第9話 全ては神の導きのままに⑤ ─少女は解放された─
メイは独りで膝を抱えていた。彼女の家は崩れた家から拾って来たガラクタを壁に立てかけただけの家とも呼べない代物で、そこに身体を縮こまらせてなんとか雨風を凌いでいた。
身体に合っていないダボダボの服では昼間は兎も角として夜は寒い。なにせ金が無いから行き倒れた人間から服を剥ぎ取るしかないのだ。
本格的に冬が訪れれば凍死する事はないだろうが、寒さに震えながら夜を過ごすのは間違いない。
そんな彼女を助けようとする人間は誰もいなかった。何故なら周囲の人間も似たり寄ったりでとても他人を助ける余裕はなかったから。此処スラムはそういう場所なのだ。
しかし彼女は産まれた時からスラムの人間だった訳ではない。ごく普通の農村の長女として生まれた彼女は毎日農作業と幼い弟妹の世話に明け暮れ、時折時間があれば友人達と遊んだりするようなごく普通の暮らしを送っていた。
決して裕福とは言えないけれど優しい両親と祖父母に愛され毎日の食卓にありつける、何の確証もないはずの明日を無条件に信じられる日々だった。
そんな暮らしが変わり始めたのは頻繁に来ていた聖女がある頃からぱったりと来なくなって、瘴気がどんどん此方に近付いて来てからだ。
村のはずれにあった瘴気はあっという間に皆の畑を覆い尽くし青々としていた小麦は完全に枯れてしまった。村長の娘のレナと遊んでいた時、大人達が怖い顔をして村長を囲って聖女はいつ来るんだと怒鳴っていたのを今でも覚えている。村長は聖女様は力を蓄えている頃だからもう少ししたらきっと来てくれると言っていた。
ある日父が食料が入った袋を下げて家に帰って来た。嬉しい筈なのに父も母も顔が暗く、自分達は見捨てられたと涙を流していた。
その翌日に豚を潰す手伝いに駆り出された。この村の家は皆豚を買っていて、秋の間に森でたっぷりドングリを食べさせて丸々と太らせてから潰して燻製にする。それが冬の間の貴重な食料になる。
まだ秋になる前だったから豚はあまり太っていない。それでも良いからと言われて燻製にした豚肉の量はやはりいつもより少なかった。
急き立てられるように出来るだけの食糧を用意し続けた両親はある朝、私に荷物を持たせて弟と妹の手を引いて王都まで頑張って歩こうと言って来た。両親は自分以上に大きな荷物を持っていて、あぁ村には帰れないんだなと漠然とやるせない気持ちになった。
私達が家から出ても追いかけようとしない祖父母の事が気になったけれど、両親の「2人は脚が遅いから後で追いかけて来る」の言葉を何故か信じてしまった。両親が自分達の親を見捨てる筈がないと思い込んでいたのもあったのだろう。結局祖父母は置いて行かれたのだと気づいたのは王都に着いてから何日も経った後だった。
幼さゆえにまだその辺の判別がつかず、無邪気に祖父母はいつ来るのかと毎日尋ねる妹弟に私はそのうち来るとしか言えなかった。両親はそうするしかなかった私を見てどう思ったのだろう、今ではもう永遠に分からない話だ。
王都に行けば何とかなると両親は思っていたようだったけど、同じ考えの人は沢山居たようで何処に行っても雇ってもらえなかった。仕事が無かったらお金も貰えない。お金が無かったらご飯も買えない。
領主様に仕えている人がせめてと食料をくれたけど、それもいつ尽きるか時間の問題だった。家や仕事を求めて結局流れ着いたのは1番貧しい人達が集まると言うスラムだった。
ゴミ溜めの匂いが常に漂っていて怖い人がうろついていることもあるけれど、家が見つかっただけマシだった。
幸いな事にアパートの住民達は親切でお金を得る方法を教えてくれた。その日の食い扶持や家賃を稼ぐ為に次の日から父は日雇いの仕事に、自分は母とすぐ下の妹と一緒に花やマッチなど売れそうな物を道端で売る生活が始まった。
