第10話 全ては神の導きのままに⑥

 執務室でレオナルドは1枚の報告書に目を通して軽く息を吐く。ここ最近の報告は良いものはこれだけで、しかもささやかなもの。後は憂鬱になりそうなものばかりだ。

 書類には家政婦長室近くの空き部屋の悪臭が漸く取れたという報告が書かれていた。あの忌々しい茶会時はまだ自分まで報告が上がっていなかったが、茶会が始まる少し前に突如悪臭騒ぎが起きたそうだ。

 すぐさま兵士が現場へ駆けつけたが臭い以外に変わった個所は無く、結局原因不明の異臭騒ぎとして臭いが取れるまでの間は家政婦長を始めとした周囲の部屋の者には別室で生活してもらっていた。

 懸念の1つは解消されたが他の厄介な案件の解決の助けにはならない。レオナルドはこれ以上は綺麗さっぱり関心を失くすと報告書を完了済みの棚に仕舞った。

 丁度のタイミングで今後の政策の確認にやって来た宰相に作成した政策書類を渡す。最近はこの時間が憂鬱だが仕事はしなければいけない。

 宰相のベイリー公爵はざっと目を通すと直ぐに渋い顔をし始める。今回も面倒な事になりそうだ。


「……殿下。まずはこの提案の意図をお聞きしたいのですが?」

「雇用問題の解消の為に、浮浪者を見つけ次第労役場並びに救貧院に入れる。貧しい者は賃金を得られ治安も向上する。良い提案だと思うんだが?」

「なりません!労役場も救貧院も名ばかりの酷い場所で碌な食事も与えずに長時間労働を強いているのですよ!あそこは監獄と変わりません!」


 そら来たとレオナルドは心の中で肩を竦める。元々政策に関して厳しい所のある宰相だが、この頃はとみに政策の大半に問答無用で否を出しているのだ。


「まずは各職員の教育の徹底と不正防止の策を!このままでは死者が続出してしまいます!」

「僕が視察した時は皆よくやっていた。それに各施設には神父も派遣されている。彼等が居るなら何も心配ないのに貴方は理想が高過ぎるぞ」


 話は平行線のまま動かない。宰相とレオナルドの間でこんなにも温度差があるのは実情を目の当たりにしたか否かの違いによる。

 労役場や救貧院は王都の急激な人口増加に伴う就職難救済の為に急遽新設された施設である。

 それらに送られた者は須らく仕事を与えられ賃金を得るのだが、何分労働者への扱い方の手引きや職員の教育が未熟な状態で運用を始めてしまった為、肝心な労働者の扱いは決して良いとは言えない。不正防止策も固められていないので、施設の運用に使われる筈の税金は院長などの一部の人間の懐に入る有様だ。

 今もレオナルド達の元に届く書類は数字上は立派だが、実際は規定を守っている施設はほんの一握り。そのくらいやりたい放題なのだ。

 宰相は実情を知っていながら目の前の上司を説得出来ないでいる己の無力さに臍を噛む。そもそも彼が労役場や救貧院の裏を知ったのはレオナルドの代理で視察した事がきっかけで、それまで自分も上手くやれているとすっかり騙されていたのだ。

 視察に訪れたとある救貧院は表面上だけは想定通りの運用がされていた。孤児達には清潔な衣服を与え、体格や体力に見合った仕事と食事、眠るのに十分な広さの部屋、人間として生活するのに必要な物が全て賄われていた。敢えて言うなら食事量はやや少なめだが税金をやりくりしている中でなら立派なもの。そう結論付けられるものだった。


 しかし宰相は視察の途中で妙な違和感を覚えた。孤児達が着ている衣服は身丈は合っているが、やけにダボついていた。笑顔は強張っており、どこか職員である大人達の顔色を窺っているよう。そして職員の孤児達に対する振る舞いに隠し切れないおざなりな雰囲気があった。

 これは何か隠していると察した宰相はその場では特に何も言わず視察を終え、王城に帰るとすぐさま影を呼んで実態を調査させた。

 届いた報告書に書かれていたのは孤児達が置かれた劣悪な境遇の数々であった。

 規定の半分以下の食事量で長時間労働される子ども達。作業の手が止まっていれば鞭で打たれ、酷い罵声を浴びせられ、寝床も寝返りすら難しい程にぎゅうぎゅうに押し込められて碌に休む事すら出来ない。無論普段着ている服だってボロボロだ。

