隱神 其の弐

餅雅

第1話 少女

 格子戸の向こうをルリシジミが翔んでいった。その姿を目の端で受け止めた少女が窓の外へ向く。読みかけていた本を机に置いて立ち上がると、大きな黒い瞳に窓の外の景色が映った。椛の葉が赤く色付き、梢が揺れている。竹穂垣の向こうに誰もいないことを確認すると、少女は目を伏せた。窓から吹き込んだ柔らかい風が長い黒髪を撫でていった。

「開けるわね」

 優しい母の声がして障子が開く音がした。

「お祖母様がとても喜んでいましたよ」

 母の言葉で、この間のお茶会でのことを思い出した。親戚一同が集まったのだが、父の弟の息子、つまり六歳の甥っ子が元気に走り回っていた。母親の静止を振り切って部屋に入った甥っ子が畳みの縁を踏むと、上座に座っていた祖母が眉間に皺を寄せた。祖母の怒号が響く前にと母親が我が子の腕を掴んで怒鳴りつける。

「こら! 畳みの縁は踏んではいけないのよ!」

「何で?」

 息子の当然の質問に母親が一瞬口籠った。周りの冷たい視線が集まって頭に血が上る。

「駄目なものは駄目なのよ!」

「畳みの縁はね、畳みよりも弱い素材で出来ているの。それに家によっては家紋がついている所があるから、踏んだら失礼になるのよ」

 傍に膝を付き、初めて会う甥っ子に話しかけた。興奮していた甥っ子が、彼女の目を見て落ち着きを取り戻す。怒鳴りかけていた祖母がその様子を見て咳払いをした。

「よく知っているのね」

 少女が上座に座っていた祖母へ向き直った。

「私も人から教えて頂きました。まだまだ不勉強で至らないところはあると思います。知らずに失礼を働いてしまった時にはご指導頂けると幸いです」

 丁寧に畳みに両手をついて頭を下げると祖母は溜息を吐いた。

「お、お義母様、今日も素敵なお着物ですね」

 取り繕うように甥っ子の母が声をかけた。猫撫で声に呆れたように再び祖母は溜息を吐く。

「あんたにこの着物の良さが分かるのかい?」

「ええ、とても……高そうな……」

 しどろもどろに答える母に、甥っ子が不安気な視線を送る。取り敢えずご機嫌を取るために着物を褒めたのだが、それ以上言葉が出てこない。

「とても綺麗な付下げだと思います。花丸文には無限の発展という意味があると聞きました。袋帯は西陣織ですか?」

 少女が訪ねると、今迄眉間に皺を寄せていた祖母が目を丸くして少女を見つめた。遠巻きに居た人々も少女に視線を送る。祖母が笑い出すと少女は萎縮した。

「あの、何か間違っていましたか?」

「いや、まさか平成生まれのこんな若い娘に着物が分かるとは思っていなかったものだから皆、目を剥いたのよ。男の子を産んだと言うだけで年齢だけ重ね、躾の一つもままならない何処ぞの馬の骨よりも良く出来た娘じゃ」

 祖母の視線の先に叔父嫁の悔しそうな顔があった。

「元気が良いのは、心が豊かな証拠です」

「成程、これは成長が楽しみじゃのぅ。山高きが故に貴からずと言うやつじゃの」

「実語教の一文ですね」

 含み笑いを浮かべる祖母の目がとても慈愛に満ちていた。

 あの日から、祖母は何くれとなく気にかけてくれる。親戚の人達も祖母には頭が上がらないのか何処か余所余所しく、けれども優しく接してくれた。

「誰に教わったのか教えてほしいと弘信さんに聞かれたの」

 弘信は父の弟だ。物腰の柔らかい人だったと思う。

「覚えていないの」

 正直にそう言って自分の両手に視線を落とした。自分で作った東雲色のワンピースの裾を靡かせると振り返る。海老色の紬を着た母が心配そうな顔をしてこっちを見ていた。

「ゆっくりでいいのよ?」

 細面の母は髪を綺麗に結い上げていた。少し痩せ過ぎてはいるが、その身なりは整っていて気品を感じる。

「今日は近所の神社でお祭りがあるの。一緒に行きましょう?」

 母の丁寧な言葉で部屋の箪笥を開けた。幾つかある着物の中から金魚の絵が描かれた浴衣を取り出す。ワンピースを脱いで着替え始めると母が手伝おうとしたが、姿鏡の前で器用に着物を纏った。黄色の帯を巻き、身体の前側で花文庫を作ると、結び終わった帯をくるりと背中に回して姿鏡の前で整えた。姿鏡に映った自分の顔を見て机の上に置いてあった小さな容器を手繰ると、蓋を開けて小指の先を口で軽く湿らせた。その指で器の底をなぞると小指が赤く染まる。鏡を見ながら唇に紅を点すと母は笑った。

「よく似合ってる」

 母の言葉に少女は静かに微笑んだ。長いサイドの髪を持ち上げ、頭の後ろに持っていってバレッタで止める。水引細工で出来た髪留めはお気に入りだった。

 ふと、金木犀の香りがして、何処かで咲いているのが香って来たのだろうかと小首を傾げた。



ーーその屋敷には何とも哀れな鬼が封じられていたーー



 梅雨時期には珍しくない優しい雨が降っていた。さっきまで激しく降っていたが、今は霧の様な柔らかな雨に変わっている。椚の森を抜け、姫沙羅の木を横切り、細い獣道を駆け上がる一つの人影があった。黒い学生服を着た少年。名はーー明神と言った。

 滑りやすい足元を気にしつつも彼は山道を急いで登った。濡れた石の上は滑りやすいが難なく踏み越えた。自然と息が上がる。見慣れた四脚の屋根付き門が開いているのを目にして思わず期待と不安を飲み込む。門の左右は板屋根付きの築地塀で囲われていて中の様子は窺えない。門扉を開けた時、玄関の庇の下で振り返った少女と目が合うと、安堵と悲しみに目を伏せた。赤いチェック柄のスカートの裾から水が滴っている。白いシャツも濡れているが、レースのカーディガンのお陰で肌が透けていない。日本家屋の大きな瓦屋根が彼女を雨から守るようにせり出していた。

「何?」

 門を抜けて飛び石を跨いだ。門の外側と違い、綺麗に手入れの行き届いた庭を横切っる。塀の脇に咲いた躑躅や石楠花が濃い桃色の花を咲かせていた。軒先に入ると、小柄な少女が真っ黒な瞳でこちらを観察していた。闇を吸い込んだような漆黒の瞳だった。

「あの……」

 道に迷ってここまで来たのだろう。ここまで迷い込んで来た人間は初めてだったが、山では遭難者に暇が無かった。それというのもあの馬鹿げた噂のせいなのだけれども。

「どんな願いも叶えてくれる鬼が居るって本当ですか?」

 顔には出さなかったが、聞き飽きたその言葉に怒りに似た感情が湧き上がった。

「帰れ」

 それだけ言って彼は家に上がった。玄関を閉めたが、硝子戸越しに少女の姿が透けている。

 ーーあの子も何か願いを叶えに来たのか。

 珍しい事ではなかった。この山にはそういった伝説が残っている。どんな願いも叶える鬼がいるが、願いが叶った者は皆、非業の死を遂げる。そんな噂を信じて山に足を踏み入れる輩が後を絶たなかった。願いを叶えるために山に入って遭難したのでは本末転倒だろう。

 タオルで髪を拭き、紺の作務衣に着替えてから再び玄関へ踵を返した。硝子越しにまだ少女が立っている姿が見て取れる。

 地元では見ない少女だった。腰辺りまで伸びたあの長い髪では風邪をひいてしまうだろう。玄関先で倒れられても迷惑だと思い、新品のタオルと使っていない傘を一つ持って玄関を開けた。急に玄関が開いて驚いた顔をする少女にタオルを投げつける。

「ここに居座られても迷惑だ」

「……ごめんなさい」

 庇の下に傘を置き、扉を閉めようとした。

「妹を甦らせて欲しいんです」

 彼女の真剣な表情に腹が立ったが、顔には出さなかった。

「くだらない」

 扉を閉め、家の奥へ入って行った。苛立ちと不甲斐なさが綯交ぜになって自分を襲う。

「……そんなことが出来たらとっくにやってる」

 思わず誰もいない部屋に独り言を吐いた。もう十年近く彼はこの家に一人きりだった。だから正門が開いていたのを見た時、不覚にも父親が迎えに来てくれたのだと期待してしまった。……彼女を見た時、その期待を打ち砕かれて残念に思った。まだ、何処かでそれを望んでいたのかと嫌気がさす。

 二階の部屋から玄関の方へ視線を向けると黒い傘が門を出ていくところだった。やっと出ていってくれたという安心感もあったし、何故か去ってしまう残念な気持ちもあった。きっと彼女には暖かい家族が居るのだろう。家でその人たちが君の帰りを待っている。そう想像すると羨ましくて妬ましかった。



 新聞配達を終えて学校に着いたのは七時だった。誰もいない灰色の教室に入ると自分の席に座る。学校で出された宿題をして、参考書を開いた。軽い眠気を感じて、周りの景色に靄がかかったようだった。

 どうしてあの子は屋敷まで来れたのだろうかと考えていると眠れなかった。あの屋敷の周りは結界が張られていて、人は立ち入れないようにしてある。自分があの屋敷に捨てられた時に父親あたりがそうしたのではないだろうかと思う。自分も雑多なことが苦手なので結界を解こうだとか思ったことがない。結界を解いて昨日の少女の様な他力本願な人間に押しかけられても困るからだ。結界に不具合でもあるのだろうかと見回ったがそんな様子も無かった。身内の人間……にしては普通の人間だった。結界を解いて再び張り直すなんて芸当が出来そうに見えなかった。

「……」

 陰陽師と呼ばれる呪術者がいる話は聞いたことがあるが、会ったことは無い。うちも似たようなもので本来は呪術を得意とした家系だったらしい。だから鬼だとか願いを叶えるだとかそんな伝説が巷に残ってしまっている。

「明神、聞いてるか?」

 先生に当てられ、明神は我に返った。黒板横の時計を見るとホームルームが始まっている時間だ。

「はい」

「じゃあ頼んだぞ」

 何の話をしていたのだろうかと思いつつも、考え事をしていた自分が悪い。

「よろしくお願いします」

 聞き覚えのある声で隣に視線を向けると、見たことのない制服を着た少女が席に座っていた。黒いセーラー服は同じだが、胸元のネクタイが青い。左胸についた黄色い名札には「古夜」と書かれていた。

「あれ? あなた昨日の……」

 彼女の長い髪に苛立ちを覚えたが、そっと視線を外した。転校生の面倒をみてやれとでも先生は言ったのだろう。

「昨日はありがとう」

 なんとなく心の隅にくすぐったさがあった。この子は素直に他人に感謝を伝えることの出来る人間なのだと思った。



 休み時間になると転校生の周りに人が集まるので参考書を持って廊下に出た。この田舎で転校生は珍しいので熊猫でも見に来る感覚で隣の教室からも人が覗きに来る。早く収束して欲しいと思いつつ、窓に寄り掛かって参考書を開いた。雨を含んだ空気が優しく窓から吹き込んでいた。

「明神、転校生が来たんだって?」

 早速、隣の教室から覗きに来た橋本 直人が話しかけてきた。身長は同じくらいだが、直人の方がずっと愛嬌のある顔をしている。根が明るくて人当たりが良いので明神とは違い、友達も多かった。そんな彼が態々、目立たない明神に話しかけた。明神が聞こえないふりをして去ろうとすると、行く手を阻むように直人は回り込んだ。

「なあな、今日、母さんが親戚の葬式に行って帰って来ないんだよ。うちに来ない?」

 成る程、母親の代わりに晩飯を作りに来いと言いたいのだ。

「断る」

「え〜」

 あからさまに残念な表情をする彼に嫌気がさすが、それを顔に出さなかった。だから、直人からしたら本当に嫌がっているのか、もうひと押しすれば靡いてくれるのかが分からない。

「お前、いくつだよ」

「え? お前と同じ十三……」

「中二にもなって自分の晩飯の一つも作れないなんてどうかと思う」

 と、言いつつそこは明神にも責任がある。やれ母親が倒れただの、母親が足を挫いただのと連絡を受ける度に飯を作りに通っていたのだから何かあれば頼れば良いと思うのは当然だろう。母親同士が知り合いで、良くしてくれたこともあり、無下に扱えなかったという部分もある。

「良いじゃん。どうせ父ちゃん帰って来ないんだろ?」

 昨日の事もあり、父親の事を聞かれて少し腹が立った。

「帰って来たら、殺すんだろうな」

 それこそ怒りに任せて盛大に……と想像してしまう。今まで放っておいて、どの面下げて来たんだと言いたい。けれどもやはり、その気持ちが表情に現れることは無かった。だから、直人は冗談だと思ったのか声を堪えて笑っている。

