dó
青年は世話焼きな性格らしく、わざわざ桜井と一緒のバスに乗り、オコンネル像の下まで案内してくれた。近くの大学生か、それとも社会人か。もしかすると、暇を持て余しているのかもしれない。
「立派な像ですね。あれがオコンネルですか?」
「そうだよ。彼はこの国の政治家で、カリスマ性の高い男だったんだ」
雄大に立つオコンネルの下には、大きなリュックを背負った観光客が二人、地図を見ながら喋り合っている。この像はダブリンの名物のようで、観光の起点にはぴったりだった。
「それで、君のお父さんはここに来るんだよね?」
「そのはずなんですけど……。まだ来てないみたいです」
目の前の信号を渡るのは、どれも地元の人ばかり。桜井はしばらく目を凝らしていたが、依然父が現れる様子はなかった。そんな彼を嘲笑うかのように、きれいな蝶が一匹、優雅に眼前を横断する。今までに見たこともないような、実に美しい蝶だった。
「困ったなぁ……。空港で連絡したのに……」
「それならさ、あそこのカフェに入らないかい? Wi-Fiが使えれば、連絡も取れるだろ?」
彼が指差す先には、シックな基調が美しい、入り口の大きいカフェがあった。両脇には花が吊るされており、窓もきれいに磨かれている。
「あの店はね、タルトケーキが絶品なんだ。僕が奢ってあげるから、一緒に食べよう」
「そんな、悪いですよ!」
「いいから、いいから。遠慮はいらないよ」
半ば強引に話をつけると、青年は桜井の手を引っ張って、さっさと店の中に入ってしまった。慣れた様子で二人席を選び、カウンターで注文を通す。
「本当にありがとうございます。何から何まで……」
「やだなぁ、そんなに大したことじゃないって。僕はただ、君にこのケーキを食べてもらいたかっただけさ」
戻って来た青年のトレーには、二人分のタルトケーキと、ラテアートの施されたカフェラテが乗っていた。彼は当然のような素振りだが、桜井は頭の上がらない思いだ。
「はい、君の分。僕のオススメのチョコタルト」
「ありがとうございます、いただきます」
舌触りの滑らかな、優しい甘みのビターチョコ。タルト生地もどっしりとしており、食べ応えは十分だった。忘れられない旅先の味とはよく言うが、おそらくこのことを指すのだろう。
「どうだい? 美味しいだろ?」
「はい! とても美味しいです!」
勢い良く返事をする桜井を見て、青年は面白そうにケラケラと笑った。思った以上に良い反応だったようだ。
「君、何だか可愛いね。ふふふ、気に入ったよ」
「えっ? そ、そうですか……?」
「ああ。もしよかったら、名前を教えてくれないかい? 君とはいい友人になれそうだ」
……そう言えば、自己紹介がまだだった。何だか不思議な気分になりながらも、桜井はぺこりと頭を下げた。
「僕は桜井叶……、キョウ・サクライです。東京から来ました」
「よろしく、キョウ。僕はオシーンって言うんだ」
そう言いながら、彼はカップの縁に唇を当てた。繊細なラテアートの表面が、ゆらゆらと揺れ始める。
「キョウは東京から来たんだね。確か、日本の首都だろ?」
「はい。オシーンさんは、ダブリンの出身ですか?」
「いや、違う。僕は詩人だから、国内をあちこち動き回っているんだ」
彼の口から零れた、「詩人」の二文字。今日あまり耳にしないその響きに、桜井は思わず首をかしげてしまった。
「詩人、ですか……」
「そうだよ。この国の物語を話して聞かせるのが、僕の仕事なのさ」
カップの底が擦れて、カチャリと音を立てる。その音を立てた主は、真面目な表情で桜井の瞳を見つめていた。
「……せっかくだから、君に一つ、話を聞かせてあげよう。アイルランドの騎士、フィン・マックールと、彼の送った生涯の軌跡を」
フィン・マックール。知らない名だ。オコンネルと同じ、アイルランドの偉人だろうか。
「彼はこの国で生まれ、この国で騎士になった。この国で、彼の名を知らない者はいない。それが、フィン・マックールだ……」
……そのとき、オシーンのフードに三匹の蝶が舞い降りた。幻想的な羽を持つ、儚く美しい蝶。それは彼の話と相まって、実に神秘の生き物のように感じられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます