頷いた。



 日が陰り始めていた。空は晴れているが、夕焼け空が少しずつ近付いて来ている。庭に出て白い砂を踏むと、明神が独り言のように話し始めた。

「知識は幾らあっても構わないだろうと思って勝手に喋るから、別に興味が無ければ聞き流して貰って構わない」

 そう言うと、築地塀の脇に植えられた躑躅を指し示した。

「そこに咲いてるのは山躑躅で、花言葉は燃える思い、努力。ツツジ科ツツジ属の半落葉低木。花の時期は四〜六月」

 二メートルくらいの高さの細い木に小さな濃い桃色の花を沢山つけている。百合は花を眺めながら明神の話しを聞いていた。石楠花、紫陽花、螢袋、東雲草、色とりどりの花が咲いていて、一つ一つ花の名前を教える。もう花の落ちた藤の木や虎斑竹、小さな蝶のチャマダラセセリにフジミドリシジミ、大島石で出来た沓脱石、青石で出来た灯籠。庭を一周して再び居間に戻ると明神が不意に百合の足元を見た。

「細かいこと言うけど、畳の縁は踏むなよ。畳よりも弱い素材で出来ているから傷みやすい。あと、家によっては畳の縁に家紋がついている所があるから、踏んだら失礼になる」

 百合はそれを聞いて足元を見た。慌てて縁から足を退ける。

「ごめん」

「鬱陶しいと思ったら聞き流していい。ただうちでなくても、他の家に行って知らずに無礼を働く必要もないだろうと思って言うだけだから、萎縮しなくていい」

 そう言って、さっき百合がやっていた問題集を取り、他の問題集を置いた。座布団に正座すると、さっきと同じようにキッチンタイマーをセットしている。

「明神くんて頭良いよね?」

「うちはテレビがなくて、暇な時間があったから本を読んだりしていた。それでそのうち覚えたってだけで頭がいいわけじゃない」

 明神がそう言って問題集に目を落とした。百合も、鉛筆を持って国語の問題集をじっと見つめる。

 程なくして狛が遊びに来ると、明神は蔵から一冊の本を出して狛に渡していた。狛は眉間に深い皺を刻み、不服そうな顔で縁側に腰掛けると本を開いて音読する。

「山高きが故に貴からず、木あるをもって貴しとす」

 百合は狛の音読する声を聞いていたが、何を言っているのか今ひとつ分からなかった。古語か何かだろうとは解るが、その言葉に聞き馴染みが無い。問題集を終えて一息つくと狛の隣に座り込んで本を覗き込んだ。

「なあに? それ」

「昔の教科書じゃ」

 狛が頬を膨らませ、頁を開いて百合に見せる。百合はその文字を眺めながら首を傾げた。

「よんとう?」

「しとうじゃ。四等の船に乗らずんば、誰か八苦の海を渡らん」

 狛が得意気に話すと、丸付けを終えた明神もやって来て狛の隣に座り込んだ。

「意味は?」

「世の中は辛いことばかりじゃから、他人を大事にしないといけないという意味じゃ」

「……五十点」

 明神に言われ、狛が再び眉間に皺を寄せた。

「四等とは?」

「えーと、慈悲喜捨の四つの心じゃ」

「慈は慈しみ、悲は哀れみ、喜は喜び、捨は平等を意味する。その四つの心がないと苦しい世の中を渡っていけないという意味なんだ八苦は生老病死に加えて愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の八苦で……」