「怖いこと言うなよ。家には書き置きしておいて遊びに来いよ」

「……忙しい」

 予鈴が鳴り始めたので教室へ戻る。不服そうな顔をした直人も隣の教室へ戻って行った。直人は明神の事を知る数少ない人間だった。家のことも一人暮らしなのも彼は知っている。何度か直人の母親から一緒に暮らさないかと話を持ちかけられたが、心底この親子が幸せでいることを妬ましく思っていたものだから断った。異質な自分が入り込むことでこの親子の細やかな幸せを壊してしまいそうで怖い。羨ましいと思っている自分が、あの心優しい親子を地獄の底へ突き落としてしまうのが嫌だった。だから、正直放っておいてほしかった。忘れてくれたっていい。無視してくれて構わない。それなのに、あの親子ときたら何かと声をかけてくる。それが煩わしくて、少しだけ嬉しかった。


 放課後になると鞄に荷物を放り込んだ。窓の外は曇っているが、雨は止んでいる。大きな水溜りが出来た校庭と、その先に山に囲まれた里の風景が見渡せる。田んぼには青い苗が行儀良く整列していた。

「明神くん、先生に部活決めろって言われたから案内してほしいんだけど、良いかな?」

 急に声をかけられて手を止めた。窓の外から声のした方へ視線を向けると、転校生がにっこりと笑っている。整った陶器みたいな白い肌が少し不健康そうだった。

「俺じゃなくても良いだろ」

「じゃあ、明神くんでも良いよね?」

 面倒臭い。といっても先生からもああ言われたし、友達もまだいないのだろう。明神もこんな性格なのでクラスに友達らしい知り合いがいない。

「忙しい」

 口癖のように言うと彼女は再び笑った。

「じゃあ、明日ならいいかな?」

「……明日も忙しい」

「明後日とかなら大丈夫?」

 そこまで食い下がる必要は無いだろう。隣のクラスの直人にでも……と思ったが、自分が先に突っぱねておいて彼女を押し付けるのもなんだか悪い。

「明神くんもまだ部活決まってないから一緒に見て周ると良いって先生に言われたの」

 そういうことかと得心がいく。多分、中二のこんな時期まで何処の部にも属していないのは明神くらいだろう。

「俺は帰宅部なんだ」

「それ、内申書に響くよ?」

「他人の物差しで評価されて喜ぶ人間じゃないんだ。そういうのが好きならそういう人間と仲良くすればいい。俺に関わるな」

 彼女が目を瞬かせて不思議そうな顔をした。

「何を怯えているの?」

 放っておいて教室を出る。意味が解らなかった。怯えているように見えたのだろうか? 今までそんな事を言われたことが無かったからどう返せば良いのか解らない。あの真っ直ぐに自分を見つめる黒い瞳が嫌だった。


 暗い夜空に星が瞬いている。月の光に照らされて空に浮かんだ雲がいくつか銀色に光っていた。少し肌寒くてパーカーのチャックを閉める。ポケットから懐中時計を出すと、夜中の十時を指していた。手巻き式の懐中時計は祖父が使っていたものだと聞いていた。明神はバイトの帰り道に児童公園の前を通りかかると人の気配に気付いて足を止めた。

 きぃ……とブランコが揺れる音がする。風はないので誰か居るのだろう。公園の一つしかない街頭は道路側に立っていて、公園の奥にあるブランコに光が届いていない。公園に入ると、あの転校生が一人でブランコに座っていた。ブランコが揺れる度に長い髪が揺れる。放って帰ろうと思ったが、こんな時間だし気にはなる。お節介とは思いつつも何かあってからでは遅いだろうと声をかけた。

「さっさと帰れ」

 急に声をかけたので彼女が驚いて振り向いた。暗闇に目が慣れているのか、明神の顔を見てほっと息を吐く。服が制服のままなので家に帰っていないのだろう。

「ちょっと散歩に」

「こんな時間まで散歩だなんていいご身分だな」

「明神くんは? 散歩?」

「俺のことはどうでもいい。不審者が居るのは田舎でも都会でも同じだろう。態々犯罪に巻き込まれに行く必要はない。彷徨いてる暇があるなら家に帰って勉強してろ」

 でないとこっちが気になって帰れない。と付け加えそうになったのを堪えた。

「明神くんって優しいよね」

「お前、俺の話聞いてた?」

 話をそらされて腹立たしさすら覚えた。優しい訳じゃない。誰だって普通、夜中に女子中学生が一人で居ればそうするだろうと思う。

「もう帰るとこだから、心配しなくて大丈夫だよ」

 ブランコから立ち上がった少女が笑顔で告げる。暗がりに立っている彼女の髪を月の光が濡らしていた。

 また明日ね。と言って公園を出て行ったので言葉通り帰ったのだろう。家は知らないが、流石に少女が一人で野宿などしないだろう。まあ、野宿していたところで何の関係も無いのだが……

「……」

 未成年の娘がこんな時間になっても家に帰らなくて、親は捜していないのだろうか? 世の中、子煩悩な親ばかりと言うわけでは無いだろうが……自分の様に勝手に産んでおいて捨てて行く親だっている。迎えに来ない親に嫌気がさしてもうとっくに諦めた。

 十分もしないうちに彼女が公園に戻って来た。向こうも明神が居ることに驚いて目を丸くしている。何か適当な言い訳をしようと口を開きかけた彼女を遮った。

「行くとこないならついて来い」

 こう言っておいて後悔した。



 よくよく考えてみれば中二の女子を自分の家に泊めるだなんて嫌な話だ。かと言って観光地でもないこの里にはホテルとか無いのは知っているし、橋本の家に……と思ったが母親が不在なのに直人と二人っきりにするのはもっと不安だ。無いとは思うが何か間違いでもあったらそれこそ直人の母にも彼女にも申し訳ない。そうこう考えて結局、自分の屋敷に招き入れた。

 玄関の電気をつけると何度か裸電球が瞬きして暗い土間を照らした。壁に掛けられた振り子時計は三時十分を指した所で止まっている。太い天井の梁や高い上がり端が古めかしさを引き立てていた。埃っぽくは無いが、玄関にある檜の靴箱の上にも何も置かれておらず、何もない、がらんとした印象がある。

 明神が靴を揃えて上がると、少女もそれに習って土間から上がった。彼女がお邪魔します。と一言添えたが家の中に人の気配がなく、静まり返っている。明神は慣れた手付きで壁のスイッチを押すと、暗く長い廊下に明かりが灯った。靴下を履いていてもひんやりと足裏から板張りの冷気を感じ取れる。

「……ごめん、他に住んでる人は……」

「一人暮らしなんだ」

 古い家なので嫌なら勝手に出て行くだろうと思っていたのだが、本当に行くアテがないらしい。豆電球に照らされた彼女の顔は不安気だった。否、明らかに顔色が悪かった。顔が真っ青になっていて、唇の色が紫になっている。何だか今にも倒れそうだななどと考えていたら思い詰めた表情で固い口を開いた。

「その……お風呂借りてもいいかな?」

 廊下を歩いて風呂場に案内する。引戸を閉めてからその場を離れようとすると、何かが倒れる音がして風呂場のドアに手をかけた。……が、思いとどまった。相手が同性だったなら何も考えずに開けただろうが、異性となると開けるわけにはいかない。けれども開けずに放っておくわけにもいかなかった。

 仕方なく何もない空中から扇子を取り出した。総竹扇を開くと扇のおおよそ半分程に虎斑竹独特の模様が浮いている。

「クレハ」

 扇を仰ぐと目の前に朱色の羽織を纏った女性が現れ、深々と頭を下げた。年齢は二十六、七といったところだろうか。羽織の下は灰色の紬を着ている。

「説明は後でする。中の様子を見てきて欲しい」

 と、言いつつどう説明しようかと思った。長い髪を一つに纏めた紅葉の簪が揺れる。扉を開けて中を見たクレハの表情が強張ってこっちに視線を寄越した。

「取り敢えず病院へ連れて行くから……」

「取り敢えず清を寄越して下さい。それからあなたは向こうに行ってて下さい」

 状況が状況なだけに何も言えない。二、三後退ってから再び扇子を翻すと今度は千早に黄袴姿の幼子が姿を現した。肩にまでかかる栗色の髪が揺れると金木犀の花の香りがした。

「すまん、クレハの手伝いをして貰えるか」

 十歳くらいの幼子がにこりと笑って頷いた。とことこと風呂場に向かうのを見送ってから自室へ移った。

 


 紫色の作務衣に着替えて居間で参考書を読んでいると、小一時間程して清が来た。清はいつもと変わらぬ表情だったが、後から居間に来たクレハは眉間に皺を寄せ、複雑そうな表情をしている。明神の眼の前に向かい合うように正座すると、明神も本を置いて座り直した。

「説明していただけますか?」

 こうなる事は想像していたので呼びたく無かったのだが、仕方がないと溜息を吐いた。

「深夜徘徊してたから家に帰るように言ったんだが、帰りたくなさそうだったからうちへ連れて来た」

「相手の親御さんは?」

「知らん」

「誘拐じゃないですか」

 クレハに言われ、それは思い至らなかったと反省する。いくら子供に無関心な親でも、誘拐されたとあっては心中穏やかでは居られないだろう……多分。ただ、これに懲りて少しは反省し、身の振り方を考えるきっかけにでもなってもらえたなら御の字だが。

「それで?」

「は?」

「こんな事にならなかったらどうするおつもりで?」

 何だか変な方向に誤解されていないだろうかと不安になる。否、明神ももう元服を迎える年頃なのだからそういう疑いをかけられても文句を言えない立場だろう。勘違いさせるような行動をとったことは反省すべきだ。

「俺は仕事があるから……」

「彼女を一人、置いていくつもりでしたんでしょう? ええ、そうでしょう。貴方に夜這いは無理ですから」

 誤解されていたわけではないと分かってほっとするが、なら何故怒っているのだろうかと訝った。

「その方が彼女も安心するだろう」

「はあ?! こんな山奥の何もないこの家に一人っきりにされて安心できるわけないでしょう。無神経の権化ですか?!」

 言われてみれば、そうかもしれない。ただ、野宿よりはマシだろうと思っただけだった。

「で、俺にどうしろと?」

「右慶と左慶を貸して下さい」

「あいつら貸し出したら俺が丸腰になるだろ」

「狛が居るじゃありませんか」

「あれがものになるならとっくに使っている」

 言い合いをしている傍でお茶を淹れてきた清がオロオロと二人を見比べている。クレハは鬼の形相で怒鳴るが、明神は終始変わらず涼しい顔をして答えていた。

「では今すぐあの子を屋敷から追い出して下さい」

 何故そうなるのか全く話が見えてこない。あの人畜無害そうな彼女を敵視しているのだろうか? 家に連れ込んだ彼女に息子を取られると嫉妬する母親かと言いたいが思い留まる。

「あれは普通の人間だ。結界を弄ったりは出来ない」

「普通の人間は結界の中に入って来れないんです」

 それは解っている。けれども彼女からはなんの能力も感じられない。術者で無いことは明らかだった。

「俺にはその理由が見当もつかないんだが、クレハから視てどう思う?」

 クレハは神妙な顔をして見下げた。何か思い当たる節があるらしい。

「貴方、それ本気で言ってます?」

「は?」

「彼女の事、調べようともしないでよくそんな事が言えますね」

「興味ない」

「でしょうね。貴方は他人に興味を示す様な性格ではありませんし、自分にも興味がありません」

 クレハの言い方に棘があった。

「何が言いたい?」

「彼女の事を調べれば良いと言っているのです」

「面倒臭い」

 クレハが手を振り上げると明神を庇う様に清が前に出て止めた。クレハも我に返って振り上げた手をそっと下げる。

「貴方のそういう所、私の主人にそっくりで腹が立ちます」

 まあ、ここで臍を曲げられても困る。取り敢えずこの場は収めよう。

「解った。お前の好きにするといい。清、クレハの手伝いを頼む」

 視線を合わすと清が少し心配そうな顔をした。頭につけた金木犀の髪飾りが解けそうだったのでそっと止め直すと嬉しそうに笑う。明神は立ち上がると、扇子を取り出して清の両隣をゆっくりと仰いだ。清と身長差の無い男の子が二人現れるとそれぞれの頭を撫でた。

「右慶、左慶、クレハの手伝いを頼む」

 二人の男の子はお互いに顔を見合わせ、クレハを一瞥した。半紙で一つ結びにした黒髪が揺れる。

「事情は清に聞いて貰えれば良いから」

 不満そうな顔をする二人の顔を見比べる。どちらも白衣だが、右慶は赤、左慶は青い袴を履いている。袴の色が違うだけでほぼ同じ姿をしている二人は返事を躊躇っているようだった。

「主人はどうするのですか?」

「俺の心配はしなくていい」

 左慶が口を開いたが、右慶は視線だけ送ってきた。

「頼む」

「承知しました」

 二人同時に返事が来てほっと胸を撫で下ろした。

「行ってくるから……」

「聞かないんですね? あの子の容態」

「大したことなかったんだろう。別に死んだら家に返してやれば良いだけの話だし……そもそも……」

「ぎゃあああああ!!」

 急に子供の悲鳴が響いた。居間から声のした縁側の方へ目をやると、外との境に窓硝子のはめられたくれ縁を走る高らかな音が近付く。灰色の髪の子供が障子の隙間から顔を出した。白い狩衣を着た子供が、琥珀色の瞳を明神に向けるなり嬉々として声を上げた。

