第3話 死がふたりを分かつまで Side:マリー・レスター
「お二人は神の名の下に、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、死がふたりを分かつまで命の続く限り、共にあり、共に歩む事を誓いますか?」
「はい、誓います」
「誓います」
今日は私が人生で1番輝いている日。私が王太子妃となって更に王妃、つまりこの国で1番偉い女になれる日だ。どんなにこの時を待っていた事か。窓から差し込む太陽も外で歌う小鳥も全てが私を祝福しているように感じるわ。こうなる為の努力に比べればキスの1つや2つなんて安いものよ。
羽根のように頬に唇を寄せて照れ笑い。これがレイモンドの男心を擽るコツ。好みさえ熟知してしまえば、所詮箱入り育ちの腹の探り合いすら知らない坊ちゃんなんて簡単だった。陛下はそれなりに手強い方だったけれど育て方を間違えたわね。
だって周りのこんな冷ややかな視線にも気付かないんだもの。しかも宰相のあの苦しい言い訳も本気で信じじゃって、本当に愚鈍でお花畑で可哀想で可愛いわねぇ。悪いようにはしないから皆さん安心なさって。
誰が何をしようが何と言おうが我がレスター家の邪魔はさせないわ。大体最初にあなた達が受け入れてさえくれたらこんな事にはならなかったのよ。そう、全てはあなた達の所為よ。
お父様、お母様、あんなに苦労なさって…。金で爵位を買った成り上がりだと、庶民の血だと蔑まれて馬鹿にされて、何度も悔し涙を流していたのは今でも覚えてる。
でもそれも今日で終わり。私達は金の他にも権威と尊い血が手に入る。お父様とお母様を馬鹿にしていた奴等は皆傅いて機嫌を窺うようになって、そして私は男の子を産んで将来の王の母になって君臨してやるの。
こうしてレスター家は度々王族と婚姻を結ぶような大貴族にまで成長したのでした。めでたしめでたしでハッピーエンド。今日の結婚はこの第一歩よ。
大方予定通りだったけど、唯一の誤算だったのは婚約破棄されて惨めな人生を送る筈だったあの女に逆に縁談が大量に舞い込んだ事よ。どれも有力貴族の長男で、レイモンドが木偶の坊じゃなかったら狙っていた相手ばかりだった。
あの時に死んでいれば態々あんな茶番をやらずに済んだのに本当にしぶといじゃない。しぶとさで言えば元平民の私達より上なんじゃないかしら?社交界に居られないようにしさえすれば後はどうとでもなると思っていたのに、完全に裏目に出たわ。
でも王妃になれば私がアンジェリカより偉い存在になるんだから、ここは寛大に許してあげましょう。あの女が私の前で礼を取る姿……。きっと何度見ても良い光景になるんでしょうね。
やっと結婚式が終わったわ、次は確か戴冠式ね。面倒でしかないけど今日さえ乗り越えたら後は悠々自適に暮らせるんだから頑張るしかないわね。
あぁ早く王族の紋章が付いた馬車に乗ってみたいわ。どんなに金を積んでも手に入らない王族専用の馬車。それを会場にいる貴族達に見せつけて、悔しそうにする顔を眺めたいわ。
そんな時よ。アイツがやって来たのは。
急かす気持ちを宥めながら外を目指していたら地面が揺れて転びそうになったの。レイモンドが支えてくれたから無様を晒さずに済んだけど。
当然結婚反対派が決死の覚悟を決めたのかと思ったけど、こんな事になるくらいだったら人間が襲い掛かって来た方がまだマシだったわ。
乱入してきた奴は一言で言うなら人間の成り損ないだった。肉の塊に無理矢理人間の一部を継ぎ接ぎのようにくっつけた化け物。そいつが近くにいた私より年下の神官見習いをあっさりと殺したの。
だってあんなに簡単に人が死ぬなんて。しかもあの化け物の姿、きっと考えてはいけない奴なのよ。叫んで何も考えないようにしていないと頭が壊れそうで、だから咄嗟に叫んでしまったの。
目が合ったわ。次は私だと感じた。
夢中で馬車まで走った。嫌よ、あの少年のようにはなりたくない。だって私の人生これからなのよ。煩い、来ないで、死にたくない、早く連れてって、早く乗せて、早く出発して、早く早く早く!
