1 盲目の画家

少し小高い丘の上にある小さな診療所。

街から離れ、自然豊かなこの場所では、今すぐにでも昼寝をしたくなるような穏やかな時間が流れていた。


そんな診療所の門先に一人の旅人が立っていた。

その旅人は、小柄な体躯に似合わぬほど大きな革製の鞄を背負い。昼間にも関わらず明かりの灯されたランタンを下げていた。

ランタンの炎はゆらゆらと診療所の中を覗くように不規則に揺れている。


やがて診療所の奥から看護師が出てくると、旅人は手に持っていた紙袋を差し出した。

「こちら頼まれていたお品物です」

「ありがとう、助かるわ」

白いエプロンを身に纏った中年の女性看護師はそう早口でお礼を言うと、旅人から紙袋を受け取り中身を確認する。


紙袋の中には幾分かの薬草が入っていた。

看護師はそれを確認すると、満足気に頷き。旅人に片手を差し出しながら口を開く。


「お代はこれで足りるでかしら?」

看護師の手には数枚の銀貨が握られていた。


「はい、問題ございません。確かに受け取りました」

旅人はお礼を言いながらその銀貨を受け取ると、腰につけた小さいポーチに仕舞おうと看護師から視線を外す。


すると看護師の背後。診療所の奥の廊下。

そこに飾られた沢山の絵画が旅人の目に入った。


絵画には動物や植物が、どれも色鮮やかに描かれており。まるで本当にそこにいるかの様に繊細なものであった。


旅人はポーチに銀貨を仕舞いながら、その廊下の奥まで続く絵画たちを目で追う。

そして廊下の突き当たり。一際大きく目立つ絵画に行き着いた。


それは、美しい桜の絵画であった。


この診療所の周囲の風景とともに立派な桜の木が描かれている。

それはとても繊細で、色鮮やかで。ただただ美しいと言えるものだった。


「突然頼んでしまったのに助かったわ。まさか急に薬が足りなくなってしまうなんて」


看護師の声に旅人は我に帰る。そして、釘付けになっていた絵画から目を離し。相変わらず早口の看護師に返した。


「お役に立てて何よりです。ただ私は薬剤師では無いので、材料調達以外でお役には立てませんが」

「いいのよ、材料さえあれば。薬の調合は中に居る薬剤師ギルドの従業員ができますから」


そこまで話すと看護師は時計を一瞥しハッとする。

「それでは私はこれで。これから午後の診療の準備をしないといけないので」

焦った様子でそれだけ言うと、最後に軽く頭を下げ。その看護師は診療所の奥へと消えていった。


門先で一人残された旅人は、絵画のことを聞きそびれてしまった。と思いながらも「はい、さようなら」と既に見えなくなった看護師の背中に囁き。そして、静かにその診療所を後にした。



―――



「ねえ、リゼちょっと聞いてもいい?」


病院を出る旅人に声が訊ねた。

その声は、旅人の鞄から下げられたランタンの中から聞こえてきていた。


「どうしたのエノ?」

リゼと呼ばれた旅人は、ランタンに返す。


「いや、そこまで興味があるかって言われたらそこまででもないんだけどさ…」

「歯切れ悪いね。どうしたの?」


エノと呼ばれたランタンは、少し悩んで。そして訊ねる。


「…ギルドってなに?」


リゼが「多分説明しても退屈だよ?」と返すが、エノは「その覚悟はさっきしたから大丈夫」と説明を促す。


そして「それならば」とリゼは口を開く。

「ギルドっていうのは。簡単に言うと、職人の集まった組合で、それぞれの専門とする分野毎に、相互扶助、教育、納税、不正の監視なんかを行うんだよ。そして、一番大事な事として、ギルドに属さない人はその分野で勝手に仕事ができないんだ」

「決められた職業につくには、決められた組織に入らないといけないってこと?」

エノの質問に、リゼは「そういうこと」と答える。

するとランタンは少し考えた素振りをして再び訊ねた。


「…好きなように働かせればいいじゃん。なんでギルドが存在するの?」

「ギルドの存在理由は色々あるけど、主な理由として、国が市場を独占できないようにする事と、仕事や製品の品質保証を確保する為だよ。好きなように働かせないっていうのは後者に当たるね。色んな人に、好き勝手物を作らせたら市場に粗悪品が大量に出回ってしまうからね」