 教えて貰うが、百合は聞き馴染みがなくて首を傾げる。

「日常会話で苦労した時に四苦八苦したって言うだろ? あの八苦なんだが……」

「え、そうなの? 意味とか考えたこと無かった」

 狛が驚いたように目を剥いて明神の顔を見上げたが、明神の表情は変わらない。

「知らなくても生きては行ける。ただ、頭の体操くらいにはなるだろう」

 百合はそれを聞いて狛が持っている本に視線を戻した。

「これが教科書?」

「実語教と言って、教訓を中心にした初等教科書だったんだ。平安末期から使われていて、福沢諭吉の学問のすゝめにも出てくる。狛にはこれくらいが丁度良い」

「ほんのちょっと息抜きで沢蟹取って遊んでおったら右慶に告げ口されての、これを音読して腹に落とし込めと言われたんじゃ」

 頬を膨らませ、短い手足を思い思いに動かして文句を言う狛が可愛らしかった。

「可能であれば国民の修身くらい暗唱してもらいたいが」

「よく遊び、よく学べ、時刻を守れ、くらいなら良いが、あんなもの暗唱なんかできる気がせんわい」

 それならこっちと指し示され、狛は不満そうに眉間に皺を寄せていた。

 それから毎日狛が実語教を音読しに来るものだから、百合も少しずつ覚えてしまった。



 気付くと夕方の六時になっていた。百合は五教科の問題集をやり終えてちゃぶ台に突っ伏している。明神はそれを一瞥すると溜息を吐いた。

「姿勢が悪い」

 呟くと、百合は頬を赤くして座り直した。百合の猫背と巻き肩を見て、親の威圧に耐えられなくて下を向いて生きてきたんだろうなぁと不憫に思う。明神がちゃぶ台の上に置かれた問題集等を重ねて台所のテーブルに置くと、台拭きを持って来た。百合がそれでちゃぶ台を拭くと、明神は座敷箒と塵取りを持ってくる。ちゃぶ台を壁に立て掛けて箒で掃き始めた。

「畳の目に沿って、優しく掃くこと。箒も畳の目も繊細だから、力を入れ過ぎないこと」

 そう言って百合に箒を差し出すと、百合は見様見真似で畳の上を掃いた。その様子を見て、明神は台所に立つと晩御飯を用意し始めた。百合は掃除を終えると座敷箒と塵取りを片付けて首を回しながら天井を見上げる。少し呆けていたが、ちゃぶ台を出して台所へ向かった。

「ご飯は五大栄養素の中で身体のエネルギーになる炭水化物」

 明神が呟きながら冷蔵庫を開けると、百合は首を傾げながら明神の傍に来た。

「納豆は筋肉などの身体を作るタンパク質。牛乳は?」

「え、カルシウムかな?」

「……まあ、五大栄養素ではないけど、間違いではないかな。骨や歯を作り、身体の調子を調えるミネラルに分類されている。五大栄養素っていうのは炭水化物、脂質、タンパク質、ミネラル、ビタミンの五つの栄養素なんだ。毎日バランスよく摂るのが理想的ではある」

 一つ一つ説明しながら食事を並べる。百合は言われたことを頭の中で復唱しようとしたが、こんがらがってきた。

「聞き流していい」

 明神が気付いて言うと、百合は苦笑いを浮かべた。

「ご飯は左側、お味噌汁は右側、メインのおかずが奥側。少しずつ順番に食べるのを繰り返す三角食べの練習していくといい」

「え、食べ方にも順番が?」

「まあ基本、美味しく頂いたら良いとは思う。ただ、知っているのと知らないのとではまた違うだろう」

 明神はそう言って手を合わせた。百合もそれに習って手を合わせる。

「たなつもの 百の木草も 天照す 日の大神の恵み得てこそ」

 明神が呟くと百合は首を傾げた。

「本居宣長の和歌で、太陽や自然の恵みがあってこそ、毎日食事が出来る。とても有り難いことだって意味。本居宣長は江戸時代に国学を完成させた人物だ」

「国学?」

「万葉集や古事記等の古典書物を研究した学問で……」

 そこまで話してご飯が冷めてしまうと思い、言葉を止めた。

「すまない。話し過ぎた」

 百合は首を横に振るとにこりと笑った。

「明神くん、楽しそう」

 そう言われて明神は視線を泳がせた。直人だったらわからない。の一点張りで直ぐに終わってしまうのだが、彼女は聞き上手なのだろう。興味など無いだろうに、遮らずに最後まで話を聞いてくれる子は正直初めてではあった。