身体がグッと後ろにのけ反るような感覚と共に窓の外の景色がビュンビュンと流れる。あんなに煩かった喧騒もすっかり聞こえなくなって、さっきまでの光景が悪い夢か何かだと思えて来る。
「私…助かったの……?」
そうよね。私生きてるわよね。あの場から無事に逃げ切れたのよね。良かった。今日はもう帰ってお菓子を食べてお気に入りのアロマを焚いて寝たい。何もしたくないし何も考えたくない。
もう安心だって思った瞬間だった。そうしたら急に椅子の感触が無くなったと同時に尻餅を着いて、こんな時に何の冗談よって怒鳴りつけてやろうとしたら変な場所にいたの。
一見は国内の何処かの地方、でも何かが違うって頭の何処かが囁く場所。
始めはレスター家を邪魔しようとする輩が誘拐したんじゃないかって思ったのよ。でも周囲の景色を見れば見る程その可能性は消えて行った。だってこんな…角度が何もかも狂ってる土地なんてあり得ないわよ。
気味の悪さに鳥肌が立ってきて両腕を擦る。それでもちっとも悪寒は拭えない。
「何、此処…。レイモンド様。私、怖い…」
ついレイモンドに縋るような言葉が出てしまった。正直頼れるような人間じゃないけど、
守りたくなるような女を演出するのも悪くは無いし、彼も満更ではなさそうだから割と良かったかもしれないわね。
それにしても一体御者や兵士はどうしたのよ。無事に王宮まで送り届けるのが御者の仕事で、その間片時も離れずに私達を守るのが兵士の仕事でしょう。まったく使えない奴ね。帰ったら絶対クビにしてやるんだから!
でも今此処で化けの皮が剝がれる訳にはいかないわ。その後の夫婦生活がギクシャクして男の子を産むって計画が崩れちゃうもの。一先ずレイモンドに合わせて帰ったら凄く怖かっただの信用出来ないだの理由をつけてクビにしてもらいましょ。
だからさっさと私達を見つけなさいよ。今なら鞭打ちの後クビにするだけで済ませてあげるから。
結局は態々この私達が歩いて探しているのに誰も見つからなかった。まさか私達を置いて勝手に逃げたんじゃないでしょうね。だとしたら職務怠慢だわ!この国の王太子夫婦に仕えるのがアンタ達の仕事でしょうに!そっちがその気ならこっちだってやってやるんだから!
帰ったらあいつらにどうしてやろうか頭の中で算段を立てる。紹介状には職務放棄の記載を入れて転職出来ないようにしてやろう。路頭を彷徨おうが家族が腹を空かせようが自業自得よ。そうして自分を慰めていたけど突然鼻につく悪臭の所為でそれどころじゃなくなった。
教会を襲った奴とは違うけど、アレが化け物なら今居るのは悪魔だった。四つ足だけど狼なんて可愛らしいものなんかじゃない。色んな動物の特徴を持っているようでどれにも当て嵌らないちぐはぐな身体。そんな悪魔が涎を垂らして私達を狙っている。
レイモンドは無謀にも悪魔に挑もうとした。バカ、逃げるのよ。アンタなんかじゃ絶対かないっこないわ。
もし彼が倒れたらいつでも逃げれるよう準備はしていた。でも悪魔はあっさりと退散して行ったわ。背を向ける前に私達、というより私達が居る方向を睨みつけていたように思えたけど、何だったのかしら。
兎に角助かって良かった。あ、そうだ。粘液塗れの顔汚いからハンカチで拭っておこう。どうせこのハンカチ、取引先からの贈り物だし汚い顔を近づかれたくないし。
後は軽く上目遣いで格好良かったって褒めてやれば、夫の思わぬ勇ましさにキュンとしてしまった可愛い妻の出来上がり。
こんなので上機嫌になってくれるんだからホント単純よね。あの女、頭が良くて国の事を考えてるって評判だったけど、男を喜ばせる技術は無かったようね。だからレイモンドのようなタイプからは疎ましく思われて捨てられるのよ。
でもいくら私でも取り繕うには限界があるわ。障害があればあるほど愛は燃え上がるって言うけど盛り上がらせるのも大変なのよ。
はぁ……、早く此処から出て美味しいご飯を食べてフカフカのベッドで眠りたい。人生で最高の日が最悪な日になる前に。
私のそんな切実な願いも虚しく人生で最悪な日になってしまった。探しても探しても会うのは悪魔ばかりで人なんて何処にも居なかった。まだ探していない所はあるけどもう動きたくない。