リゼはそこまで言うと「まあ、実際問題として粗悪品は大量に横行しているけどね」と付け加える。


「じゃあ、さっきの看護師が言っていた、薬剤師ギルドっていうのは薬を作る人たちのギルドって事であってる?」

「そうだよ、この薬剤師ギルドのおかげで医薬品は品質が確保されているんだ。他にも、病人の保護、新しい薬剤師の登録と仕事の場所の確保、薬局の場所と薬局同士の距離の規制。他にも食品、酒類、菓子、生薬の製造・小売業者の監視までやってるよ、食と病気は隣り合わせだからね。と言ってもこれは都市部限定かな」


「ふーん、なるほどね」

「もっと説明必要?」

「いや、もう十分」


そんなやりとりをしながら、リゼは診療所の敷地を出る。

すると、診療所の目の前。通りを挟んだ先の平原。その真ん中で、こちらに背を向けた状態で車椅子に座る、一人の老人が目に入った。


その老人がこの診療所の患者であろうと言うことは、身にまとう患者衣から検討がつく。彼はリゼには気づかず、目の前に置かれた大きなイーゼルと書きかけのカンバスを見つめていた。どうやら絵を描いている最中のようだ。


その老人がなんとなく気になり、リゼは車椅子越しの背中見つめる。

すると、老人はゆっくりとこちらを振り返り。そして口を開いた。


「もし、そこに誰かおられますか?」


首をこちらに向けてそういう老人の視線は、しかし誰もいない虚空を見つめており。視線の先に映るはずのリゼを捉えていなかった。


「誰かいましたら、少し頼みたいのだが」

老人は虚空を見つめたまま繰り返す。その仕草にエノは囁く。


「ねえリゼ。あのおじいさん、目が見えていないんじゃないかな?」

「そうみたいだね」

リゼはそう返すと、老人の側まで近寄る。


「こんにちは、私は旅のものです。困り事なら看護師さんを呼んできましょうか?」

リゼの言葉に老人は「ああ、よかった」と一声掛けてから続けた。


「病室に筆を忘れてしまいましてな。もしよろしければ取ってきてはくれませんか?名前も顔も知らないお方に頼むのは心苦しいが、いやはやこの足と目ではそれすらも難儀でしてな」


「どうする?」ランタンが小さく訊ねるが、リゼは即座に答えた。

「分かりました、今取ってきますから少し待っててください」

「ありがとう。恩に着るよ」

リゼは老人の感謝の言葉を受け取ると、再び診療所の方に身体を向けた。


「リゼみた?」「…何が?」

老人と診療所の丁度中間あたりでエノが訊ね、リゼは聞き返す。


「あのおじさんの絵だよ」

「ああ、すごいよね。私もびっくりした。目が見えていないのにあんな綺麗に描けるなんて」


リゼの言う通り。描きかけではあったが、老人の絵は本当に目が見えていないのかと疑うくらい、素晴らしく。そして色鮮やかであった。


「いや、それもそうなんだけどさ…」


エノは何か言いたそうに、吃りながら続ける。

エノの違和感は、確かにリゼも感じていた。


老人の描く絵、それはこの辺りの風景画であった。

目が見えていないはずなのに、診療所の前の丘の景色が、まるで見えているかの様に描かれていたのだ。鮮明に。


しかし、その絵にはリゼの見る景色と所々が違う点があった。

描かれたその風景は、雪解け後のまだ肌寒さが残る今の季節とは違い、少し先の春で固定されており。また、木の高さ。そして、新設されたであろう看板が描かれていなかったのだ。


そして―


「桜の木なんてどこにもないのになんで描いてるんだろ」


あるはずのない桜の木が、その絵には描かれていた。



―――



診療所まで戻ってくると、戸を叩く。

すると先程の看護師が出てきたので事情を説明し、老人の筆を取ってきてもらった。


「度々申し訳ございません。こちらは私が届けておきますので」

「いえ、大丈夫ですよ。どうせ帰り道の途中ですから」


リゼがそういうと、看護師は申し訳なさそうに少し考えてから「ありがとうございます。ではよろしくお願いします」とリゼに筆を手渡した。


「ただ、一つだけ教えてもらえませんか?」

筆を受け取りながら看護師に訊ねる。


「あの患者はどうして通りの向こう側で絵を描いているんですか?身体状況を考えるにあまり良い選択ではないと思うのですが」


診療所の管理体制を疑うような質問に、看護師は「えっと…、それは…」と困惑した様な顔で口籠もる。しかし目の前にいる旅人が自分を責め立てているわけではないことに気がつくと、やがて「順を追って説明させてもらいます…」と口を開いた。