「彦が女を連れ込んだぁ!!」

 人差し指を向け、そう声を上げたものだから咄嗟に右慶と左慶が軽蔑の目でこちらを見つめる。もう少し他の言い方はないのかと言いたいが、間違っていないので否定出来ない。

「……幻滅しました」

「早いものでもうそんな年頃なんだな」

 左慶に続いて右慶も言葉を添える。絶対に面白がってるよなぁと思いつつも口にはしない。

「……勘違いさせるような行動をとった俺も悪いから想像は任せる」

 要らぬ疑いをかけられても仕方が無いが、質問を受け付けたくなかったのでそう言い放った。右慶と左慶が含み笑いをして見つめ合っている。そこに狛も混じって井戸端会議を始めていた。いつからお付き合いし始めたんだろう。とか、手はもう握ったのか。とか順番を間違えているんじゃないか。とかこそこそ話している声が聞こえたが、聞こえないふりをして堪えた。明神は溜息を吐くと狩衣を着た子供に視線を向けた。

「狛、仕事だ」

「え〜、夜は寝るためにあるんじゃ!」

「こんな時間まで遊び歩いていた奴の台詞とは思えんな」

 仕方がないので首根っこを掴んで玄関へ向かう。嫌だ嫌だと駄々をこねる狛を脇に抱えて外へ出ると丸い月が西へ傾いていた。



 月の光が木々の間を縫って差し込んでいる。木の幹や雑草に降りた光が、白い花を咲かせているかの様にそこここに落ちていた。闇の繁みから瓜坊が一匹顔を出すと風に流される様に山を上った。その背中に二匹の壁蝨が居る。その壁蝨が密々と語り合っていた。

「……ここ十年、山の守りが手薄になったな」

「ああ、儂ら雑魚でも入れる様になった」

「このまま例の屋敷に辿り着ければ良いが……」

 壁蝨はそう囁き合って山を見上げた。どうやらこの壁蝨共、妖物が擬態しているらしい。

「十年もあれば、誰ぞは辿り着けると思うとったが」

「屋敷の守りは相変わらずらしい。何でも、代替わりしたとか」

「ははあ……」

 壁蝨の一匹が、萌葱色の燐を吐き出した。溜息と一緒に思わず出してしまった瘴気にあてられてぱたりと瓜坊が倒れると、二匹の壁蝨は見つめ合った。

「で、その屋敷になんぞあるのか?」

「知らぬのか? 世にも恐ろしい鬼が封じられておるのよ。あれを蘇らせれば、儂らはコソコソする必要が無いのだよ。昔の様に、死体に取り憑いて、死体を漁り放題よ」

「あなや、そんな話があるのか」

「お前はまだ生まれて日が浅いのか、我も父から聞き及び、父もその父から聞いたらしい。良い時代であったと。疫病でばたばた人が死んでいくしの、死体に取り憑いてやりたい放題よ。それがある鬼の仕業というのだから脱帽ものよ。その恩恵に肖っておったのに、何処ぞの阿呆な一族が代々、未だに封じておるのだよ」

「陰陽師か?」

「京都でもないこんな田舎に陰陽師なぞ居るものか。鬼封じを専門とする一族よ。その首取ってしまえば我らの天下よ」

 壁蝨共は瓜坊の背中から葦の葉に移った。そこに止まっていた飛蝗の背中に飛び乗ると、ぴょんと跳ねて飛蝗が低い空を舞う。不意に、見えない壁の様な野風に当たって二匹は飛蝗の背中から剥がれた。

「やや」

「はて?」

 不思議な事に、擬態が解けて異形の姿に戻ってしまった。身の丈一メートル程の赤い皮膚をした小鬼が、隣で自分の姿を見回している青い皮膚の小鬼を見やる。

「なんぞ、あの風は」

 耳まで裂けた口から萌葱色の燐を吐き出しながら小鬼が問うた。もう一匹が、瞼のない大きな目で闇の中に向って顎で合図する。

「どうやら見つかったらしい」

 こちらも、瘴気を纏った燐を吐き出しながら言った。禿頭に生えた角を撫でながら、もう一匹も森の奥の闇へ視線を向ける。

「退くか?」

「見よ、まだ子供ぞ」

 月は出ているが、森の中は暗い。木々の隙間から溢れた月光が所々草木を濡らしているが、人ならばそこに何が居るのかなど到底分かるはずもなかった。けれども二匹の小鬼はその闇の中にひっそりと佇む少年を捉えていた。暗い色の作務衣を纏った明神が、扇を開いて口元に充てて立っている。涼し気な眼差しは間違いなくこちらを見つめていた。

「ああ、子供だ」

「こんな丑三つ時に、面妖な」

 明神が手にしていた扇を徐に振ると突風が吹いて二匹は地面にしがみついた。吹き飛ばされそうな風が通り過ぎると、明神が再び扇を靡かせる。一匹の小鬼が牙を向いて飛び上がると、もう一匹が這虫の様に地面を駆けて襲いかかる。あと少しで小鬼の爪が届く位置まで来た時に、明神の瞳が一瞬、碧く光った。白い大きな犬の首が、空を飛んで来た小鬼の首に噛み付いた。もう一匹の小鬼は明神に踏み付けられてじたばたしている。萌葱色の瘴気を吐き出しながら逃げようと身動きするが、明神の足は退かない。明神が小鬼を踏み潰すと同時に犬が咥えていた小鬼の首を噛みちぎった。二つの異形の物が塵になると、明神は夜空を見上げた。

「あと十二匹か……」

 そう呟いて扇子を翻した。どうも、この暗い山中のどの辺りに妖物が居るのかが明神には分かるらしい。

「彦、眠いぞ」

 大きな犬の首だった式神が、白い狩衣を着た幼子の姿に変わる。狛の声を聞いて明神は目を伏せた。

「……そうか」

 それだけ呟いて明神は歩き始めた。鬱蒼と茂る草木を掻き分けて山中を進む。大欠伸をしながら渋々着いていく狛が、瞼が下がりきるのを堪えていた。



 明神は日が登るのを眺めながら新聞配達を終わらせた。いつもならその足で学校へ行くのだが、彼女の様子が気になった。とっくに眠りこけている狛を背負うと屋敷に向かう。門の所に青い袴を履いた左慶が立っていて軽く頭を下げた。

「まだ眠っているみたいですよ」

「そうか」

 聞きもしないのに先に伝えてもらえて助かるが、そんなことを口にしたらまた何か良からぬ噂になりそうで言葉にしない。目を伏せると左慶が履いている雪駄が目の端に入った。

「右慶は?」

「社の方を見張ってたみたいですよ」

 裏庭に小さな神社があるが、大して気にした事がなかった。クレハが庭の手入れと一緒に綺麗にしてくれていることは知っていた。けれども物心付く頃には両親が居なかったので家の事も、どういった由縁があるのかもよく知らない。

「少し休まれたほうが良いですよ」

 左慶の言葉に狛の様子を伺ったがまだ寝ている。白い狩衣が土埃で所々汚れていた。

「ああ……こないだもらった薬、また作って貰えるか?」

 左慶は驚いた様に一瞬だけ目を丸くした。

「もう全部飲んだんですか?」

「ああ」

 左慶の額から冷や汗が溢れると軽く頭を下げた。

「申し訳ありません。渡せません」

「……そうか」

 明神の体を心配してそう言ったのだと解ったからそれ以上何も言わなかった。ちゃんと用法容量守って使えと言われたのに早々に使い終えてしまった自分も悪い。最近は夜、よく眠れない日が続いていた。寝るのも体力が居るのだとほとほと思う。だから日中、授業中にうたた寝してしまう事もあり、左慶に頼んで眠り薬を作って貰っていた。それでも、よく眠れなくて気付くと朝まで本を読んでいたりしてしまう。

 どうせ寝れないなら別に家に居なくても良いかと思った。彼女を家に泊めて、自分は仕事がてら外を彷徨いてもなんら問題ないだろう。小一時間仮眠はとったし、今もそれ程眠気に襲われない。ただ、それが人の身体で無くなっている証拠なのではないだろうかと時々思うことがあった。

 左慶に狛の事を頼んで家に入った。朝食を作っていたら起きて来たので長いこと使っていなかった卓袱台を出して並べる。

 五穀米のご飯。焼き魚と、大根おろしに、豆腐とわかめとしめじの味噌汁。それから赤玉ねぎを薄切りにして貝割れと鰹節で和えたサラダ。だし巻き卵と、トマトと市販の納豆。海苔とイカナゴの釘煮、林檎……栄養に偏りは無いだろうかと気にしつつ、家にあるもので適当に作ったのでそこは仕方が無いだろう。

 頭の中で五大栄養素を暗唱してしまうのは橋本家のせいだと思う。小学校低学年の時だったか、直人の母親が盲腸で倒れて入院している間、直人の食事を作りに行っていた時期がある。その時に、他人から預かった成長期の子供にまともなものをちゃんと食べさせておかなければと本を読み漁った。野菜や魚が嫌いな直人にどうやって食わせるかとか難儀した思い出がある。直人の母親が退院した折に、「うちの子なんか一週間くらいカップ麺でも良かったのに」などと言われた時には張り詰めていた神経が切れてしまう思いだった。いい加減な母親だと思いつつ、明神を気遣って言った言葉なのだろう。

 居間に来た彼女が、おはようと声をかけたが明神は反応に困って無視した。

「昨日はごめんね」

 別に謝る必要は無いと思うが、前もって気分が悪いのならそう言ってほしかった部分もある。

「彦くんは朝ごはん食べたの?」

「は?」

 驚いて思わず彼女の顔を見た。少女は何か変な事を言っただろうかと困惑の表情を浮かべる。その時に、彼女が自分の母の浴衣を着ていることに気付いた。淡い藤色の着物に見覚えがあった。

「悪い、俺を呼ぶ時は名字で呼んでほしい」

「ごめん……」

「何処で知った?」

 返答によってはクレハではないが本気で彼女のことを調べる必要がある。彦は渾名だが、式神以外それを知る者は居ないはずだ。

「ん〜……昨日、実はすごい足音と悲鳴で一度目が覚めて、その時に聞こえて来て……」

 ああ、あれか。と納得する。

「なんか、変な誤解させちゃってごめんね」

「いや、気にしてない」

 寧ろそっちの方が要らぬ誤解を被って迷惑しているんじゃないだろうかとさえ思う。

「弟さん?」

 一人暮らしだといった手前、そう説明するのも辻褄が合わなかった。

「……近所の子供」

 苦し紛れの嘘を言うが、彼女はそれで納得してくれたらしい。

「一緒にご飯食べようよ」

 一人分しか食事を用意していないのを見て彼女がそう言った。

 最近よく、物を口にすることも忘れてしまうことがある。平日は学校の給食があるが、元々朝食はとらない質だった。それが土日に入るとお腹が空かないのですっかり飲み食いすることを忘れてしまっていることがあった。それが最近特に酷い。長期休暇にでも入ったらそれこそもう人の生活になんて戻れないのではないだろうかと思う。

「俺は要らない」

「じゃあ私も要らない」

 まあ、頼まれもしないのに勝手に用意した自分も悪い。ただ単に食欲がないだけなのかもしれないし、年頃だから無理なダイエットに挑戦中なのかもしれない。

「俺の作ったものが食べたくないなら別に無理して食べなくていい」

「そんな風に思ってないよ」

 即答され、困惑する。じゃあなんなんだと言いたいが、彼女は焼き魚を半分にすると他の皿に分け始めた。茶碗によそったご飯まで半分にしている。

「頂きます」

 半分に取り分けた方を自分の目の前に置き、残った方を明神の前に並べて手を合わせた。ちゃんと食べ始めたので、他人が作ったものが食べられないとかそういった理由ではない様だ。

「美味しいよ」

 笑みを浮かべてそう言うが、その行動の意味が解らない。

「そんなに食べられないならそう言ってくれればいい」

 一瞬、彼女が驚いた様な顔をしてから少し悲しげな表情を浮かべた。

「ご飯は誰かと一緒に食べた方が美味しいから一緒に食べようって言っただけだよ。他に意味なんてない。どうしてそんなに勘繰るの?」

「言葉を返すようだが、味は変わらん」

「そうだね。気分の問題だよね。でも気分によって味覚は変わるよ?」

 彼女の話にも一理ある。彼女がそれを望むのなら、別に良いかとも思った。だから自分の箸を取ってくると、手を合わせてから彼女が分けて置いたご飯に手を付ける。彼女が笑うのを見て何だか不思議な気持ちだった。

 


 学校に着いてからずっと視線を感じるので休み時間に屋上へ出た。普段は鍵が掛かっていて入れないのだが、いつも勝手に鍵を開けて入っている。空は晴れていて日差しが眩しいが、コンクリートの床にはそこここに水溜りが出来ていた。誰も居ない屋上に出て、溜息のように呟いた。

