1 山道と洞窟

遠くで唸るような滝の音が聞こえる。

高く聳えた岩山から落ちた水は、蛇のようにうねり森の奥へと消えていく。

見渡す限りの森に人工物の類は一切無く、ただただ深い新緑だけが続いていた。


そんな森の中、岩山の急斜面を一人、人間の旅人が登っていた。

登る先には獣道すらなく、岩から突き出た木の根や蔓をたぐり、動物のように四足歩行で登っていく。


旅人の身に纏う黒地で袖の長いインナーには汗が滲んでおり、皮の手袋とブーツは岩肌に負け、所々擦れている。頭には黒いキャスケット帽を被り、邪魔な後ろ髪はその帽子の中にまとめていた。


背中にはその細い体躯に似合わないほどの大きな皮製の鞄を背負い、鞄の上部には、それまで羽織っていたであろう長いコートが雑に丸められた状態で括られている。

そして、そんな鞄の側面には真鍮製のランタンが取り付けられており、昼間にも関わらずランタンが灯され、一歩ごとにカランカランと軽い金属音を奏でる。


旅人は一度立ち止まり、来た道を顔だけで振り返る。

森の中では酷く大きく見えた巨木も、今では他の木々に混ざり生い茂った緑しか見えない。


額から流れた汗を乾いた唇に染み込ませ、再び前を向くと大きく息を吐きながら一歩一歩先に進んでいく。


「ねえリゼ、結構登ってきたけど、あとどのくらい?」

ランタンが少女に訊ねる。


「見ればわかるでしょ、エノ、あそこの頂上までだよ」

リゼと呼ばれたその少女は、辛そうに息をしながら突き返す様に答えた。


「ここからじゃ下しか見えないんだけど…」

エノと呼ばれたランタンはそうボヤくと黙り、少女の荒い息遣いを聴きながら眠りについた。



…――


リゼと呼ばれた旅人は岩肌にぽっかりと空いた広めの洞窟までたどり着くと、入り口に腰を下ろし少し休むことにした。


「疲れた…」

「それ言うの六回目だよ」


リゼが大きく息を吐きながらぼやくと、エノからはうんざりしたように返事が返ってくる。エノは相変わらずうんざりした声で続けて質問する。


「ねぇ、あとどのくらい?」

「その質問は四度目だよ」


リゼは先ほどのお返しとばかり嫌味で返す。彼らは、お互いに相手の愚痴の数を数えていた事に軽く笑いあい。リゼは腰につけていた水の入ったボトルを浴びるように飲み始めた。



彼らの背後の洞窟はどこかにつながっているらしく、奥から流れる冷たい風は、全身の汗を冷やす。


一息つき終わり、呼吸も安定してきた頃。リゼは暗い洞窟の奥を見るとエノを持ち上げ、辺りを照らす。

ゴツゴツした岩が不規則に床と壁を覆い、あちらこちらにできた水たまりには青く輝く水が溜まっている。天井からはつららの様な石の針が無数に垂れ下がり、洞窟の奥からは時折ピタんと雫の垂れる音だけが冷たく聞こえてくる。


「見てエノ、鍾乳洞だよ」


リゼは、その自然が作った空間を眺めながら言う。

しかし返事はなく、エノは自分の光の届いていない洞窟の奥をじっと見つめていた。


「ねえ、あれ見て」

エノにそう言われ、リゼは彼が示す暗闇の先をじっと眺める。


「何もないじゃん」と返そうとした直後。暗闇の奥で何か動くものがあることに気がつくと、言葉を噛み殺し、再び奥を見つめる。


その”何か”の影は、一度岩陰に隠れたかと思うと、再びゆらゆらと不規則に動きながら顔を出す。それはゆっくりとこちらに近づいてきているようだった。

リゼはすぐに立ち上がれるよう警戒しながらも、指先一つ動かさず目だけで影を追う。やがて、その”何か”がエノの光の届くところまでやってくると、その影の正体がはっきりと見えてきた。


鍾乳洞に溜まった水と同じ色、大人の顔ほどの大きさの固まった粘液状の生物がそこにいた。

その生物は、体の一部を伸ばすと、あたりを探るようにキョロキョロと先端を動かし、こちらに狙いをつけると、残りの体を先ほど伸ばした先端まで移動させる。それを繰り返しながら徐々にリゼたちとの距離を詰めてきていた。