「いただきます」

 百合がそう言って食べ始めると、明神も食べ始めた。明神の食べ方を盗み見ながら、ゆっくりとご飯を食べている。

「明神くんのお母さんって厳しい人だったの?」

 百合の質問に明神は瞳を天井に向けた。親というよりも、クレハの影響が強いと思う。やけに気合を入れて育てられた気はする。

「さあ……覚えてない」

 思い出そうとするが、もう顔も声も忘れてしまった。二歳で実語教を暗証していたとクレハが言っていたので、親が読み聞かせていたのだろう。

「朝宵に 物喰ふごとに 豊受の 神の恵みを 思へ世の人」

 不意に思いついて口ずさんだが、これも本居の和歌だった。本でも読んだが、子供の頃に食事の前と後に和歌を訓む習慣をつけたのも多分親だろう。

「なあに? それ……あさよい?」

「毎朝毎晩の食事の度に神の恵みを思い起こすが良い。人の力だけで食べ物ができるわけではないのだから。という意味の和歌だ。食事が終わった後に唱える祝詞で、多分、親が

唱えていたんだろうな」

「素敵な和歌だね」

 百合がそう言うと、明神は少し首を傾げた。良いとか悪いとか考えた事が無かった。ただその和歌があり、和歌の意味を知っている。けれども彼女の様に素敵だと思った事が無かった。自分の中に染み付いてしまって、そのものの良さを忘れてしまっていた事に気付いた。



 壁掛け時計が夜の九時を差していた。取り敢えず今日はこのくらいにして、風呂でも入って来るように促す。

「……もう少し問題集やっても良いかな?」

「別にそこまで根詰める程遅れてない。地頭が良いし、その年頃で睡眠不足は肌の大敵だぞ」

 明神に言われ、百合は慌てて自分の部屋に向かった。他人の娘を預かっている手前、不眠で肌が荒れても可哀想だし、あの胸の発育を考えると、普段から栄養も睡眠も足りていなかっただろうと想像がつく。ここに置いておく限りは、ちゃんとした人間らしい生活を送って貰いたかった。ただ、本人がもっと勉強したいと言っているのに、そのやる気を挫く必要も無いだろう。そうこう考えて、今日出来ていなかった所に赤鉛筆で説明を書き添える。百合の教科書のテスト範囲に付箋をして一通りテストに出そうな所には赤鉛筆で線を引いておいた。

 百合が風呂から上がって来ると、小花柄のパジャマ姿で居間を覗きに来た。

「……なんか、ごめんね」

「それさ、失礼だから口癖なら直した方が良い。誰かに何かして貰ったら、ごめんじゃなくてありがとうだろ?」

 明神がそう言って問題集とノートを差し出した。百合がそれを受け取ると、こくりと頷いてみせる。

「ありがとう」

「寝る前よりも、早起きしてからの方が覚えが早いから、早目に寝て朝、教科書読んだらいい」

 そう言うと明神はCDプレイヤーを差し出した。

「どうしても寝る前に勉強したかったら、これでも聞きながら寝たら良いから」

「……ありがとう」

「不満か?」

 伏目がちな彼女の様子にそう問い質すと、百合は首を横に振った。

「なんか……私、今まで何やってたんだろうって申しわけなくて」

 百合の言葉に明神は百合に持たせた物を取り上げてちゃぶ台に乗せた。百合の右手を持つと、百合が顔を赤くする。肘のツボを押すと百合が顔を歪めた。

「ちょ……痛い……」

「肩こりだな。二回に一回は散歩辞めて体操にするか。そもそも普段の姿勢も悪い。血流が悪くなると悲観的になるから、普段から姿勢は意識した方が良い」

 そう言いながら掌のツボを押している。

「あ、なんかそこ痛気持ちいい」

「小指の下辺りに後渓っていうツボがあって、そこは肩こり、首のこりに効くから暇な時に押しているといい。あと、掌の真ん中辺りに労宮ってツボがあって、自律神経のバランスを調えるから……」

 右手が終わって左手のツボも押すと、百合は少し笑った。

「ありがとう。なんか元気出てきた」

 百合はそう言ってノートとCDプレイヤーを取った。おやすみと言って居間を後にすると階段を登って行く音がする。明神は軽く溜息を吐くとちゃぶ台の前に座り込んだ。



 目覚まし時計の音で目を覚ました。寝る前につけていたCDプレイヤーの音がまだ鳴っている。百合はプレイヤーのボタンを押して止めると伸びをした。窓の外はまだ暗いが、眠気眼のまま取り敢えず教科書を開く。気付いたらそのまま二度寝していた。

 ドアをノックする音に気付いて起きたら朝の七時だった。後悔するが、もう遅い。取り敢えず着替えて一階へ下りると、朝食が既に用意されていた。百合がくれ縁に突っ立っていると、明神が廊下を歩いて来る。風呂に入っていたのか、鶯色の作務衣を着て、濡れた髪を拭いていた。

「どうした?」

「二度寝しちゃって」

「……眠かったらいつでも風呂入っていいから。反省するのも良いけど、それを引き摺るのは感心しない。それに、眠いのは低血圧とか貧血とか身体がしんどいってサインだから、無理に早起きする必要はない。今日は日曜日だし……」