「右慶」

 名前を呼ぶと眼の前に赤い袴を履いた子供が姿を現す。雪駄を履いた右慶が神妙な顔をしていた。

「何だ?」

「クレハがあまり彼女に深入りするなと」

「心配するな。もう屋敷には入れないように結界張り直しておいたから」

 あそこまで過敏に反応されたらこっちがおちおちしていられない。

「……多分それは無意味だ」

 右慶の言葉の意味が解らなかった。

「彼女を招き入れた人物が居る」

 その人物に心当たりが無かった。式神の誰かが呼んだとは思えない。

「それは?」

「俺とクレハを作った人物だ」

 思わず一瞬驚いたが、何を言い出したのかと意味を探る。

「お前らを作った術者はもうとっくに亡くなっているだろう」

 右慶はそっと目を閉じると俯いた。

「行方不明になったと聞いている」

「心配しなくても人は千年も生きたりしない」

「術者が亡くなればその術者が作った式神や眷属は消滅するのが普通らしい」

 それを言われると返答に困る。確かに本来はそういうものだが、何か通常とは違う作り方をしたのだろうとしか明神にも分からなかった。

「まあ百歩譲ったとして、どうしてお前達を作った術者が彼女をあの屋敷に呼ぶんだ?」

「彼女を生贄にする為だろ」

 右慶の声が酷く低かった。どうしてそうなるのか全く分からない。

「社の扉が一度開いた形跡があった。多分あれが最初に屋敷に来た時だと思う。本人に聞いてみれば良い。誰が門を開けて屋敷に招き入れたのか、何処で噂を知ったのか」

 冷たい汗が頬を伝った。考えたくは無いが、想像してしまう。

「聞くのが怖いか?」

「……面倒臭いだけだ」

「そうやって逃げるんだな。自分の事も、あの屋敷の事も、家族の事も全部そうやって目を背けて調べようともしない」

「それを知ったところで過去や現状が変わるわけじゃない」

 一人っきりだった今までが無かったことにはならない。

「どうして千年もの間封印され、誰からも忘れ去られていた俺の封印を解くことが出来たのか考えたことはあるか?」

「偶然見つけただけだ」

「物心付く頃には両親が居なかったのに呪術の扱い方がわかる事に疑問を持った事は?」

「俺が覚えていないだけで両親が使い方を教えていたんだろう。記憶には無いが体が覚えているというだけだ」

「何でそうやって否定するんだ?」

 右慶の言わんとしていることが解らなかった。

「あれが屋敷に来たあの日、門が開いていたのを見て彦は期待したはずだ。父親が自分を迎えに来てくれたのだと。何でそんな自分さえも否定するんだ?」

「黙れ」

 覚えてもいない父親のことを言われて腹が立つ。自分の心を見透かされて嫌だった。

「……すまない。言いすぎた」

 一礼して右慶が姿を消した。どうしようもない憤りと情けなさが込み上げる。ずっと考えない様にしてきた。知っても仕方がないと。否、真実を知る勇気が無くて、全部に蓋をしたのだ。それがいかに危険なことなのかを考えたことも無かった。



 ーー楓の梢を縫って空に幾つかの星が瞬いていた。膝丈程に伸びた茅が歩く度にさらさらと音を立てる。明神は慣れた山道を歩きながら後ろを着いてきている清に視線を向けた。千早姿の清が明神の顔を見て萎縮したように肩を竦める。明神は鬱蒼と生い茂る雑草の中へ再び足を踏み出した。さっきまでバイト先に居たのだが、鈴の音がして外に出ると顔が真っ青になった清が闇の中に立っていた。黄色い袴に、千早を身につけた清は白足袋に鈴下駄を履いている。その鈴下駄の音に気付いてバイトを早く切り上げたのだが、事情を聞こうにも清は何も言わなかった。ただ、黒い大きな瞳に混乱と悲しみだけが滲み出ていた。

「無理に話そうとしなくていい」

 不安気に何か言おうとする清にそう言った。心の整理がついたなら道すがら話しを聞ければ良いと思っていたが、清が一言も声を発さないまま門の所まで辿り着いた。四脚門の扉が少し空いている。その扉を開けて庭に入ると、直ぐに血の臭いがして清を門の所で待たせた。足を踏み出す度に、白い細かい砂を踏む音だけが響いている。庭を回って社の方へ向かうと白い砂地の庭に赤い血溜まりが出来ていて、腕一本落ちていた。その腕を拾い上げると硝子戸の開いたくれ縁から声がした。

「彦」

 クレハの声で縁側に視線を向けると布で包んだ何かを抱えているクレハの姿があった。

「後で行くからくっつけとけ」

 クレハに向かって腕を放り投げると、クレハがそれを受け取って縁側を走っていく。扇子を出して円を描くとそこここに散らばった赤い血が宙を舞う。集まった赤い塊を扇子の上で浮かせるとそのまま扇子を閉じた。扇子を閉じたと同時に赤い玉が消える。

 大分少ない……

 沓脱石に運動靴を置いて縁側から屋敷に入った。そのまま板張りのくれ縁についた血を辿って部屋に行く。障子を開けると手足が千切れてボロボロになった右慶が布団に寝かされていた。右慶の傍に正座すると扇子を開いた。虎斑竹の模様がほんのりと金の光を放っている。

「清を呼んで来ます」

「治すから待て。左慶は?」

「隣の部屋であの子を見張ってます」

「は?」

 あの子、と聞いても一瞬ピンと来なかった。取り敢えず扇子を翻すと集めた赤い血が眼の前に浮かぶ。その丸くなった赤い塊を右慶の体に入るように扇で押さえると右慶の身体の中へ消える。手足に扇を翳すと傷口がくっついたので布団を掛けた。右慶の顔を覗くと頬や額に掠り傷が出来ている。寝息を立てているのでこれで大丈夫だろうと胸を撫で下ろした。

「左慶」

 襖を開け、隣を覗く。部屋の手前に座っていた左慶と目が合ったが、部屋の隅に蹲っている彼女は膝を抱えている。

「ちょっと来い」

 左慶が近付くと左腕を掴んだ。痛がったので骨が折れているのだろう。足の骨も折れている。扇を翳して左慶を治している間にクレハが清を連れて来た。

「聞かないんですね。何があったのか」

「……まあ、後でな」

 左慶の手当を終えてから隣の部屋を覗いたがさっきと何も変わっていない。寝ているのだろうかと思って近付くと彼女の声がした。

「……ごめん」

 小刻みに震えている彼女の姿に、居心地の悪さを覚える。

「謝るのはこっちだ」

 まさか今日も来ているとは思っていなかった。行く所が無ければ来るだろうと予想は出来ただろうに、そこまで考えなかった自分が悪い。

「落ち着いたら後で送るから」

 血の臭いがしないので多分怪我はしていないだろう。打撲とかだと見た目には分からないので気にはなるが、自分が手当を申し出て良いものか迷う。

「怪我は?」

 彼女が首を横に振った。そっと部屋の障子を閉めるとクレハが心配そうな顔をしている。

「……あまり聞きたくは無いんだが」

「貴方って人は……」

 咳を切った様に怒るクレハにどう説明しようかと悩む。

「まあ、お前や右慶の話をまともに聞かなかった俺が悪いから反論はしないが、大丈夫だから落ち着け」

 怒りに燃えるクレハを連れて右慶が寝ている部屋を開けると、清と左慶が心配そうに右慶の様子を伺っている。

「怪我の割に出血の量もたいしたこと無かった。右慶も左慶も先ず手足を狙われている。俺なら迷いなく脳天か胸を狙うのに治せば済むようにわざと外してあるんだ。向こうは本気じゃない。式神を破壊する事を目的にしてないんだ」

 真っ青だったクレハの顔が少しだけ落ち着きを取り戻した。

「言われてみれば確かに……」

「だから話はそれぞれが落ち着いてからで良いと俺は判断する」

「……聞きたくないだけでしょう?」

 右慶の声で気が付いたのかと近付く。

「聡い貴方のことだから見当がついているはずだ。向こうはあんたの体力が尽きるのを待ってる。だから式神の治療に力使わせる為にあえて止めをさしてない。そこまで分かっててもあんたは見捨てない人だ。向こうの思うつぼなんだよ!」

「次に何か起こった時に手負いで動けない右慶と左慶を担いで逃げるには足手まといになるから治しただけだ。かいかぶるな」

「あんたなぁ……」

「それだけ無駄口叩けるなら大丈夫だな。取り敢えず寝とけ」

 反論が来る前に障子を閉めた。くれ縁の窓から庭を見ると大きな藤の木が枝を広げている。花はもう散ってしまったが、月の光に照らされた木には存在感があった。

「どうしたんじゃ?」

 狛の声がしてクレハと共に声のした方へ視線を向ける。彼女が居る部屋の障子が開いているので、帰って来た狛が部屋に入ったのだろう。

「涙は子供の結婚式か親の葬式の時くらいまでとっておくものらしいぞ」

「親父みたいな事を言うな……」

 なんの気無しに言うと、驚いた様な顔をしてクレハがこっちを見た。

「……覚えているんですか?」

「は?」

「貴方が三歳の頃に出て行った父親が、貴方がよく泣く度に言い聞かせていました」

「そんなもの覚えていられるか。なんとなくそう思っただけだ」

 けれども、狛を作ったのが七歳の時なので、狛がそれを知るはずがない。里をうろちょろしているから何処かでそういった言葉を耳にしたのだろう。

「狛は見つけたのかもしれませんよ?」

「子供を捨てた親を探すのはもうとっくに止めたんだ。それに今更こっちから会いに行ったら迷惑だろ」

「子供に会いに来られて迷惑に思う親なんて居るもんですか」

 割と楽天家だよなぁと思いつつも、この話題をさっさと切り上げたかった。もうとっくに顔も声も忘れてしまった親のことなどどうでもいい。

 部屋から少女が顔を出すと、一瞬目をそらした。首に赤く締められた痕が残っているのを目にしていたたまれない。

「ごめん。私はもう大丈夫だから帰るね」

 本当に自宅に帰る気があるのか少し心配だった。

「送っていく」

「一人で帰れるよ」

「聞きたいことがあるんだ」

 彼女が少し困った様な顔をするので、帰る気が無かったのではないかと疑ってしまう。

「心配せんでも、奴は送り狼になんかならんぞ? 俺様が保証する」

「狛くん、面白いこと言うね」

 足元に居た狛に少女が笑顔を向けた。



 門を出た所から二人っきりになるとお互いになかなか話を切り出せないでいた。獣道を覆い隠すように雑草が背比べをしている。木菟の鳴き声が森の奥からする。暗い雑木林を通るのに彼女に渡した懐中電灯の光が丸く足元を照らしているが、前を歩いていた明神は歩き慣れているのでちらつくその灯りが少し鬱陶しかった。

「最初に屋敷に来た時、誰に会った?」

 右慶からの助言を思い出して言葉にする。懐中電灯を手に、後ろを歩いていた少女が少し口籠った。

「明神くんに会ったよ」

 思わず足を止めて振り返った。彼女が萎縮した様な表情を浮かべる。

「質問が悪かった。誰に鬼の噂を聞いた?」

 彼女は一度不思議そうに首を傾げた。

「引っ越して来た日に公園で教えてもらったの。願いを叶えたかったらついておいでって案内してもらって、直ぐ来るからここで待ってなさいって言われて、それで玄関で待ってたの」

 彼女の言葉に嘘は無いだろう。

「……覚えてないの?」

 自分が否定してきた考えが肯定されてしまった気分だった。清の反応を見た時、そうじゃないだろうかとは思っていた。あの子が混乱して何も言えなかったのは、自分が二人居たからだ。

「ああ……忘れてた」

 彼女には関係の無い話だから、誤解を解く必要など無いだろう。

「俺から誘っといて悪いけど、もううちには来るな」

 まあ、これだけ怯えているのだから来ることは無いと信じたい。

「ごめんね……」

「何でお前が謝る? 悪いのは俺だ」

 謝ってほしくなかった。俺の不手際で傷付けてしまったのに……

 山を降りきってから彼女に案内されるままに住宅街を歩いた。同じ形の建物が幾つも並んでいる。茶色い二階建ての家は築十五年といったところだろうか。彼女の家に行くと家に鍵がかかっていた。勝手口にも回ったがやはり閉まっていて、聞くと合鍵を持って居なかった。玄関に回って呼び鈴を鳴らそうとすると彼女に止められた。

「お母さん、多分寝てると思うからいいよ」

「お前な……」

「私は慣れてるから大丈夫」

 こんな事に慣れてどうすると言いたいが、他人の家庭の事情に踏み込むわけにもいかない。

「ちょっとあっち向いてろ」

 彼女にそう言って狭い道路側を向かせた。細い針金を鍵穴に入れてどうにかして開ける作業を見たことはあるが、自分にそんな技術はない。仕方がないので扇子を出して鍵穴に風を送ると独りでに鍵が開く。扇子を片付けて彼女に声をかけると扉が開いていて彼女が驚いていた。

「すごい! 泥棒さんみたいだね!」

「二度とこんなことしないから覚えとけよ。家を出る前に何処かの窓の鍵を開けておくか、最悪壊しておけ。親も大事だろうけど先ずは自分を大事にしろ」

 彼女が少し辛そうに笑った。今にも泣き出しそうな瞳に目を背ける。

「うん……」

 家の中へ入るのを見届けてからその場を後にした。親なんて自分が幸せになる為なら棄ててやるくらいの気概がほしい。でないと彼女は親に洗脳されたまま疲れ果てて死んでしまう。そんな、自分の命に比べれば価値のない人間に汚されて自分の人生を棒に振ってほしくなかった。折角産まれて来たのだから、生きている間くらい幸せであって欲しい。何の力にもなってやれないことが少し歯痒かった。