「ッ…!」
最悪だわ。歩き回っていた所為で靴擦れ起こしちゃった。いい加減疲れたしそろそろ休みたいわ。
「疲れただろうマリー。此処で少し休んで行こう」
そう思っていたら丁度良いタイミングで向こうの方から休憩を提案してくれた。良かったわ、これで休める。
靴を外すと足からは少し血が出てしまっていた。はぁ…彼がもう少し早く休憩しようって言ってくれればこんな事にならなかったのに。
「すまないマリー。もっと早く気が付いていれば…」
「ううんレイモンド様。今さっき痛み出したから」
ついさっき痛みに気付いたのは本当の事。でも思い込みが激しくて物事を自分の都合の良いように考えるこの男なら、自分に遠慮して中々言い出せなかった控え目な女に映る。私は彼のそういう性格に付け込んだ。
彼の応急処置は案外手際が良くて鍛錬が趣味って話は嘘じゃないと感じた。あーあ、それにしても惜しかった。この靴、普段使い用にシンプルにリメイクして取り外したリボンやレースは売ろうと思ってたのに。
彼は同じ物贈る気満々だけど持て余しちゃうのよね。リボンやレースは好きではないけど、貢がせるのに丁度良いし、売ってしまってもバレにくい便利な物だけれども。だいたい私、ファッションはシンプルなデザインが好きだし。
でも全部考えるのは城に帰ってからにしよう。ちょっとレイモンドそんなにくっつかないでよ汗臭い。
本当に私達此処から出られるのかしら?何とはなしに人差し指の先をぼんやりと見つめる。
人差し指の爪の間は少し青く染まっていた。あの悪魔がしつこい所為でハンカチが使い物にならなくなって手袋で代用した、その時に粘液が爪の間に入っちゃったのよね。嫌だわ何かのバイキンが混じってないかしら?早く洗い落としたい……。
「出られると信じよう。それが難しいなら一生此処で過ごすなんて冗談じゃないって気概を持とう」
あら口に出てたかしら。はぁ、貴方は良いわよね楽観的で。私だって冗談じゃないけど、まだ手掛かりの1つも見つかってないじゃない。本当に能天気な男ね。
というか今呼び方がどうのこうのなんてどうでも良いじゃない。この状況本当に分かってるの?呼び方を気にするくらいなら少しは脱出の事でも考えたらどうなのよ?
いい加減実の無い話に付き合うのにも疲れて来たわ。丁度眠くなってきたしちょっとくらい寝ても良いわよね……。
この悪臭に慣れるなんて嫌な物ね。彼より少し遅れて目が覚めて何時でも逃げられるよう構えておく。彼も体力は消耗してるし、次は負けてもおかしくはない。
でもこの時の戦いは少し違和感があった。やっぱり体力の消耗が動きに響いているのか、剣を振るうスピードが素人目から見ても鈍くなっている。対する悪魔の方は無尽蔵の体力を持っているのかスピードに全く衰えが無い。
私でさえヒヤッとする場面があったのにそこを突かないのは明らかにおかしかった。なんだか戦いを長引かせるのが目的のような、そんな動き方をしていた。
そうして悪魔は不意に動きを止めると、気味の悪い笑みのような物を浮かべて走り去って行った。まるで遊んでいたみたい。
一体なんだったのかしら?疑問に思いながらも労おうと近寄ろうとして。
振り返った彼の顔を見て悲鳴が出た。
レイモンドは頭が悪いけど顔は良い男だった。女性を振り返らせる甘いマスクに華がありつつも物腰柔らかな姿勢。一定の正義感を持つ価値観。そんな彼が未婚の貴族女性からのアプローチに恵まれていなかったのは、王となるには余りに頼りない考えの持ち主だったから。つまり結婚してまともに王としての彼を支えようとすれば、苦労が目に見えている相手。
そんなレイモンドの顔が丸っきり分かってしまっていた。眠っている間に何があったのか分からない。目や口はぽっかりと空洞になっていて穴の中は黒く染まっていた。
彼が後ろを振り向いた隙に全速力で逃げ出す。足は地面を踏むたびに痛いけど靴を履いていた程じゃない。
彼がドスドスと普段ならあり得ない足音を響かせて追いかけて来る。私を呼び止めようとする声すら段々錆びついて恐ろし気なものに変わっていく。嫌よ!来ないで!あっち行ってってば!