1番下の弟も例外ではなく、近所の子達と一緒にゴミ拾いの仕事をするようになった。本来なら、まだ仕事を覚えるような歳ではないだろうに弟は一言も文句を言わなかった。
ある日いつもより花が売れたので、早く報告しようと母の持ち場に行ってみた。これだけあればいつもより沢山ご飯が食べられる。きっと母も喜んでくれると思ったのだ。そうしたら高そうな服を着ている人と母が何か話をしていた。
「失礼。娘さんかな?」
「ええ。あのねメイ、この人が今日の分のお花を全部買ってくれる事になったの」
「ええっ!?凄いねお母さん!」
あの時の自分はただ花が全部入れたことに感動してその裏に潜む意味に全然気付かなかった。
この人と大事な話があるからと男の人について行ってしまった母が帰って来たのは私が眠った後だった。その日以来母は遅くに帰って来る代わりにご飯の量が増えるようになった。
「大事な話」の本当の意味を知ったのはそれからまもなくしてだ。いつものように花を売っていると「金はたんまりやる」と言われながら裕福そうな人に身体をベタベタ触られた事があった。
どういう意味か分からなかったけど向けられる視線と服越しに這う手が気持ち悪くて、無我夢中で仲間の所まで走った。そこで仲間から身体を売る事を生業にしている人の存在を聞かされたのだ。
お腹いっぱいにご飯を食べれる状況に喜ぶ妹と弟とは裏腹に、違和感が確信に変わった私は不安でいっぱいだった。父はきっと母が身体を売っているなんて知らない。だって母は父には「運良く台所の下働きの仕事に就けた代わりに帰りが遅くなった」と言い訳をしていたから。
このままじゃいけない予感はしていたけれど結局何も知らないふりをし続けた。母がそういう仕事に手を出した事を悲しくはないとは言えないけれど、お腹いっぱい食べられる誘惑には勝てなかった。
それから暫く経って、寝ている時に何かの音が聞こえて目が覚めた。音だと思っていたのは聞いた事がないような不穏な両親の大声で、父は「阿婆擦れ」だの「よく騙してくれたな」だの罵って、母は私達にお腹一杯食べさせる為だと言い返していた。嘘がとうとうバレたのだ。
本当は止めるべきだっただろうけど私達を叱る時でも出さない声が怖くて、毛布を被って必死に寝たふりをする事しか出来なかった。
翌日、母は家に居なかった。父に聞いてみると「あいつの話は二度とするな」と低い声で釘を刺された。昨日の喧嘩を知らない妹と弟はそれでもしつこく母の事を聞いて、とうとう父に怒鳴られて泣いてしまった。
その日から母が欠けた生活が始まった。ご飯はまた元の量に、ではなく前よりも更に少なくなった。
毎日遅くまで働いてもご飯の量は一向に増えない。自分も身体を売ればと考えたけれど、母のように家を追い出される可能性を思うと中々踏み切れなかった。
いつまで続くんだろうと思っていた生活は意外と早く終わりを迎えた。父が死んだからだ。高所での作業中に転落してしまい即死だったそうだ。
子どもの稼ぎだけでは家賃は賄えず、結局私達はアパートを出て行かなければならなかった。
スラムじゃ裕福といってもたかが知れてるが貧乏は底なしだ。最終的に行き着いたのはストリートチルドレンが集まる一帯で、そこには私より小さな子も含めて皆ボロボロの空き家で身を寄せ合って暮らしていた。
どんなに貧しくてもひもじくても救貧院に行くよりマシだと皆が口を揃えて言っていた。あそこは子どもの地獄なのだそうだ。そんな所に妹や弟が連れて行かれるかもしれないと思うと恐ろしくて、家族を守る為に身体だって売ってやった。
その頃には辛いとか悲しいとか考えている暇は無かった。それよりも1つでも多くのパンを得る方が私にとってはずっと大事だった。