 屋敷に戻ると皆疲れ切って眠っていた。一人ひとり布団をかけながら頭の中を整理する。狛がいないのでまた何処かへ行ったのだろう。社に向かうとクレハが掃除をしていた。

「悪い」

「話は聞けましたか?」

「俺に化けて出てくる奴に心当たりが無いんだが」

「まあ、そうですね。でなきゃ彼女が襲われる前に右慶と左慶が止めていたでしょう。反応が遅れたことも敗因です。そこは私も反省しています」

 クレハでも見分けがつかなかったとなると厄介だ。

「そんなことをする人では無かったんですけどね」

 意味あり気に視線を寄越した。質問しろと言っているような目だった。

「お前らを作った主人か? とっくに死んでるだろう」

「そうですね。今は思念しか残っていなくて、もう記憶も混濁しているんでしょう」

 クレハと右慶はこの屋敷に大昔に住んでいた鬼が作った式神なのだと聞いた。呪術の鬼才と呼ばれ、誰も敵うことが無かったのだと。けれども千年前に行方不明になったと聞いている。

「なんでそいつが、俺に化けて出てくる?」

「以前にも申し上げた筈です。貴方は私の主人の再来だと。生まれ変わりです。でなきゃ私も知らなかった右慶の封印場所を発見するなんてありえません」

 そう言われてもピンと来ない。というか信じたくないといった方が正解だろう。

「どうすればいい?」

「……それは私にもわかりません。私が知っている主人は優しい人でした。優しい人を演じていただけかもしれません。心の内までは私にも分かりません」

 クレハの視線の先に社があった。くれ縁の窓越しに月に照らされた社が見える。両脇に供えられた榊の枝が静かに揺れていた。

「千年前、私達の他にもう一体式神が居ました。主人に従順で、主人も一番可愛がっていたのですが、ある日思い余って彼を殺してしまいました」

 右慶と左慶がやられた時に取り乱したのはそのせいかと納得する。

「あの頃から少し気が触れていたのかも知れません。あの時の想いだけ、こちらに置いてきてしまったのか……」

 俯く彼女の横顔が酷く悲しげだった。何があったのか知りたい気持ちもあったが、聞きたくなかった。千年前のことを知った所で、自分に化けて出て来た奴が彼女を傷付けた事実が無くなるわけではない。どんな理由があるにせよ、他人を傷付けて良い理由になどならないだろう。……人であるならばの話だが。

「俺は仕事に行ってくるから、クレハも少し休め」

「その言葉、そっくりそのままお返しします。左慶から聞きましたよ? 二週間分渡しておいたら三日で薬を飲みきったと。しんどいなら休んで下さい」

 他の式神には黙っておけと口止めしておいたのに……と左慶を恨みつつも仕方がない。薬を頼み始めたのが三年くらい前だからよく黙っていた方だろう。

「自分が作った薬よりも、人間が人間の体に合わせて作った薬の方が効くかもしれないと言っていましたよ? あまり苛めないでやって下さい」

「苛めてなんか……」

「貴方にその気がなくても、左慶は苦しんでいるんです。貴方に作られた式神として貴方の言う事を聞くべきか、貴方の体のことを思って逆らうべきか。あの子の立場も考えてやって下さい」

 それを言われるとぐうの音も出ない。クレハから視線をそらせると軒先に隠れていた狛と目が合った。

「まあ、取り敢えずここは頼む」

「私の話を聞いてました?」

「分かったから。狛にも話さなきゃならない事があるんだ」

 クレハが不服そうな顔をしていたが放っておいて狛の所へ行く。狛の前に膝をつくと狛も板張りの床に正座した。

「右慶と左慶に怒られたのじゃ」

 珍しく真剣な表情で、眉間に縦皺を寄せている。先輩達に説教されてよっぽど堪えたのだろう。

「あいつらなりの、頑張れっていうエールなんだろう」

「いつまで遊んでるつもりだって」

 不貞腐れて頬が膨らんでいる。右慶や左慶の言いたい事は尤もだとは思う。けれども、狛が前の飼い主を探しているのを知っているから、あまり強く言ってこなかった自分も悪い。だからそこを責める気は無かった。狛が居たとしても、今回の事は防ぎようの無かったことだと思う。

「もしもの時に式神に全滅されたらまた一から式神作らないといけないから、お前が無事で良かったと思う。出来なかったことを反省するのは良いが、何時までも引き摺るのは感心しない」

 狛がいきなり怒った様に手を振り上げたが、明神は優しく狛の小さい腕を掴んだ。

「彦のそういう所が嫌いなんじゃ。普通、怒る所じゃろ? 俺様が居れば誰も傷付かずに済んだんじゃろ!」

 狛の言葉に明神は瞳を一度宙に飛ばした。

「それを言うなら、俺がバイトなんか行かずにずっとここに居れば良かったわけだし、あの子のことをもう少し気にかけてやれていれば防げたことだ。責任は俺にある。お前は悪くない」

 狛が睨むように明神を見上げた。

「あの子のこと、好きなんじゃろ?」

 いつもの誂う様な表情では無く、琥珀色の瞳に真剣さがあった。

「好きならちゃんと、守ってやらねばならんじゃろ? 俺様も協力するから……」

「好きでないと助けては駄目か?」

 狛の言葉が終わる前に問い質した。狛が何を言い出したんだと不思議そうに首を傾げる。

「巣から落ちた雛を憐れにこそ思えば、好きとか嫌いなんて感情一つでその命を掬い上げたり、踏み潰して良いものではないだろう。眼の前に手を差し伸べれば助かるかもしれない命があるから行動を起こすのであって、俺の気持ちは関係ない」

 何の感情も伴わない顔に唇を噛み締めた。

「お前の顔は能面か? お前と話していると人間と話しをしている気がせんわい。彦の感情は何処行ったんじゃ!」

「俺もそう思う」

 意外な言葉に狛が少し驚いた様に目を見張った。明神は扇子を出すとそこに視線を落とす。虎斑竹の斑点を眺めながら目を細めた。

「……どうも最近、体の呪詛を抑えきれなくて人間では無くなって行っているらしい」

「は?」

「……単純に言えば体力が無くなってるせいだろうとは思う」

「じゃあ食って寝ておればええんじゃろ!」

「まあ、そういう事なんだろうな」

 明神はそう言うと扇子を閉じた。

「狛、頼みがあるんだ」

 狛はそれを聞いて背筋を伸ばした。

「何じゃ? 彦が寝とる間、見張りをしておれば良いのか? それとも里の見回りか……バイトの代わりは無理じゃぞ?」

 狛は思いつく限り言葉を並べた。主人が休むと言うのならば出来る限りのことを手伝うつもりだった。それで人間らしい感情が戻って来ると言うのであればそれこそ願ったり叶ったりだった。どうも、今の明神相手では調子が狂ってしまう。そう狛は考えていた。

「俺の首を切り落とせ」

 狛が驚いた表情をして、唇を噛み締めた。



 澄み渡るような晴天の下を百合は歩いていた。土曜日は学校が半日休みなので少し時間を持て余していた。家には居辛いので荷物を置いて借りていた傘とタオルを持つ。母は寝ているようだった。明神に言われた通り、窓の鍵を一つ開けてから家を出る。

「なんだか不思議な子だなぁ……」

 明神のことを考えながら自然とそっちへ足が進む。もう来るなと言われたが、借りていた傘とタオルを返しに行くだけなら良いだろうと思っていた。これを返してしまったら、もう会いに行く口実が無くなってしまう。その事が少し残念だった。表情があまり変わらないので何を考えているのか解らないところもあるが、優しい人だと思う。心配してくれて、気にかけてくれる。もう少し早く彼に出会えていたなら、何かが変わったのではないだろうかと思った。否、あの日彼に出会えていなかったら、私はどうなっていたのだろう? きっとこんな風に晴天の下を歩くことなど無かっただろうと思う。

 門の前に立つと、居るだろうかと少し不安になった。居なかったら、玄関に置いて行こう。最期にありがとうと、ごめんなさいだけ伝えたかったけど、メモもペンも持って来なかった。

 門を開けようとすると、勝手に開いたので少し目を丸くする。門の隙間から彼が顔を出すと少し嬉しかったが、呆れたように溜息を吐く彼が少しだけ怖かった。

「帰れ」

 突っぱねられて萎縮してしまう。必死に言葉を絞り出した。

「前に貸してもらった傘とタオルを返しに来ただけだから直ぐに帰るよ。ありがとう」

 そっと差し出したが、彼は受け取ってくれない。

「そんなのいいから」

 多分、彼は気付いているのだ。これを返したらその後どうするつもりなのか……だから受け取ってくれない。それがどうしょうもなく嬉しくて苦しかった。

 私がその場で俯いていると彼は門戸をもう少しだけ開けた。

「来い」

 家の中に通されて、玄関の上がり端に傘とタオルを置いた。彼が戻って来る前に去ろうとしたが、彼は直ぐに戻って来た。手に持っていた何かを私の首にかけると私はその首飾りについた碧い石を見つめた。

「綺麗」

「それ、母親の形見」

 驚いて彼に視線を向けるが、やはり真顔で何を考えているのか解らない。

「やるからお前が持ってろ」

「そんな大切なもの貰えないよ!」

「要らないなら捨てれば良いだろ」

「そういう言い方良くないよ」

 彼は少し口が悪い。けれどもその言葉の中に温かみを感じる。それが嬉しくて涙が溢れた。

「ありがとう」

 彼は何も聞かなかった。夜中に公園に居ても家に泊めてくれたし、家に鍵がかかっていて入れなくても理由一つ聞かなかった。彼なりの私への気遣いだったのだろう。それが嬉しくて切なかった。お世話になりっぱなしの上にこんなものまで貰って何だか申し訳ない。こんなものを貰ったら、いなくなる事を躊躇してしまう。私は彼に何を返せるだろうか?

 急に大きな音がして目の前が真っ赤に染まった。天井まで届くくらいの大きな犬が、彼の首筋に噛み付いている。一瞬何が起こったのか解らなかった。それでも彼は眉一つ動かすことなく自分に噛み付いた犬の頭を撫でる。

「狛……」

「そいつから離れろ!」

 玄関の外に明神が立っていた。一瞬何故だが解らなかったが、咄嗟に彼へ手を伸ばした。

「やめて!」

 彼に腕を引っ張られ、胸に冷たい感触と痛みが走った。玄関の外にいた明神の姿が目に焼き付いたまま世界が真っ暗になった。



 明神は思わず舌打ちした。奴に噛み付いていた狛の術が解けて子供の姿に戻る。犬の牙が外れると黒い靄になってあいつの姿が消えかけた。咄嗟に扇を返して捕縛しようとしたが捕まえられない。

「百合!」

 駆け寄った狛がそう叫んだのを聞いた時、何故彼女だったのかを悟った。否、今まで知ろうともしなかった自分が歯痒い。

「彦!」

 狛の声でやっと彼女の元へ駆け寄った。扇子を開き、傷が塞がる様にするが、上手くいかない。力を消耗し過ぎて意識が朦朧とする。血が止まらなかった。扇子を持っている手が小刻みに震える。

「何をしておるんじゃ! 死んでしまうぞ!」

「とっくにこの子の寿命は尽きている」

 分かっていたことだった。だからあの日、家に呼んだのだ。どうせ短い命ならばと同情した自分がいる。最期くらい安らかであれと願ったのがそもそもの間違いだったのだろうか? 