何で?何でこうなったの?だって休む前は何でもなかったじゃない。あの悪魔と戦ったから?それともこの空間に長くいたから?もしかしたら私もああなっていくの?そんなのイヤ!絶対イヤ!!
「マ゛リ゛ィ…ガァ…グ……」
もう走る元気がない。私らしき名前を呼ぶ化け物の声に咄嗟に身を隠して口を両手で塞ぐ。
結婚式の時はあんなに綺麗だったドレスももうボロボロで、装飾の部分は逃げるのに邪魔だから、取れそうな物は自分で引きちぎった。
幾ら逃げても何故だか化け物になったレイモンドの近くに寄ってしまって、何度目かでそうだ此処は方向感覚が狂うんだと思い出してももう遅かった。
我武者羅に走った所為で足は動かない。レイモンドが近くに居る。その本人は自分が化け物になったのに気付かない。そして帰る手掛かりは無い。
絶望的だ。何で私がこんな目に合うのか。
(お願い…早くどっか行ってよ…。)
祈りながら見つからないよう頭を伏せる。その時小さくカシャンと金属が擦れる音がした。音の出所は折り畳み式の手鏡だった。きっと頭を伏せた時にポケットから落ちてしまったんだと思う。
結婚式の時に叔母様が持たせてくれた手鏡。表面は花を模した宝石が散りばめられていて素敵なデザインだと思っていた。
拾おうとして手が止まる。
手鏡は落ちた拍子に蓋が開いてしまっていた。そこに映るのは見慣れた私の顔の筈だった。
ヒュッと息が漏れる。
利き腕を持ち上げて掌を頬に当てる。
鏡の中のも同じ動きをする。
私の顔!私の顔!ワタシノカオガァアア!
顔は小さい頃からの自慢だった。
パッチリと大きな丸い目。緩くカーブを描く形の良い眉。小さくそれでいて高い鼻。ぽってりとした色気が漂う唇。それらパーツが全てバランス良く配置された全体。
この顔のお陰で大人達から「可愛い」とチヤホヤされたし、男の子から告白されたのだって1度や2度じゃない。同い年の女子からやっかみを受ける事はあったけれど、大した顔じゃない女達からの視線なんて眼中になかった。真実顔だけで勝負は出来ないと痛感したのはアンジェリカただ1人だけだった。
そんな私の顔が。自慢の顔が。
レイモンドと同じように目と口が空洞に変わってしまっていた。
衝動的に叫んでしまって慌てて口を塞いでももう遅かった。レイモンドは物凄いスピードでこっちに寄って来る。動かない身体に何とか鞭打って立ち上がって、そこへ後ろから巨大な影が降り注いだ。
「化け物……」
目の前のレイモンドはもう人間の形をしていなかった。上半身は人間で下半身は獣、首は異様に長くて頭部は顔が前に伸びていた。その顔の目の部分の空洞が私を見て…私を見て……。
闇と目が合った。
化け物が腕を伸ばしてくる。身を捩って躱そうとした。掴まれる。我武者羅に振りほどこうとする。向かい合わせられる。腕を突っ張って耐える。抱きしめられるように捕まる。叫んだ。
嫌だ止めて助けて手がお父様お母様誰か怖い逃げなきゃ何処へ腕が夢であって苦しい痛い殴りたいどうして這ってる寒い私の顔肩が神様嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
離しなさいよ!!この化け物が!!!
(あれ?此処は?)
フッと目が覚めて辺りを見渡す。どうやらいつの間にか石造りの建物の中に居たみたい。その中で壁に立てかけられている絵画が目に留まる。
(あれは教会の…)
その絵画には見覚えがあった。昔の有名な芸術家が描いた、愛の女神が人類初の夫婦となった男女に祝福を授ける有名な神話をモチーフにした作品。結婚式の下見に来ていた時に人だった時のレイモンドがそう説明してくれたっけ。
という事は此処はあの教会の中……?私、帰って来れたの……?