「リゼ、あれスライムだよ」

エノが小声で言った。


スライムは、この世界に原生する生物の一種だ。粘液上の液体の中に一つの核を持ち、核を中心に自由自在に伸ばした”仮足”で這うように移動する。

外見には目や耳と言った感覚器官は持ち合わせておらず、透き通った体内には臓器も見当たらない。彼らは動きと熱源に反応し、捕食の際は移動する時と同様に体を伸ばし、その”仮足”で虫や動物のフン、時には小動物を体内に取り込み吸収する。


彼らは湿った洞窟や、湿地帯を主な生息地とし、時には集団で行動をする。食料と環境が揃っていれば彼らは無限にでも分裂し繁殖する為、彼らにより農作物の被害を受けている村も少なくはない。


彼らのサイズは環境によって様々であるが、人間サイズまで育つことはほぼなく、人間が彼らに取り込まれるという被害は少ない。しかし、何かしらの要因により彼らの一部を体内に取り込んでしまった場合、感染症を引き起こしてしまう。これに感染してしまった場合、治療は大変難しい。


「どうする?何か追っ払う道具ある?」

ジリジリと距離を詰めるそれを見つめたままエノが訊ねる。


「あまり危険は犯したくないかな。けど、この洞窟にある液体のどこまでが”彼ら”なのかもわからないから、ここに留まるのもあまり得策じゃないだろうね」


リゼは基本的に小型のナイフ以外に武器となりそうなものは所持していない。そもそも彼らを討伐する際はそれなりの技術を要する。仮に仕留め損なった場合、動きに反応した”仮足”が伸び、目や口の粘膜に付着する可能性があるからである。感染症を引き起こす要因としてはそれだけで十分だ。


「じゃあどうしようか、僕としては先を急いだ方がいいと思うけど」

「そうだね、正直もう少し休みたかったけど、まあ仕方ないかな」


リゼはそう言うと、足元に転がっていた短い木の枝に気づきゆっくりと掴み取る。

次に腰のポーチから薄い円形の缶を取り出し、中身の少々黄色みのかかったクリームを枝の先端に塗りつけた。


「何、それで追い払おうってこと?やめた方がいいと思うけど」

そんなことを言うエノなどお構いなしに、黙ったままランタンの留め具を外すと、炎をむき出しにする。


「ちょっと何するの」

「少し黙ってて」


真面目な表情で言われエノがしぶしぶ黙ると、リゼは枝を炎にあてる。エノは少しくすぐったそうに身を捩ったが、程なくして枝は先程塗ったクリームを燃焼剤に、擦りたてのマッチの様に激しく燃えはじめた。

リゼは炎が安定するのを見ると、すぐさま先の燃えた枝を少し先に投げつける。


「急に何して―」エノが言う前に、その投げられた枝に向かって頭上から黒い影が降ってきた。


エノはびっくりしてその影を追う、そこには先ほどとは別のスライムが、生臭い蒸気を立てながらマッチの火にまとわりついていた。

エノは、次にリゼを見る。するとリゼもまたびっくりした様子でその光景を眺めていた。


「気づいてたわけじゃないんだ」

「―…まさか」


目を見開いたままそれだけ言うリゼにさらに質問する。


「じゃあ何でこんなこと出来たの?」

「いや、追ってこられたら嫌だから用心を重ねただけなんだけど…まさか真上にもいただなんて…」

リゼは忘れていた呼吸を思い出し、息を大きく吸うと少し落ち着き、ランタンの留め具を元に戻した。


「危なかったね、そのまま立ち上がってたら頭上に落ちてきてたかも」

「本当、そうならなくてよかったよ…」


マッチはすでに鎮火しており、息絶えたスライムは溶け出し、ただの液体となって流れていた。



リゼは今一度周囲を確認してからゆっくり立ち上がると、スライムだった液体を警戒しながら後ろ足でゆっくりと洞窟の外に出る。


「…なんかどっと疲れたよ」

「うん、私も」


日の光が当たるところまで来ると、彼らは体を正面に戻し再び険しい山道を登って行った。

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