1日の稼ぎを集金して食料を買うのは自分の役目。あの日もいつも通りに今晩の食料を買って家族が待つ家へと急いでいたのだ。
家が近くなるにつれて焦げ臭い匂いと、大人達の「火事だ!」「逃げろ!」と言う叫び声が大きくなる。一気に背筋が冷たくなって、嫌な予感を肯定するようにどんどんと煙が濃く、強くなっていく。祈りも虚しく辿り着いた家は既に激しい炎に覆い尽くされていた。
その後の事はあまり覚えていない。誰かに抱えられて離れた所まで連れられていたような気がする。
買った筈のパンはいつの間にか無くなっていた。
一夜明けて仲間達が住んでいた一帯は全て炭へと変わってしまっていた。妹と弟はきっと逃げ出せている筈だとあちこち聞き回ったけれど大した成果は得られなかった。ひとまず家があった場所に帰ると無事だった仲間達から妹と弟の服の一部を受け取った。燃え残った物の中で使えそうなのがないか探していたら見つけたそうだ。
家族は皆居なくなった。比較的大きな板を屋根代わりに壁に立てかけて家もどきにするとその中に座り込む。働かなきゃパンは買えないのに身体に力が入らない。周りには自分と同じく火事から逃げてきたのか、服が焦げている子や呆然とした様子の子があちこちで蹲っていた。
自分が今までしていた事は何だったんだろう。お腹は空いているし動けないし、いっそこのまま何もしないで死んだ方が楽になれるんじゃないかな。
それも良いかなと思った矢先だった。突然目の前に綺麗なドレスを着た女の人が現れたのだ。髪は光を反射する豪華な金髪で、琥珀の瞳を持つとてもきれいな女性だった。
リーチェ家の領地に住んでいたメイはすぐに彼女が領主の娘だと分かった。
「お嬢様……?」
ぼんやりとした頭で尋ねると女性は、穏やかな目を向けて「もしかしてうちの領地の子?」と聞いてくる。仄かに香る良い匂いが頭をはっきりとさせてくれる。
「はいそうです!私何度かお嬢様の顔を見た事があります!」
気力を取り戻したメイは必死になって訴える。当主やその奥方と違って、彼女は定期的に領地や自分達の様子を見に来てくれていた。だからメイは彼女の顔を知っていたのだ。
「でもなぜここに?お嬢様は追放されたはずじゃ……?」
追放されたという噂は大人達がよく話していたのを聞いていた。あんなに自分達の事を気にかけてくれた人が何かの間違いだと口々に嘆いていたので記憶に残っている。
彼女とこんな所で会えたのは嬉しいが、もし他の誰かに見つかってしまえば大変な目に合うかもしれない。そうなる前にどこかへ隠さないとと、気力を振り絞って立ち上がろうとするのを彼女が手で制する。
「私の事は心配しなくても大丈夫。それよりも貴女達を此処から逃がす為にこうして来たの」
彼女が片腕を空中にかざすと眩い光と共に道を塞ぐほど大きな門が現れる。魔術を初めて見たメイは瞳を輝かせた。
この場には似合わぬほどの真っ白な門の扉がゆっくりと開かれ、向こう側から柔らかな光が放たれる。それは救いへの扉のようにも思えて、引き寄せられるようにそちらへ行こうとして少し躊躇する。
本当に此処から逃げられるのか、逃げられたとしてどうやって生きていけば良いのか。そんな考えが過ぎった。
「大丈夫、この先は飢える事も辛い思いもしない場所よ。貴女の大切な人だって貴女がこうしているのは悲しいと思うわ」
彼女の話が聞こえていたのか、1人の子どもが緩慢な足取りで門に近づく。それに釣られて続々と救われたい子達が我先にと門へと集まりだした。
「貴女は?どうするの?」
その様子をぼうっと眺めていたメイだが、彼女の言葉にハッとし慌てて門の前に立つ。
潜る直前に振り向けば、彼女は声を掛けてくれた時と同じように微笑んでいた。
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