「でも……」

「自分の身体と相談しながら無理をしない程度にしておかないと続かない。続かなかったら勉強は意味がないだろ」

 明神の正論にぐうの音も出ない。明神は台所に立つと味噌汁を温め始めた。百合も明神の隣に立つと明神は白湯を湯呑に入れて百合に差し出した。

「白湯を飲むと胃腸などの内臓機能を温めることができるから、飲んだ直後から全身の血の巡りがよくなる。低体温の人は寝起きぼーとしてしまうから、白湯を飲むのがお勧めではある」

 明神にそう言われ、湯呑の白湯を飲んだ。明神は茶碗にご飯を注ぐと、ちゃぶ台の上に並べる。

「味噌汁は沸騰させると味噌の風味が飛ぶから水を少し足して、沸騰しないように温めてから火を止めて、少し味噌を足すといい」

 味噌は五大栄養素のタンパク質だとか、サンマはビタミンだとか独り言のように淀みなく喋っている。毎回言われていると、興味がなくても割と覚えてくる。食事を終えると昨日と同じように問題集を解いた。分からない所は丁寧に教えてくれる。公式は単語帳に書いたものを渡してくれた。

「取り敢えず、見直しは一分でやって」

 明神の発言に百合は眉根を寄せた。

「私、そこまで賢くないよ?」

「違う。そういう意味じゃなくて、どうせ人間の集中力なんて一時間ももたない。単語帳やノートを見直すのは一分でいい。寝る前、寝起き、授業の前、休み時間……一分でも一日十回やれば十分だろ? それだけ何度も見直していれば、嫌でも覚える」

 成程、時間の使い方が上手いのだ。明神は不意に時計に目をやると百合に視線を戻した。壁掛け時計は十時を指している。

「お前、趣味とかある?」

「え?」

 不意に聞かれ、首を横に振る。明神は瞳を宙に泳がせた。

「しんどい?」

「まだ出来るよ」

 にこりと笑って言うと、明神は一度居間を出て行った。百合が単語帳を見ていると数分して戻って来る。けれども明神の隣には見たことのない女性が立っていた。二十六、七くらいの着物姿の女性に百合は驚いてその場に座り直した。

「名前はクレハ。こいつの趣味に付き合ってほしい」

「こいつって……」

 綺麗に髪を一つに纏めている女性が、眉根を寄せて明神の頬を摘んだ。

「十年前に戻ってその口の利き方を叩き直して差し上げたいです」

「近所に住む口煩いおばさんだと思って貰って差し支えない」

「差し支えます! お姉さんくらいにして下さい」

 明神が一度口籠って、クレハを見つめた。

「無理があるだろ」

「実年齢を引き合いに出すつもりならこっちにも考えがありますよ?」

「クレハ姉さんと呼んでやると喜ぶから、適当に褒めちぎってやってくれ」

「あのねぇ……」

 明神とクレハの掛け合いが楽しくて思わず声を殺して笑ってしまう。百合が笑うと、二人は顔を見合わせた。

「取り敢えず毎週一時間だけ」

「この年頃の今時の子は、友達と一緒にゲーセンに行ったり、カラオケに行ったりするのが流行りでしょう」

「うちで預かってるのにそんなことさせられるか。取り敢えず基本だけでいい」

 明神の言葉にクレハが頭を抱える。

「学ばざれば徒に市人に向かうが如しでしょう」

 聞き覚えのある言葉に百合が首を傾げた。狛が読んでいた実語教にそんな言葉が載っていたと思う。何も学ばなければお互いにとって時間の無駄みたいな意味だったと思う。

「本人が嫌がったらまた考える。経験はさせて損はないと思う。知識は幾らあってもいい」

「智あるを持って貴しとす。ですか……解りました」

 クレハはそう言うと百合へ向き直った。百合はその眼差しに気圧されて背筋を伸ばすと、クレハが微笑する。

「では、部屋を替えましょう」

 クレハがそう言うと、くれ縁を歩いて行く。百合は明神に促されるままついていくと、玄関横の部屋に通された。色とりどりの着物が並べられていて、百合は目を瞠る。

「では先ず、着物の種類から説明しますね」

 にこりと微笑むクレハの表情が、何故か少し怖かった。



 小一時間して明神が部屋を覗きに行くと、絵羽模様の小振袖を着た百合が目を輝かせて他の着物や生地の切れ端を見つめていた。赤地に鶴の絵が大きく描かれた小振袖に、金の帯でふくら雀結びをしている。