 何もしない自分に腹を立てて狛が思い切り頭を叩いた。

「俺様が仕留め損なったんじゃ。俺様のせいで百合が死ぬのは許せん」

「お前が悪い訳じゃない。俺の姿をしていたからお前が躊躇することくらい分かっていた。彼女があいつを庇うところまで見据えなかった俺の判断ミスだ」

 恐る恐る彼女の胸に刺さった匕首を引き抜く。血が吹き出す傷口に右手を当てると、体温と一緒に彼女の記憶が流れてくる。傷を塞ぐとやっと血が止まった。



 ーー百合はあの日、死ぬ事を決意していた。

 霧の様な優しい雨だった。妹を病気で無くして久しい。生きていた頃は家の鍵を開けて迎え入れてくれていた妹が居なくなって家に入れない日が何度か続いた。警察に保護され、街に居づらくなった両親が私も連れてこの里に引っ越して来たが、父は仕事の関係で直ぐまた家を出た。母はいつも妹の骨壷を抱いて泣いている。私は貰われっこなのだと聞いた。

「あんたが死ねばよかったのに」

 母の言葉が呪文のように頭の中を行き交った。その通りだと思う。どうして神様はこんな理不尽なことをするのだろう。知らない土地を徘徊しながら死に場所を探した。どうすれば楽に死ねるだろうかと考えていた。

「あの山にどんな願いも叶える鬼が居る」

 同い年くらいの小柄な男の子だった。切れ長で少し虚ろな瞳をしている。彼に案内されるままついていったのは、別にそれが本当でも嘘でも良かったからだ。でももし、本当に願いが叶うのなら、妹を蘇らせて欲しかった。でも……

「くだらない」

 明神の言葉に傷ついた。けれども同時に彼の優しさに触れてしまった。私にとっては重要な事でも、赤の他人からすればごくごくくだらない願いなのだ。死者を蘇らせるなどと、滑稽な願いがそもそも叶うはずない。それを笑いもせずに、傘とタオルを差し出してくれたことが嬉しかった。

 次の日、学校から帰ると鍵がかかっていた。裏口もかかっていて家に入れない。どうしたものかと途方に暮れていると何だか気持ちが悪くて吐き気がした。風邪をひいたのだろうかと思いながら公園のベンチで横になった。ひんやりとしたベンチに横になると、少し眠る。眠ったまま死んでしまわないだろうかと期待したが三時間程で目が覚めた。冷たい風に起こされ、ブランコに乗って星空を眺めた。もうこんな人生いいかなと思った。楽しいことなんてないし、私が死んでも誰も悲しまないだろう。

「行くとこないならついて来い」

 と、明神くんに言われた時、正直嬉しかった。体もしんどいし、何よりここに一人で居るのが寂しかった。いつの間にか気を失って、布団の中で目を覚ました時の心地よさを覚えている。けれども彼は出て行ってしまったらしい。多分、私に気を使ったのだ。同じ家の中にいれば安心して休めないだろうと私の為に家を空けてくれたのだ。そう思う。彼はそういう性格だ。優しくて勘ぐりやすくて、少し自嘲気味で、素朴で器の大きな人だ。

「自分を大事にしろ」

 という彼の言葉が胸を貫いた。どうしてそこまで優しく出来るのだろう? どうして謝ってくれたのだろう? 全部私が悪いのに……全部私のせいなのに……最期にごめんねと言えなかったことだけが心残りだったーー



 それ以上彼女の体に触れるのが怖かった。狛にクレハを呼んでくるように頼んで百合の様子を伺う。薄っすらと開いた瞳に生気が無い。彼女から離れるとゆっくりと息を吐いた。

「お前の目的は最初からこれだろう?」

 意識が朦朧としても、自分の目の前に誰かが立っているのが解る。体を取られる前に足の一本でも潰して置きたかったのだが、それをする力も残っていない。狛に頼んでおいたものの、あいつも情に脆くて困る。まあ、自分が作った式神なのだから文句の言って行き場がない。そのまま完全に意識を失ってしまった。



 目の前に誰かが立っている。左手に刀を持っていて、座っている自分に背を向けていた。周りは墨を塗ったような暗さだが、男の身体が光を放っているかのようにはっきりと暗闇に浮かんでいる。背は高く、目の粗い藤衣を纏っていた。刀の先から赤い雫が流れ落ちるのが、まるで紅玉のように綺麗だった。見上げると、振り返った男の顔が自分によく似ていて目を伏せた。否、男の白髪と碧い瞳が恐ろしかった。不意に彼が振り上げた刀の切っ先が明神に向かって振り下ろされる。銀の刃が明神の胸を貫いた。

 ーー目が覚めて、夢だったのだと気付いたが心臓の鼓動が鳴り止まなかった。あれからどれだけの時間が経ったのだろうか? 見つめた天井が小刻みに揺れる。ゆっくりと息を吸って起き上がった。頭が痛い。布団に寝かされていたので誰かが運んでくれたのだろう。

 鈴の音がして、障子の隙間から清が顔を覗かせている。けれどもまだ焦点が合わなくて目を閉じた。

「どうした?」

「大丈夫ですか?」

 目を開けると少しずつ景色が鮮明になる。ゆっくりと深呼吸を繰り返した。

「ああ……」

 何が起こったのかを整理する。彼女の家が火事になったと聞いて、まだ彼女が家に居るんじゃないかと家まで行った。火を消しに行ったら彼女が居ない事に気付いて……それから急いで屋敷に戻って……

「皆を呼んできますね」

 清の言葉からあの後どうなったのかを想像する。皆と言ったから誰も欠けては居ないのだろう。足音が近づいて来て右慶が先ず入って来るといきなり頭を叩かれた。病み上がりに何をするんだと言いかけたが右慶の声で言葉を遮られる。

「あんた狛に余計な事を……あんたの首を噛み切ろうとするのを止めるの大変だったんだからな!」

 思っていたよりも従順な奴だと関心する。左慶と狛も来てこっちの様子を伺っている。

「じゃからの、俺様は彦の言う事を……」

「うっさい黙れ犬っころ!」

 右慶に怒られ、狛があからさまに落ち込んでいる。左慶の後ろに身を隠し、背中にしがみついていた。

「狛を責めるな。あいつの目的が俺の身体だと気付いていたから、乗っ取られた時には先ず首を切り落とせと命令しておいたんだ」

「あんたなぁ……」

 もう一度殴ろうと振り上げた腕を左慶が慌てて押し留めた。

「狛には言ったが、俺の身体が乗っ取られて意識が無くなった時、誰かを傷付ける事だけは死んでも譲れない。俺の最期の頼みと思って承諾してくれたんだ」

 左慶を押し退けて右慶が明神の頬を叩いた。それ程痛く無かったが、殴った右慶の方が涙目になっている。

「自分の意識が消えて暴走するのが怖いだけだろ? 子供の癖に分別のある大人のふりして取り繕って……いい加減に……」

「右慶! やめて下さい」

 左慶に遮られて右慶が苦虫を噛んだような顔をする。そのまま逃げるように部屋を飛び出して行ってしまうと明神は溜息を吐いた。

「左慶、お前にもそう言っておいたはずだ」

 左慶は明神に向き直ると頭を下げた。

「申し訳ありません」

 明神は深い溜息を吐いた。

「俺の身体には元々呪詛がかかっている。その呪詛を俺が抑えられなくなった時、自分で始末が出来ない可能性がある。だから、そうなった時には真っ先に止めを刺す式神として左慶を作ったんだ。本来の使命を忘れるな」

 左慶が不満そうに目を伏せたまま小さく「はい」と応えた。膝行で後退した後に一礼してから部屋を出て行く。左慶と入れ違いでクレハが部屋を覗きに来ると、狛と目が合った。

「狛、二人にして貰えますか?」

 狛が部屋から出て行くとクレハは隣に座り込んで溜息を吐いた。

「体調は?」

「……まあ、多少頭痛がするのは前からだから何とも言えないが、今のところは」

「あまり心配かけないで下さい。寿命が縮みます」

「お前、一体いつまで生きてるつもりだ」

 クレハの屈託ない笑顔が、何だか久しぶりな気がする。

「欲を言えばあと百年くらいですかね」

 ふと、クレハが真剣な眼差しを向けた。

「聞かないんですね?」

 クレハの言葉に目を伏せた。多分、百合のことを言っているのだろう。眼の前で彼女が刺されるのを見た。瞳に光が無くなるところも。心臓が止まっていた感触も覚えている。それで何を聞けと言うのか……

「聞いてどうする」

 彷徨っているのであれば、上へ上げてやらなければならないだろう。けれどもそんな霊魂の気配はしない。家に帰ったかもしれないし、未練なんか残さず輪廻の輪に還ったのかもしれない。そもそも、彼女は死ぬことを望んでいたのだから後者の方だろう。

「彼女は、千年前に生贄として鬼に差し出された百合姫の生まれ変わりだったんだろう? 確か、鬼に叶えられない願いを請うたが為に鬼の怒りを買ったとかどうとか……」

 あまり興味がないので細かい所までは覚えていない。彼女がここへ連れて来られた事が千年前の因果だったとしたなら、今回の事で清算されたのだろう。右慶の話しをもっとちゃんと聞いていれば良かったと後悔して止まない。

「まあ、今更そんな事を知った所で何も変わらないだろう」

 彼女が死んでしまった事も、身体の中に千年前の鬼が入った事も、全部無かった事にはならない。

「……そうですか。では、私も何も言いません」

 クレハがそう言って立ち上がると部屋を出て行った。



 ふと気づくと、くれ縁を歩いていた。硝子窓越しに月が出ているので夜なのだろう。庭にある木々の梢が風に揺れて音を立てている。

 自分は何をしていたのだろうかと思っているうちに部屋の障子を開けた。六畳の部屋の真ん中に布団が敷いてある。部屋は薄暗いが、月光が開けた障子から差し込んで仄かに中の様子が窺える。畳の上に敷かれた布団が呼吸をするように微かに上下していた。

 部屋に入って、布団に寝かされている彼女の姿に戸惑った。てっきりクレハ辺りが死体を家に返してくれているだろうと思っていた。けれども胸の辺りが静かに上下している。

 ーー生きている……?

 現実味が無くて夢だろうかと思っていると、いつの間にか左手に持っていた刀を振り上げていた。心臓を貫こうとするのを少しだけ反らせることしか出来なかった。

 気付いた彼女が、左肩に刺さった刀を抑えて身捩りする。悲鳴を上げない彼女の目から涙が溢れた。

 ーーやめろ……

 彼女の身体が小刻みに痙攣を起こす。動かなくなると刀を引き抜いた。もう一度振り上げた刀が首の横をそれた時、やっと身体が戻った。

「……」

 額から冷たい汗が吹き出した。肉を裂く嫌な感触が掌に残っている。手を離すと刀が消えた。彼女の頬を伝う夜露に似た涙も、薔薇の花弁の様な赤い血も全部綺麗だと思ってしまう自分が怖い。傷口が見る間に塞がると目を伏せた。彼女の左手が裾を掴むとそっと顔を覗き込む。口の端から血が溢れていた。何か言いたげな眼差しが酷くくすんでいる。その瞳が既に人ではなくなっている事を証明していた。



 クレハが蔵に来たのは夜が明ける頃だった。真っ暗だった蔵の中にも、開けた明り取りの窓から微かに光が漏れている。もうそんな時間なのかと思いつつ、並べられた古い本に手を伸ばした。クレハが定期的に掃除や虫干しをしてくれているので何処に何があるのか直ぐに分かった。

「部屋に居ないから何処に行ったのかと思えば……休んで下さいと言ったでしょう」

 苛立ちを抑えつつも、少し鬱陶しかった。

「別に良いだろ。俺の体なんだから」

「バイトを辞めると言ったそうですね。この屋敷を出ていく為に纏まったお金が欲しかったのでしょう? 高校卒業したらこんな所出て行くって言ってたじゃないですか」

 堪えきれずに、思わず持っていた本を床に叩きつけた。音に驚いたクレハが身体を引き攣らせる。

「俺さ、こんなとこに産み落とした母親を心底恨んでた。俺を捨てて行った父親の事も憎んでたし、迎えに来なくて腹も立ってた。仲の良い親子が羨ましかったし、普通に暮らしてる奴らが妬ましかった。だからこの屋敷を出て行きたかった。ここを出て、知らない土地で見せかけだけでもいい、普通の生活を送ってみたかった。なのに……」

 彼女の苦痛に歪む顔が脳裏を過る。その姿を美しいと思ってしまった自分が嫌だった。否、自分よりも立場の弱い命を弄ぶことに快楽を得る人間にだけはなりたくなかった。それを自分にかけられた呪詛のせいにするのは簡単だが、自分の性なのかもしれないと思うと狂いそうになる。

「俺が不甲斐ないばかりに彼女をここに縛りつけておくことなんか出来ない。かと言って呪詛を解けば完全に死んでしまう。それが正解なのは解っているのに、彼女を殺すのを躊躇ってしまう自分がいる……どうすれば良いのか分からないんだ!」

 クレハが近付いて来て傍に座り込んだ。柄にもなく怒鳴ってしまったことを後悔する。

「以前の貴方なら、自分の気持ちなど関係ないと言ったでしょうね」

 クレハの言葉に言いしれない恐怖を感じた。もう既に、自分は自分では無くなってしまっているのでは無いだろうかと不安になる。

「……おかしいか?」

「いいえ、その方が人間らしくて正解だと思います。今迄の彦は、真実から目を背けて逃げてばかりいましたから。それなのに、ちゃんと調べる気になったのでしょう? あの子の為に」

「違う。俺は自己満足の為に……」

 自分でそう言いかけて言葉を止めた。そう、自己満足だろう。彼女を守ってやれなかった。助けてやれなかった自分を少しでも正当化する為の行動なのだろう。

「……彼女の意志を尊重してはどうでしょう?」

 クレハの提案に目を伏せた。自分のせいでこんな事になってしまったのに、今更どんな顔をして彼女に会えばいいのか分からなかった。それに、彼女は自らの死を望んでいた。彼女はまたそう願うだろう。その時に、自分は彼女の呪詛を解いて死体に戻せるかと不安になる。彼女を二度殺す事に躊躇いがあった。それが、新しく与えられた玩具を離すのを嫌がる子供の様な感覚なのか、罪悪感を埋めるための道具にしたい気持ちからなのか、純粋に人としてそう思っているのかが分からない。クレハの言う通り、自分の気持ちは関係無いとあしらってしまえば済むことなのに、気持ちの整理がつかない。巣から落ちた雛を掬い上げておいて、再び地面に叩き落とすようなことをしたくなかった。

「気持ちは解ります。でも、貴方も言っていたじゃないですか。死んだら死体を家に返してあげれば良いだけだと。魂は輪廻の輪に還してあげれば何れまた転生して来ます。このまま式神としてここに置いておけば私の様になりますよ? それで良いんですか?」