 それだけでなく職員の中には子ども達に汚い欲をぶつけるような人間まで居たそうだ。

 救貧院には宰相の孫とそう歳の変わらない子ども達が大勢居る。報告書を読んでいるこの時にも大人の毒牙に掛かっている子が居ると思うと吐き気が込み上げてきた。

 その為施設の子ども達の死因は大抵は行き過ぎた折檻、餓死、無理な性交によるショック死に分けられる。正にあそこは子ども達の地獄だ。

 一方院長などの上の人間は普段は身なりの良い格好をし、税金を着服し、視察の時にはさも恵まれぬ子ども達の為に真摯に取り組んでいる風を装っているそうだ。


 つまりは清潔な衣服も十分な量の食事も整えられた寝床も全てはまやかしなのだ。我々のような人間の目を誤魔化す為の。

 他の施設も調べさせたが殆どが似たり寄ったりで、何より宰相を驚愕させたのは卑劣な行為を止めなければならない立場にある神父達が、この件に積極的に関わっていたり無関心を貫いていた事であった。

 聖職者たる神父が弱者を虐げているなど宰相も始めは信じられない気持ちでいた。だが複数の影から加担している様子の詳細を報告されてしまえば残念だが認めざるを得なかった。

 もし派遣されて来た神父が院長を始めとした職員の思考に染まってしまっただけなら今回の件は単純な問題で済んでいただろう。しかし教会自体が不正を狙って派遣したのなら場合によっては教会を相手取らなくてはならない。

 考え無しに動いていては瞬く間に破滅が待っており、そうなればこの案件は確実に後の世で国に巣食う病巣になる。水面下で慎重に探りを続けている現状で、先程のレオナルドの強制収容の案は到底受け入れられないものだった。そんなものが制定されてしまえば余計に犠牲者が増える一方だ。

 宰相は心の中で頭を抱える。まさか前代未聞の危機の前に主君の致命的な弱点が判明するとは。彼は既存のものを恙なく運用する能力については申し分ないが、新規の政策の計画能力に欠けているのだ。

 本当は知っている事を全て話してレオナルドの協力を得られれば心強いのだが、逆に彼の怒りを買えば全てを失う可能性がある。

 レオナルドは性格を端的に言えば「良い人」だ。弱者を虐げる思考が分からないし、それは紛れもない彼の美点の1つである。だが唯一の後継者で大切に育てられてきたのもあって人の悪意に疎い部分がある。

 また彼は根本的な所で自分と他者は違う人間なのだと理解していない。自分がやらない、理解出来ない事は相手もそうだと思っている節がある。なので弱者を虐げていると告発してもきっと何故そうする必要があるのかと首を傾げるだろう。この世には己の快楽の為に他者を貶める者や私腹を肥やす為に相手を利用する者が居ると分かっていない。ましてや聖職者も関わっているとなれば妄言だと一蹴されて終わりだ。

 せめて裏帳簿などの物的証拠を入手出来れば不正については白日の下に晒せるのだが未だに隠し場所は不明のままだ。今すぐ解決とはいかないが、せめて相手に釘を刺す程度の事はやっておかなければ。


 「……ならば不定期に抜き打ち検査を実施するのはいかがでしょうか。人間、慣れれば油断が生まれるものです。それを防ぐ為にも有効な手かと」

 「成程一理ある。………分かった、検討してみよう」


 せめてもと出した提案は好感触だったようで、宰相は少しだけ安堵の息をそっと吐く。今はこれが精一杯だが何もしないよりはマシだ。もし可決されたなら検査員の選定は自分も加われるようにしておかなければ。


 幾らか希望が見えたところでノックと共にファティア公爵が鼻息荒く入室して来る。

 最近のファティア公爵夫妻の行動も宰相にとっては頭の痛くなる案件だ。

 王家の親族という体裁を保つ為にもある程度の金銭的な援助を行うというのは過去にも実例がある。だが夫妻はその金を闇カジノに使っているのだ。意外と賭け事に強いのか借金はしていないようだが、援助金をギャンブルにつぎ込むなど本来は言語道断だ。

 宰相がなぜそれを知っているのか。従業員は口が堅いが客もそうとは限らない。カフェや劇場などで油断した利用客達が公爵夫妻の様子を語り、それが偶然他の誰かの耳に入るというのを繰り返して今や社交界でも半数以上の者が知っている。

 だが仮にも彼等は聖女の養親。その影響で社交界において絶大な権力を持っている上に闇カジノについても噂の域を出ず、のらりくらりと追及を躱す事だけは上手い夫妻が相手ではボロを出してくれるのを待つしかないのが現状である。

 そんな増長していたファティア公爵が目を吊り上げ、一目で分かる物々しい雰囲気を漂わせている。これは彼にとって良からぬ事が起きたに違いないと宰相は察した。


 公爵からの報告は正に晴天の霹靂であった。追放された筈のアレクサンドラが何故か王都におり、スラムの人間を何処ぞへと避難させているというのだ。しかも彼女には扱えない筈の魔術を駆使して。

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