「まず、あの方は正確にはここの患者ではございません。彼はこの院の創設者で、前院長にあたる方になります」


「あら、偉い人だったんだ。親切にしておいて良かったね」

エノはリゼにだけ聞こえる大きさで呟くが、リゼは無視して看護師の話を聞く。


「元々、この診療所は小さな一軒家でした。そして、ここに住む彼とその奥様は自宅の一室で小さな診察所を開き、二人三脚で病に苦しむ人たちを救っていたのです。やがて患者は増えていき、私たちのような彼らについていく者も増え、次第に、大きな診療所となっていきました」


当時を懐かしむ様にゆっくりと、看護師は続けた。


「しかし、彼は数年前に病で視力を失い、診察を続ける事ができなくなってしまいました。そして、院長の席を降りたのです。…その頃ですかね、奥様が亡くなられたのも。私たち従業員は皆、彼と亡き奥様に大変お世話になりました。ですから他の患者をみながら、彼のお世話をさせて頂いているです」


看護師はそこまで言うと表情を曇らせる。

おそらく彼女もあの老人の奥さんと親しかったのだろう。当時を何も知らない旅人でもそうだと分かるほど、彼女の瞳には哀愁がこもっていた。


「では、どうして絵を?」

リゼがそう訊ねると、彼女は静かに口を開く。


「あの方は、昔から絵を描くのが好きだったので、目が見えなくなる以前からずっと絵を描いていました。今と変わらず素敵な絵をね」

「そこの絵も彼が描いたものですか?」


廊下にずらりと並んだ絵画を見ながら訊ねる。

そして、奥の立派な桜の木の絵を。


「はい。ここにある絵は、彼にまだ視力が残っているうちに描いたものです」

「どれも美しいですね」

「はい。ここのスタッフも、亡くなった奥様も彼の描く絵が好きで。新しいのが完成する度にこうして飾っていったのです。と言っても描いた本人はこうやって展示されることはあまり乗り気じゃなかったですけどね」


少し笑顔になって看護師はそう話す。リゼも軽く笑い返し。

そして、気になっていた質問を投げかけた。


「あの奥の絵はこの辺りの風景画だと思うのですが、どうして桜の木が描かれているんですか?私がみた限りこの辺りに桜の木なんて無かった様に思うのですが」


その質問に看護師は少し俯いて、思い詰めたように答える。

その表情は、先程の哀愁のこもったものではなく。悲哀に近かった。


「…以前は、立派な桜の木があったのです。この診療所の目の前に。ですが去年の夏、激しい嵐の晩に大きな雷が落ちたかと思うとそのまま桜の木は落ちてやけてしまいました」

「そのことは、あの老人に伝えたんですか?」


リゼが訊ねると、看護師は小さく首を振る。


「あの木は、奥様との思い出の桜なのです…」

看護師は俯いたまま。言葉を細かく切りながら続けた。


「…まだ彼らが夫婦になる前。近くの街に住んでいた彼らは、いつも二人でこの場所に通っていたと言っていました。キャンバスを広げ静かに絵を描く旦那様を見るのが大好きだったと。生前奥様はいつも言っておりました。そして、プロポーズもこの場所だったと聞いています。この場所で彼らは結ばれ。この思い出の地に家を建てました。そしてこの場所で二人は離れ離れになったのです」


「診療所の前に木があったんじゃなくて、木の前に診療所を立てたんだね」

エノが小さく言って。看護師は訥々と続ける。


「奥様が亡くなられてから、奥様との思い出を毎日思い返すように彼はあの桜の木の前で、一日中想いに耽っていました。病で視力がなくなるまで。そして目に光を失った今でも、あの景色だけは好きみたいで、記憶を頼りにずっと描いているんです。あの桜の木の絵だけを。何枚も。朝から晩まで、ずっと、まるで取り憑かれているように。必要以上に誰とも口を聞かず、まるで過去に取り憑かれたようにずっと……だから、誰も言えないのです。もう桜の木がないなんて……エゴだと思うかもしれませんが、それでも私にはできません…」

看護師はそこまで言うと、壁に飾ってある絵画の一つを眺め。口を閉じた。


「でもそんなのって…」

エノが再び小さく呟いた。

しかし、旅人は「そうでしたか。教えてくれてありがとうございます」と軽くお礼だけ言って。その診療所を離れていった。



―――



「お待たせしました、頼まれていたもの持ってきましたよ」

手探りで旅人の手を探す老人の手を優しく握り。筆を指の間に差し込む。


「ありがとう、これで続きが絵が描けるよ。本当助かった」

「他に何かお手伝いできることはありますか?」

「いや、大丈夫だ。道具の場所さえわかっていれば、あとは自分でできるよ」


そう言うと老人は、手の感覚だけで器用に準備を進めていく。

そして、キャンバスに筆を入れようとしたその手を直前で止めると。旅人に訊ねる。


「そうだ。一つだけ教えて欲しい。旅人さん、あの木は今どんな様子ですか?」


老人を見つめたまま、リゼは数秒固まっていた。

老人は再び訊ねる。


「ほら、そこの立派な桜の木です。まだ寒いですが、そろそろ蕾くらいは出てきていますか?」


旅人は答える。老人から視線をそらす事なく。


「…どこにも桜の木なんてありませんよ」

「ちょっとリゼ!?」

エノの声が聞こえるが、構わずに続ける。


「通りすがりの旅人の話など信じられないかもしれません。でも事実です。桜の木はありません」

「桜の木が、ない…?」

「はい、残念ながら」


筆が地面に落ちる音が小さく聞こえる。

老人は遠くを見つめたまま光が映っていない瞳を大きく開いていた。


リゼは続けて声を掛ける。

「看護師さんから話は聞きました。でも、人は過去に支配されてはいけません。それは、その過去がどんなに縋りたいものであってもです」


リゼと老人との間を冷たい風が抜けていく。


「過去は過ぎ去りました。でも未来は未だ来てないんです。でも、だからといって私は未来を思い描いて欲しいとは思いません。まだ存在していない明日のことなんて誰も分かりませんから。でも、もし私のことを信じてくれるのであれば、過去に縋るのはやめて今できることを、今日を精一杯生きてみませんか?」


旅人はゆっくりと筆を拾い上げ、老人の手の上にのせる。


「きっとその方が、奥さんも喜ぶと思います」


老人は静かに、ただ静かに。受け取った筆を撫でていた。


「でも絵は描いた方がいいよ、絵は死んでも残るからね」

リゼは余計なことを言うエノを軽くこずく。

しかし老人は気にする事なく。小さく「そうか…そうかもな」と答えると。何かを考えるように空を仰いでいた。


しばらく様子を見ていたリゼであったが、風向きが変わってきたのを感じると、老人に背を向け歩き始めた。


「旅人さん、ちょっと待ってくれないか?」

老人はリゼを呼び止め。そして続ける。


「あなたのおかげで、少し気が楽になった。まさか桜の木がないとはね。」

老人は少し、自嘲気味に微笑んでいた。


「お礼をしたい、私に気づかさせてくれたお礼を。きっとあなたがいなければ私はずっとありもしない風景を描き続けていただろう」

そういうと、老人は足元に置いていた。薄く大きい、図面ケースのような鞄を差し出してきた。


「いや、私はそんなつもりは」

リゼは断るが、老人に手を掴まれ、無理やりそのケースの持ち手を握らされてしまった。


「おそらくそんなに価値があるとは思わないが、ぜひ持っていってくれ。どうせ死んだら何も必要なくなるんだ、それなら誰かに譲った方がいいだろう」


リゼは「いや、でも…」と、それでもなお断る。


「くれるって言ってるんだからもらっておこうよ」

「相方さんの言う通り。どうか年寄りのわがままだと思ってくれ」

エノがそう言うと、老人も乗っかる。


しばらくそんな攻防が続いていたが。

やがて診療所を後にしたリゼの手には、その図面ケースがしっかりと握られていた。

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この異世界の果てまで。 井黒 灯 @yuuhi3939

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