やったぁ!嬉しい!とうとう私、私、帰って来れたんだぁ…!きっと化け物に捕まった時に帰って来れたんだわ。
もう動けないと思ったけど希望が見えて来たわ。此処でならきっと人も見つかるし、城まで送り届けてもらいましょう。食事はもう良いからお風呂に入って寝たいわ。
そうだ、彼の事はどうしましょう。そうね…見知らぬ所に来てしまって獣に襲われた時に私を庇って死んだって事にしよう。これなら涙を誘えるし、彼も「化け物になりました」って伝えられるより勇気ある死で湛えられる方が本望でしょう。
よいしょ……。やっぱりふらつく所為で全然身体が言う事聞かないわね。人が居なさそうなドアばっかり開けちゃうわ。あ、これは礼拝堂に繋がるドアね。此処ならきっと人が居る筈。
そうして開けたドアには十数人くらいの人が居た。あぁ……人、人が居るわ…。私以外に人が居る、それだけでこんなに安心するなんて。
それにあそこに居るのはレイモンドじゃない!あなた人間に戻ってたのね!?え?でも何で私がもう1人居るの………?
「キャアアアアアアアアアッ!!」
ちょ、五月蠅いわね。いきなり叫ばないでよ。分かったわ、貴女私の偽物なんでしょう。私が変な場所に飛ばされたどさくさに紛れて私のフリをして彼を奪おうとしたんだわ。何て不敬な!衛兵!直ぐに彼女を捉えて!王太子妃を騙る大罪人よ!レイモンド!早く彼女から離れて!
って、何で私に剣を向けるのよ!こっちじゃなくてあっちでしょ!レイモンドも偽物を守ろうとしてんじゃないわよ!ホントに馬鹿なんだから!
私にこんな事して許されるとでも思ってるの!?私はマリー・ステュアート!レイモンド・ステュアートの妻にしてこの国の王太子妃よ!無礼者!道を開けなさい!
ああもう!行っちゃったじゃないの!何なのよこの国の兵士は!本物と偽物の区別がつかないって一体教育どうなってんの!?
もう決めたわ!帰ったらまず真っ先にあんた達の処分と軍の再編成をしてやるんだから!レイモンドに頼んでやってやる!文句は言わせないわ!悪いのはあんた達なんだからね!
ちょっと触らないで頂戴!あんた達が気軽に触れて良い存在じゃないのよ私は!都合が悪くなるとすぐこうなんだから!もう決めたの!
「いい加減にしなさい!私こそがマリー・ステュアート!控えなさい!」
うわ…虫か何かが口の中入っちゃった、最悪……。変な化け物は来るし変な場所に飛ばされるし、そこでも変なのに襲われるし…。
ドレスはボロボロ、髪はぐちゃぐちゃ…。こんなの女達に見られたら絶対馬鹿にされるわ……。おまけに偽物は現れるし、レイモンドは折角人間に戻ったのに偽物に騙される馬鹿さ加減だし。
もうレイモンドは首輪を掛けてやる。絶対に私に逆らえないようにしなくちゃ私の気が済まないわ。兵士はクビなんて生易しい処罰から変更よ。死刑よ、死刑にしてやるわ!
あれ?身体が動かない…。誰よドレスに剣を突き立てたのは。ちょっと待ってよ!床に押し付けてなにするつもりなの!?
この時、私の脳裏に過ったのは女にとって最悪の出来事だった。今の私は偽物のマリーだと思われている。王族を騙るのは勿論の事、その妻を騙るのも大罪。極刑ものの大罪人へのリンチは叱られはすれど重い処罰にはならない可能性が高い。だってどうせ処刑するんだから、情報を割る為の口さえ問題なければ後はどうなろうと支障はないから。
だってドレスがどんどん……。違うわ!私が本物のマリーよ!そういうのは偽物相手になら好きなだけしても構わないから!いやぁ!助けて!お父様!お母様!誰でも良いから!
助かりたい一心で夢中で誰かの腕を掴む。目が血走っている男達に囲まれた今の状況ではどの男の物かは分からないけど。でも、きっとこれで冷静になって私が本物だって気付いてくれる筈…。
裏切られた。切られた。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い熱い痛い死んじゃう嫌だどうして何でこんな目に私はただ幸せになりたかっただけなのにお父様お母様頑張っただけなのに気付いてくれないあの女が何かやったの?許さない助けて死ぬのは嫌死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない
「死にたくない……」
プライドも怒りもかなぐり捨てた私の心からの願い。でも誰も聞いてくれる人は居なかった。
痛みに耐えて、死ぬかもしれない恐怖に怯えて、どれくらい時間が経ったんだろう。突然兵士達の動きが止まった。
もしかして私を襲ったのは間違いだったって気付いてくれたのかもしれない。でも何だか様子がおかしかった。皆嬉しくて仕方がないって感じの顔をしてて、「死んだぞ」って喜んでる。
どうして?私まだ生きてるのに…。何で死んで喜んでるの…?