「観世水には変わり続けていく未来という意味があります。菖蒲は魔除け、解毒作用のある薬草です。それから兎は物事がうまくいく、ツキを呼ぶ、子孫繁栄の意味があります」

 一つ一つ指し示しながら着物の柄の意味を淀みなく話している。そんなクレハの言うことを何度も頷きながら聞いている百合の顔は楽しそうだった。面白がっているのなら、止める必要もないだろうと思って声をかけずにその場を後にする。が、クレハも時間を忘れているのだろう。お茶を煎れて持っていくとクレハは明神の顔を見て目を丸くした。

「あらやだ。もうこんな時間なのね」

 クレハがそう言うと、着物を片付け始める。

「最後に一つだけ。着物には正しいたたみ方があります。適当にたたむとおかしな所にシワがついてしまうので、ちゃんとたたんでください。本だたみをしますから見ていてください」

 羽織を一枚広げ、慣れた手付きで脇縫いから折っていく。見る間にたたみ終えると、たとう紙に包んで置いた。明神がお茶を差し出すとクレハは一口飲んだ。

「どうでした? 今時の子にはつまらない時間でしたでしょう?」

 お茶を飲んでいた百合は咳き込みそうになるのを堪えて首を横に振った。

「そんなことないです。とても楽しくて……私、塾とか習い事には行かせて貰えなかったから、こういうの初めてで……どうしたらいいのか分からなくて……こんな綺麗な着物を着せてもらったのも初めてで……」

 緊張しているのか、何度か言葉を詰まらせていた。

「小振袖よ」

 クレハの顔は笑っていたが、少し怒ったように聞こえた。だから百合が肩を竦める。

「一度に覚えられるわけないだろう」

「それもそうですね。今のは私が悪かったです。すみませんでした」

 クレハが軽く頭を下げると百合が困ったようにあたふたする。

「あの、お着物汚しちゃったら悪いので、着替えても……」

「あら、良いんですよ。汚さないように気をつければ最初はぎこちなくても動きも靭やかになります。もし汚したら、弁償して貰いましょうかね」

 顔は笑っているが、言葉に悪意が滲み出ている。

「そもそも姿勢が悪いです。着物なら帯で締め付けるから嫌でも背筋を伸ばしますし、歩き方も……」

「それを言うならせめて木綿か浴衣くらいにしておけ。絵羽模様の小振袖なんか準礼装だろ。見ているこっちが冷や汗出る」

「ごめん、私がこの着物、綺麗と言ったが為に……」

 百合が涙目になると、クレハは目を伏せた。

「冗談です。今の子は洋服の方が性に合うでしょう。着替えを手伝いますね」

 不意に、百合が明神の方へ視線を向けた。

「その……明神くんがいつも着てる着物は……」

「それは作務衣と言って、元は神職やお寺の作業服です。ここは元々惟神道系の家柄でしたから」

 クレハは説明するとお茶を飲み干した。

「かんながら?」

「神道の事で、要は日本の宗教のことだ」

 百合は聞き慣れない言葉に首を傾げ、湯呑を置いた。明神がそれをお盆に取って部屋を出て行く。クレハがああ言っていたので、当然いつものワンピースで居間に戻って来るだろうと思っていたら、淡い黄色地に朝顔がついた浴衣姿だったものだから一瞬言葉を失う。赤い帯で花結びをしていて、これから祭りにでも行くのかと思うような出で立ちだった。

「……変かな?」

「いや、可愛らしいとは思うが、それで勉強出来るのかと……」

「そうだよね。なんか、クレハさんが楽しそうでつい……」

 いつだったか、千年ここに居て女の子が生まれたのはたった一度きりだったと聞いたことがあった。それからは何代も男の子しか生まれず、嫁に来る女性はそれこそもう年頃の女だっただろう。だから、百合に色んな着物を着せたり、教えるのが楽しくて仕方がないのだろう。

「まあ、クレハも言ってた通り姿勢を治すのにも良いから取り敢えずそれ着とけ。しんどくなったら着替えたら良いから」

 明神はそう言って昼食の準備をする為に台所に立った。

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