 クレハの言うことは尤もだった。頭では解っている。他に方法が無いかずっと蔵の中の本を漁っていたが見つからない。そもそも、人間の死体を式神にするなんて、そんな事をやってのけるのはそれこそ鬼なのだろう。



 くれ縁で庭の景色を眺めている少女の姿に目を細めた。硝子窓を開け、外に足を出して座っている。桜の小紋柄の浴衣は淡い色をしていた。腰辺りまで伸びた長い黒髪を風が攫う。傍に座ると彼女はこっちを向いた。

「……俺のせいでこんなことになってすまない。これからのことなんだが……その体のまま、年をとることなく人とは違う生き方をするか、呪詛を解いて輪廻の輪に戻るか、決めなければならない。お前はどうしたい?」

 彼女の光の無い瞳がじっとこっちを見つめている。もしかしたらこっちの言っている意味が解らなかったのだろうかと彼女の様子を伺うと、彼女はゆっくりと瞬きして視線をそらせた。

「……どうした?」

 まだ心の整理がつかなくて話もしたく無いのかもしれない。けれども少しだけ腹立たしかった。

「聞いてるか?」

 言いたい事があるなら言ってほしい。恨み言なら幾らでも聞いてやるつもりだったのにどうしていいか分からなくなる。

「百合」

 名前を呼んだが、彼女は振り返らなかった。真っ直ぐ庭の方を眺めている。耳元で指を鳴らすが反応が無かった。扇子を出してそっと仰ぐと風が当たって彼女が右耳を押さえた。

「聞こえるか?」

 彼女の身体が小刻みに震える。右耳を押さえたまま彼女は顔を上げた。

「お前は、誰だ?」

 彼女の頬を静かに涙が零れ落ちた。口を動かすが声が出ない。明神がもう一度扇を仰ぐと彼女は目を瞑った。そっと目を開くと明神の顔を見つめる。

「……人形ですよ」

 一瞬、自分の意識が揺れて目眩がした。いつの間にか左手に刀を握っていて、それを見た彼女がそっと目を伏せた。

「まだ、許して貰えない?」

 刀の切っ先が彼女の胸を貫いた。彼女は見捩り一つしない。悲鳴も上げなかった。ただ、静かに涙を流していた。刀を引き抜くと力無く倒れた。赤い血飛沫が飛んで、縁側のそこここで赤い花弁に変わる。再び振り上げた刀が小刻みに震えた。二つの意識が鬩ぎ合い、刀を振り下ろしかけた時、庭から白い影が躍り出て明神の身体に体当たりした。部屋の障子を突き破って畳の上に転げると、白い狩衣を着た狛が明神の胸の辺りに馬乗りになっていた。

「お前はそれで良いのか?」

 明神が身捩りひとつしないでじっと狛を見つめている。狛も真剣な眼差しで明神を見下げた。

「悲しいのう。のう、彦? 聞いておるか? 女の子を泣かせて楽しいか?」

 刀が消え、瞳に光が戻ると明神は静かに瞬きした。

 視線を百合に投げると、百合は目を丸くして狛を見つめている。

「狛?」

 百合が恐る恐る手を伸ばすと、狛は首を傾げた。愛おしそうに涙を流す百合の姿に明神は顔を背ける。板張りのくれ縁や、部屋の畳のそこここに赤い花弁が広がっていた。

「……あいつの思い通りに創られた式神だと思っていた。けど、お前は千年前に生贄にされた百合姫の記憶なのか? 何んで今更……」

 百合が辛そうに目を細めて頷いた。

「ごめんなさい。私のせいで……」

 百合が涙を流すと、狛が近寄って百合の顔を覗き込んだ。

「まだ、痛むのか?」

 狛が聞くと百合は首を横に振った。狛を抱きしめると、狛が顔を赤くしてあたふたしている。

「一つ、貴方にお願いがあります」

 百合の視線が明神に注がれたが、明神は急な彼女の申し出に戸惑った。百合の腕が緩むと、狛は恥ずかしそうに離れて明神の背中に隠れた。

「この子を預かって頂けませんか?」

 彼女は自らの胸元を抑えて言うが、意味が解らず混乱する。彼女はそっと目を細めた。

「……それは……」

 式神にしてしまった以上、無責任にその状態で家族の元へ返す訳にもいかないからどの道そうなってしまうのだろう。

「この子を人間に戻す方法があります」

 彼女の顔を見つめ返した。意志の籠もった瞳に少し気圧される。

「その方法を知っている人物に心当たりがあります」

「どうせあいつだろう?」

 脳裏に白髪碧眼の男が思い浮かぶ。あいつが作ったのだから呪詛を解くのは簡単だろう。ただ、それをすると寿命が切れた状態だから途端に死んでしまう。けれども彼女は頷いてみせた。

「呪詛の解き方くらいなら俺にも解る」

「人の寿命を伸ばす方法です」

 はたと瞳を宙に投げた。もし仮にそんな方法があるとしてそれをわざわざ向こうが教えてくれるとは思えない。ただ、その可能性にかける価値はあるかもしれない。けれども、それと彼女を預かるという事とどういう関係があるのか。そもそも彼女とは式神としての彼女ではなく恐らく人間としての彼女の事だろう。

「本当に?」

 確認する様に問い質すと、彼女は頷いた。

「彼女が生きる事を望めば叶えるでしょう」

 その言葉に目を伏せた。彼女が生きる事を望むかどうかは彼女の問題であって、自分にはどうしてやる事もできないだろう。けれども他に方法が無いのであれば、出来る限り手を尽くす努力はしよう。

「……まあ、構わないが……」

 彼女の顔が一瞬明るくなった。着物に隠していた碧い石を取り出すと愛おしそうに見つめる。

「良かった」

 その石に見覚えが無かった。蛍石に似た石から光の粒が出てくると、彼女が倒れかかってそっと抱き止めた。

「え? 何じゃ? 同居? 一つ屋根の下で暮らすのか?」

 狛が誂う様に言った。そう言われると色々と問題があるなぁと悩んでしまう。

「右慶達の姿が見当たらんのじゃが、皆何処へ行ったんじゃ?」

 狛の言葉で思い出して気配を探す。屋敷の中には居ないようだ。多分、身体を乗っ取られた時に式神を使えなくしたのだろう。左慶や清も呼んでも来なかったので、自分が作った式神も同様に止められたのだろうが、狛は別の何かの力が働いたらしい。

 彼女を布団に寝かせて微かな気配を辿って玄関へ向かう。庭先で気配が途絶えると頭をかいた。扇子を取り出し、地面を二回叩く。扇子を開いて勢い良く仰ぐと右慶の姿が現れた。驚いた表情をしている右慶が、明神の顔と扇子を見比べる。

「……無事か」

「まあ……」

 色々あったが、とりあえず怪我は無かったので無事と言うことにしておこう。庭先に生えている楓の木の前に立つと再び扇を振った。赤や黄、緑の楓の葉が集まってクレハの姿になる。クレハは目を開けると驚いたような戸惑ったような表情をした。明神も何から話すべきか悩んでいる。しんと静まり返っていると、狛が堪えきれなくなって口を開いた。

「彼女と同居するらしいぞ」

 狛の一言で、クレハは察したらしい。

「まあ、あの状態で親御さんの所へ帰す訳にはいかないでしょう」

 明神は軽く頷くとクレハを見据えた。

「彼女のことを調べて貰いたいんだ」

 明神の言葉にクレハは軽く頷いた。明神が扇子を翻すと左慶と清も姿を現す。

「お前達にも頼みがある」

 明神は一人ひとりの顔を見つめながらそう言った。

「清には彼女が怪我をしないように見張っていてもらいたい」

「過保護じゃの」

 すかさず狛が口を挟んだ。左慶も不思議そうに首を傾げる。

「式神なのですから、よっぽど酷い怪我をしない限り直ぐに治るでしょう。式神に式神を監視させるなんてギャグですか」

「出来る限り彼女には人間として生活して貰いたい」

 明神の発言に左慶は目を丸くした。その様子を見た右慶が口を開いた。

「行く行くは彼女を人間に戻すつもりなんだろう」

「冗談でしょう? 彼女は死んでいるのですよ?」

「例のあいつなら、出来るらしい」

 明神の言葉で察しがついたのか、右慶は呆れ顔でクレハに視線を向けた。

「そりゃあ、あれなら出来ないこともないだろうけど……そのつもりなら最初から殺して式神になんて……」

「俺もそう思う。けど、自分に都合の良いい式神を作るのであれば、人間の死体なんてそもそも必要無いんだ。魂を死体に繋ぎ止めなくても、他の魂を入れてしまうとか他に方法は幾らでもある。それに態と彼女の人間だった頃の意識を他へ移していた。だからどうも、生贄と言うよりは他に理由があるんじゃないだろうかと思う」

 納得したのか、右慶は唸っている。

「そこで、右慶と左慶と狛にはこの屋敷についての書物を探して来て貰いたい。家にある分は全部目を通したんだが、千年前の鬼のこととか屋敷についての記述が少なすぎる。だから何処か他の場所に保管されているんじゃないかと思う」

 そこに、呪詛の解き方や式神にされた人を元に戻す方法があるのではないかと踏んでいる。

「それを探すのに三体も居るのか?」

「何処にあるか見当がつかないから、里の中を探すにしても時間がかかるだろう。交代で俺の仕事も手伝ってもらう。狛は普段から里を彷徨いているから、そういった情報を得やすいかと思う……が、頭の回転と動きを考えれば当然の配置だろう」

「よくサボりますからね」

 左慶が笑いながら言うと、狛は頬を膨らませていた。クレハが一礼して姿を消すと、清も会釈して百合を寝かしている部屋へ行く。右慶と左慶も顔を見合わすと軽く頭を下げて四脚門から外へ出て行った。



 まだ薄暗い空に向って部屋の窓を開けると、荷物を片付け終わった部屋に冷たい風が入った。四角い窓から常盤木の頭が揺れているのが目に映った。六畳程の部屋は物心つく頃から使っていたのでかれこれ十年くらい居ただろうか? 色褪せた畳の上でよく狛と一緒に布団を敷いて寝ていた思い出がある。まだ幼かったあの頃、一人で寝るのが心細くて狛にくっつかれて眠るのが鬱陶しくて、少しだけ嬉しかった。

 一階に下りて行くと、百合と鉢合わせになった。百合が驚いたように目を丸くしてこっちの様子を伺っている。

「ごめん、何かよく覚えてなくて……」

 百合の表情を見て視線を泳がせた。

「取り敢えず、朝飯作るからちょっと待ってろ。話はそれからするから」

「私も手伝う!」

 手伝うと言われても、たいしてやることなど無いのだが……食器を出して貰ったり、炊飯器に炊いておいたご飯をよそって貰う。

「昨日ここに来たとこまでは覚えてるんだけど……」

 そうかと思いつつ、どう説明しようか悩む。全部話す必要も無いだろうし、何も知らないまま時が過ぎるのを待てばいい。

「提案があるんだけど」

 鍋に出来た味噌汁を注ぎながら百合がこっちを向いた。鮭の切り身が焼けるのを待ちつつほうれん草をお浸しにする。

「ここで一緒に暮らさないか?」

 何か勘違いをさせてしまったのか、彼女は顔を赤くして背ける。

「そ、そういう事は……」

「親の事は心配しなくていい。本来なら未成年だから施設とかに入るのが筋なんだろうけど……」

 そこまで言って、百合の表情が変わった。

「無理強いはしない。お前が嫌なら出て行って貰っていい。ただちょっと事情があって……」

「自分の家に女の子を引き止めておきたい事情って何じゃ?」

 狛にばっちり立ち聞きされていた。さっき仕事から帰った時に寝ると言っていたので居ないと思っていたのにそういう言い方をされると心中穏やかでいられない。

「男じゃったらそこはの、俺が一生面倒見るから嫁に来て下さいでええんじゃ。何を回りくどい事を……」

 流石に腹が立って黒檀の箸を投げ付けた。狛の頬を少し掠って壁に突き刺さる。

「黙ってろ」

 狛が冷や汗を流しながらすごすごと逃げて行くと百合は笑いを堪えていた。何が面白いんだと言いたいが、涙目になっている。

「ごめん、明神くんは良いの?」

「俺のことは良い。お前の気持ちを聞いているんだ」

 ここで嫌だと言われたらまたどうしていいか言い訳が思いつかない。

「私は……明神くんがそう言ってくれるならそうしたいけど……」

 それを聞いてほっと胸を撫で下ろす。

「あれじゃないかな? 宿を貸して家を取られるみたいになっちゃってないかな?」

「は? それを言うなら庇を貸して母屋を取られるだろ。心配しなくてもこんな家価値ないから」

「そうじゃなくて……」

 百合の表情が少し暗い。

「私が家に居たら明神くん、家を出ていっちゃうんじゃないかって」

 そりゃあ、嫁入り前の年頃の娘と一つ屋根の下なんて正直嫌だ。彼女の将来に汚点でも残してしまわないだろうかと気が気じゃない。

「二階の俺が使ってた部屋だけ内側から鍵が掛かるからそこ使ってくれ。俺は別の部屋で寝起きするから心配しなくていい」

 その為に片付けたわけだし。

「……じゃあ、宜しくお願いします」

「色々と不安な事はあると思うけど、言ってくれれば俺も出来る限り協力するから」

 百合がはにかんだ様に笑った。

「そうと決まったら私、荷物取りに帰ってくるね。お母さんにも一言いっておきたいし、お父さんはいつ帰ってくるか解らないから手紙だけ書いときたいし……」

 何も知らない百合に伝えるべきか迷った。ここで何も言わなくても何れ解ることなのだが。

「……そうだな」

 それは彼女の問題であって、彼女が向き合うべきことなのだろう。そこに自分が口を挟むことを躊躇する。

「ただすまん、今日は月曜日だ」

「えっ?!」

 丸一日記憶のない彼女に何から説明すれば良いのか迷った。



 二人同時に休むとなったら学校でどんな噂が立つかしれないので明神は学校へ行くことにした。狛が他の部屋で寝ていたので、百合には狛が起きてきてから一緒に外へ出るように念を押すが、何も知らない百合は不思議そうな顔をした。