訳が分からなくて、何が起きたのか知りたくて、動けない中どうにかして周りを見渡す。何処かの窓が割れたのか、床に落ちた複数のガラス片が目に留まった。
そこに映ったのは私であって私じゃなかった。見慣れた美貌は跡形も無く、あの時の悪夢のような目と口が空洞に変化した人間じゃない顔だった。その顔が私を追いかけていた化け物レイモンドのお腹から生えていて、1つの生き物みたいに…。
そこまで認識して漸く私は思い出した。見つかったあの時、レイモンドからは逃げきれていなかった事を。
化け物と目が合って、逃げようとしたけど捕まって。抱きしめられた私は直ぐに異変を感じた。
人と違う肌が触れるのが気持ち悪くて咄嗟に腕を突っ張って耐えようとした。でも化け物の身体が手を、手を飲み込んだ次は腕をと、どんどんと飲み込んでいって。離れようとしたけど化け物の力は強くて逆に飲み込まれるのが早くなっていって。次第に頭まで飲み込まれて視界が真っ暗になって、気が付いたら此処に居たんだ。
という事は私、化け物の一部になったの?あの人間じゃなくなったレイモンドに取り込まれたの?
いや……そんなのイヤ……。私こんなので一生終わりたくない。こんな化け物と一緒に居たくない…。ねぇお願い気付いて。私は化け物じゃないの、私はまだ人間なの。化け物に取り込まれただけなのよ。だからお願い、誰か助けて。私を化け物から取り出してよ。
こんな醜い姿イヤ。頭がおかしくなりそうよ。お願いだから…。何でもするから…。誰でも良いから助けてよぅ…。
何度も訴えようとしたけど力が入らなくて全然声が出せない。兵士達は皆怖い顔で化け物の身体を叩いたり蹴ったりしている。私の部分じゃないからか痛みは感じないけど、皆の顔がとても怖かった。だって仇を見るような憎しみや怒りが篭った目をしていたから。
僅かな希望に縋って祈ってみるも誰も気付がついてくれないまま。徐々に視界がぼやけてあんなに大きかった怒鳴り声も聞こえなくなってきて、遂には目の前が真っ暗になった。
誰も助けてはくれなかった。
「今日のクッキーの味は初めてだけど美味しいわね。また作ってもらえるよう頼めるかしら?」
「かしこまりましたアンジェリカ様。きっとパティシエも喜びますよ」
兵士と化け物の殺し合いの決着が行われた頃、元王太子の婚約者であり幼馴染でもあるアンジェリカは向こうの惨事も知らずに中庭でのお茶を楽しんでいた。良い意味で注目を集めている彼女だが、心に傷を受けた娘を休ませたいという当主の計らいで、全てを両親にまかせてこうしてゆっくりと養生をしているのだ。
「それにしてもあのレスター家の女狐ったら!何度思い出しても腹が立ちます!」
「ふふ、まだ怒っているのアンナ?あれはお父様が宰相様に直談判してくださったでしょう?」
「当然でしょうとも!ですがあんな厚顔な振る舞いをした事実に変わりはありませんよ」
彼女の侍女であるアンナが憤慨しているのには理由があった。実はマリーがアンジェリカ宛に結婚式の招待状を贈っていたのである。
人の婚約者を奪っておいてなお重ねる狼藉に当主は当然抗議した。本人達は勿論取り合わないだろうから宰相に。これで王家からスプラット家への賠償金の額が更に跳ね上がったのだが、この事態を引き起こした当人は知る由もない。十中八九マリーは態とやっていたのかもしれないが。
「お茶のお代わりはいかがしますか?」
「そうね、頂こうかしら」
主人の意向を受けてアンナはポッドを持ち上げようとする。不意にアンジェリカは片手を持ち上げると。
パチリ
指が小気味よく弾く音と共に文字通り全てが制止した。ポッドを持つアンナも、木々のざわめきも、仲睦まじく囀る小鳥も、鮮やかな羽根を広げて舞う蝶も、優しくそよぐ風も、麗らかに降り注ぐ太陽の光も、文字通り何もかもが制止したのだ。
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