「一人で帰れるよ」

 と言う彼女を一瞥して明神は溜息を吐いた。可能であれば家に縛り付けて置きたいのだが、そういう訳にもいかない。清が見張っているとはいえ不安だった。

「どっかでまた倒れられたら迷惑なんだ」

 取り敢えず、ここに来てから貧血で倒れてそのまま丸一日寝込んでいたとのだと吹き込んでおいた。きつく言い聞かせるつもりで言ったのだが、「心配性だなぁ」と何故か照れている彼女を置いて出て行く。テレビが無いので暇なら蔵にある本を何でも好きなもの読んでて良いと言ったら嬉々として蔵の方へ向かっていた。

「わぁ! すご〜い!」

 百合は蔵を開けて所狭しと置かれた本に目を輝かせた。本など買ってもらえなかったので、図書館で読むくらいしかしてこなかった。だから好きなだけ読んで良いと言われると嬉しくなってしまう。ハムレットを見つけてその場に座り込んだ。大阪に住んでいた頃に近くの劇場でこの演劇があるのだとポスターを見た時からシェイクスピアのファンだった。映画も劇場も遊園地も、両親は妹だけを連れて行った。連れて行ってもらえなくても、妹がいつもお土産をくれた。妹が嬉しそうに話すのを聞くのが楽しみだった。

「……それでも、私を育ててくれた親なんだよね」

 呟くと読みかけた本だけ持って蔵を出る。庭先から狛が寝ている部屋を覗くとまだ寝ていた。窓を開け放った縁側から風が吹き込んで、狛の短い髪を揺らしている。着物の上から掛けた毛布に包まって、ごろりと寝返りをうっていた。その寝顔が愛らしくてついつい見惚れてしまう。見た目からして三歳から四歳くらいだろうか? 妹の幼い頃を思い出して自然と頬が綻んだ。

「色んな言葉を覚えて、お喋りするのが楽しい時期だよね」

 つい、独り言を呟いた。外国人とのハーフなのかなと思う。幸せを沢山詰め込んだ栗鼠みたいな頬に触りたくなってしまう。けれども衝動を堪えて縁側に腰掛けた。

 広い砂地の庭先に、築地塀が並んでいる。塀の足元に植えられた花々が思い思いに花を咲かせていた。足元を見ると、少し離れた縁側横に植木鉢がいつくか置かれていて、大小様々な花が咲いている。百合には花の名前は解らなかったが、誰かから貰ったものなのだろうかと首を傾げた。花が好きなのかもしれないが、いつ手入れをしているのだろうかと思った。学校で掃除の時間に校庭の草引きなんかをよくやるが、ここの庭は白い砂が敷き詰められていて雑草が生えていない。家の中も埃っぽくないし、物が無いせいかよく整理されている。一人暮らしでこんなに広い家に居て、もしかしたら他にやることが無くて手が行き届いているのだろうか? そうだとしたらまめな男の子だと思う。自分が一人暮らしをしたとして、ここまで綺麗に家の管理を出来るかと問われると間違いなく無理だと断言するだろう。

「……誰か待ってるのかな?」

 そんな気がした。いつ帰って来ても良いように綺麗にしてあるのだ。そう思うと何だか可愛そうな人だと思った。

 狛に視線を戻したが、まだ寝息を立てている。百合はすぐ帰るから良いだろうと一人で外に出た。

「なんか夢みたいだな」

 まだ二十歳にもなってないのに、同級生の家にお世話になるだなんて非日常過ぎる。取り敢えず家に帰ったら鞄と着替えと、妹との思い出の品と……と持って行く物を考える。

 自宅に向うが、見慣れた家がそこに無かった。真っ黒に焼けた家の材木がそこここに散乱しているだけの一区画になっている。

 ああ……それで彼は一緒に暮らそうと言ってくれたのだ。

 焼け落ちた家を見てそう思った。本来なら施設へという言葉にも納得がいく。あの時に何かがあったのだとは薄々気付いていたが、まさか家が無くなっているとは思わなかった。

 どうしよう……

 言いしれない不安に襲われた。妹を亡くした上に妹との思い出の品も無くしてしまった。それがまるで、思い出すらも全部失ってしまったような寂しさを覚えた。



 夕方、明神が家に帰ると狛がまだ寝ていた。百合の気配がしないので狛を揺り動かす。

「狛、彼女は?」

 起こそうとするが、むにゃむにゃ言っていて理解出来ない。あれだけ念を押しておいて一人で出ていくのかと呆れもしたが、もしかしたらこのまま戻って来ないのではないだろうかと思った。こんな山奥の古い家ではやはり嫌だったのだろう。自分は住み慣れているのであまり不便を感じないが、彼女にとっては博物館みたいなものかもしれない。歩けない様に足を切り落としておくんだったと考えてかき消した。

「彦」

 風と一緒にクレハが部屋に入って来た。クレハの方へ向き直るとクレハも正座する。

「彼女の事、調べて来ました」

 知りたいような、知りたくないようなゆらゆらと安定しない心持ちだったが、自分が頼んだのだから聞く他無いだろう。

「彼女の戸籍がありませんでした」

「……だろうな。家が燃えたのにそこに住んでいた一人娘の死体が無くて騒ぎにならないのはおかしい」

「一緒に住んでいたお母様とお父様の戸籍には茜と言う女の子の名前がありましたが一ヶ月前に病気で亡くなっています。年齢は十一歳でした」

 この子が例の、蘇らせてくれと最初に言っていた妹か。

「……ご両親は実の娘ばかり可愛がって、彼女は虐待を受けていたようです」

 それでも、親にしがみつかなければ子供は生きていけないのだろう。自分も親が生きていたなら彼女と同じ様にしたのだろう。決して家に入れてもらえなくても、無視をされても、自分の世界にはそれしか頼るものが無いのだから。

「彼女の本当のご両親の事は解りませんでした。どういった経緯で彼女を引き取ることになったのかも……」

「充分だ。ありがとう」

「ところで……」

 話が終わったと思っていたのに言葉を続けられて首を傾げた。

「当の彼女は? もう外は暗くなって来ていますよ?」

 外を指差して言うクレハの顔は、少し怒った表情をしている。

「探しに行かないんですか?」

「……子供じゃないんだ。帰って来たかったら勝手に帰って来るだろ」

「子供ですよ! 貴方も彼女も私から見たら皆子供です!」

「そりゃ千年生きてたら年上なんか居ないじゃろう」

 起きていたのか、狛が誂うように言った。すかさずクレハが狛の頭を叩く。

「見た目はこうですけど、右慶の方が五百年くらい年上です」

「なんじゃと?!」

 明神もそれは知らなかったと少し驚いた。否、右慶の場合は千年封印されていた事を差し引いたらクレハが一番年上になると思うが、まあどうでもいいかと考え直す。

「子供……なんだろうな。よく分からないんだ。心配だから探しに行きたい気持ちもあるけど、彼女が自分の意志でここを出て行ったなら無理に止める必要は無いだろうし、でも自分が不甲斐ないばかりにあんな身体にしてしまって後ろめたい気持ちもある。けど、面倒だから放っておきたい気持ちもある」

 自分の中でぐるぐるした気持ちを整理したくて口にしてみたが、やっぱり自分はどうするべきなのか決めかねる。

「う〜っわ、面倒臭。そう言うのをの、優柔不断と言うんじゃ」

 狛に図星を刺されて落ち込むが、クレハが再び狛の頭を軽く叩いた。あっちへ行けと手で追い立てられて狛が部屋を出て行く。

「……貴方って本当にどうしようもなく自分の気持ちに対して臆病ですよね」

 クレハの言葉に目を瞬かせた。

「帰ってきた時、彼女が居なくて寂しかったのでしょう? また置いて行かれたと。その理由を屋敷のせいにしてみたり、自分の至らない部分にしてみたり、素直に言えばいいんですよ」

 前に右慶にも似たような事を言われた手前、そうなのだろうかと自分を疑う。

「そうだったとして、彼女を自分の寂しさの受け皿にしてしまうのはただの依存だろう」

「また高尚なことを……お父上が出て行った時もそうでした。泣いて縋って引き止めれば良かったのに、貴方は自分を押し殺して見送ってしまった。それを後悔しているのでしょう?」

 自分の記憶とは違うことを言われて違和感はあるが、幼い頃の記憶なのであやふやな部分はあって当然だろう。

「……覚えてない」

 クレハが再び溜息を吐いた。

「……探しに行ってくる」

「そうして下さい」

 クレハを置いて部屋を出て行った。玄関から外に出て門を開けると暗い山道を歩いてくる人影が見えて安心する自分に気付いた。あながちクレハの言うことは間違っていなかったのだと思う。彼女も明神に気付いて足早に駆けて来ると息を切らせながら声を絞り出した。

「ごめん。遅くなっちゃって……」

「あのさ、俺の話聞いてた?」

「荷物持ったら直ぐに帰るつもりだったから……心配かけてごめんなさい」

「素直に謝るのは良いけど、せめて書き置きくらい……」

 と、言いかけて止めた。そこまで強制するのはどうかと思う。そのまま門の内側へ迎え入れた。庭を歩きながら彼女が説明する。

「家がなくなっちゃってて、妹との思い出の詰まったもの全部なくなっちゃってて……」

「思い出ならこれから作っていけばいいだろ」

 まだ喋っていたのに彼女の言葉を遮ってしまった。彼女の気持ちを思えば、まだ整理出来ていないだろうに、彼女の気持ちを無視した言葉を発してしまう。

「そうだね」

 怒ると思ったのに彼女は笑ってそう返した。なんだか拍子抜けしてしまう。玄関の引き戸を開けると彼女が言葉を続けた。

「なんか明神くんにお世話になりっぱなしなのが申し訳なくてバイト探してたんだけど、何処も親の承諾が無いと駄目って怒られちゃって」

 そりゃそうだろう。明神もバイトの折にはクレハに母親役を買って出て貰った。

「そういうの気にしなくて良いから」

「気にするよ」

「俺のせいでここに引き止めているんだから気にしなくていい」

 自分が不甲斐ないばかりに彼女に迷惑をかけているのが後ろめたかった。

「明神くんのせいじゃないよ?」

 何も知らない彼女の言葉が苦しかった。

「ごめんね。一言相談すれば良かったね」

 そもそも、こっちが聞かなかったのも悪いのだろう。

「何か入用なら幾らか貯金あるから」

「ん〜……ちょっと言いづらいんだけど、下着の換えが欲しいなと」

「……」

 思わず彼女の胸に視線を向けてしまった。彼女もそれに気付いて胸を庇う。

「どうせ貧相ですよ」

「いや、その年齢なら別に普通……」

 否、小柄なので平均よりは出ていないとは思う。その大きさで何が必要なんだと思ったが口にしない。

「じゃなくてパンツの換えが欲しくて」

 彼女が顔を真っ赤にして言う。そう言われればそうかと思いつつ、家を出る時に幾らかお金を渡しておくべきだったと反省する。この時間では商店街もスーパーも閉まっているし、里にコンビニはない。

「……まあ、嫌でなければ使って貰って構わないが……」

 土間に入ると直ぐ横の襖を開けた。押し入れからミシンを出すと彼女が目を丸くする。鋏で生地を切って縫うと彼女に渡した。

「すごい……ものの五分で……」

「お金渡すから、明日買いに行って来い。今日は嫌だろうけどそれで我慢しとけ」

「ありがとう」

 ゴムパンツくらいで……と思ったが、それほど悩んでいたのだろう。着替えもいるかと思って押し入れから生地を出した。樟脳独特の匂いが部屋に充満する。母親の趣味で淡い色合いの生地が多い。百合もそれを見て目を輝かせた。彼女が生地にみとれている間にAラインのワンピースを作ると百合はまた目を丸くしていた。

「明神くんって何でも出来るんだね」

「いや、切って縫うだけだろ」

 スーツを作れと言われると困るが、流石にTシャツやワンピースくらいなら誰にでも作れると思っている。見た目で適当にサイズを決めてしまったが、彼女が隣の部屋で着替えて嬉しそうに見せに来たので合っていたのだと安心する。今時の若い子はやっぱり着物よりも洋服の方が着慣れているんだなぁと年寄みたいなことを思ってしまった。

「型紙とか本は押入れにあるから、好きに使ってもらって構わない」

 電動式ミシンを軽く叩いて言うと、彼女が嬉しそうに笑う。その表情を見るとなんだか心が擽ったかった。



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